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石段で一席

平井が林の中で稽古を始めたのは、近所から苦情が来たためだった。
部屋で声を出していると、隣の壁を叩かれる。昼ならいいと思っていたが、隣の人は夜に働いていた。最初に謝りに行った時、平井は職業を聞かれ、アルバイトですと答えた。落語をしていることは言わなかった。

師匠に稽古をつけてもらえるのは、月に二、三度だった。そこで前の噺ができていなければ、同じ所を何度でもやり直す。平井は覚えるのが遅く、覚えてからも声が固くなる。
一緒に始めた者が先へ進むたび、家で稽古する時間が増えた。師匠に言われたことを、そのまま口に出して直せればよかったが、どこをどう直せばいいのか分からなくなる日もあった。

河川敷の先にある林には、昼間なら誰も来なかった。土手から奥へ入ると、川を見下ろす古い石段があり、最上段だけが広くなっていた。平井はそこへ畳んだバスタオルを敷いた。
正面には、人家も道もなかった。
木と木の間を見て喋るのは、壁に向かうより楽だった。自分の声が少し遅れて返ってくることもあった。川の向こうにコンクリートの壁があるので、そのせいだろうと思っていた。

半月ほど通った昼、初めて笑う声がした。
平井が噺の中の男を叱りつけたところで、短く、へっ、と誰かが笑った。
言葉を止めて見回した。土手の道に人影があった。帽子をかぶった人が、こちらへ手を振っていた。平井は会釈して、その場を離れなかった。
誰かに聞いてもらった。
そのことが嬉しく、恥ずかしさは後から来た。

翌日も同じ所で声がした。
土手には誰もいなかった。今度は、もっと近い木の向こうからだった。平井は途中でやめずに続けた。最後まで聞いてほしかった。
噺が終わり、タオルから膝を外すと、石の向こうで誰かが大きく息を吐いた。
平井は慌てて姿勢を戻した。
「ありがとうございました」
林へ向かって頭を下げた。顔を上げても、誰も出てこなかった。

それから何日か、客はいたり、いなかったりした。
いつも同じ所では笑わない。平井がうまく言えたつもりの場面で静まり返り、つかえて言い直すと、奥で息を吹くような声がした。
馬鹿にされているとは思わなかった。笑うなら何でもよかった。アルバイトへ行く前に一席やると、体が軽くなる。林へ行けない雨の日は、ずいぶん長く感じた。
誰にも話さなかった。こんな稽古をしていると知ったら、師匠は何と言うだろう。それを考えるより、声が返る方へ顔を向けるようになった。

一度だけ、他の弟子を誘った。
相手は午前中に別の用事があり、来なかった。平井は一人で座った。
その日は、木々がひどくざわついた。頭上に風はなく、地面に近い葉だけがあちこちで動いた。笑い声は、平井の背後からも聞こえた。
平井は噺を途中で止めた。
「今日は一人です」
そう言ってから、なぜ断る必要があったのか自分でも分からなくなった。
ざわめきはすぐに収まらなかった。誰かが上着の裾へ触れた。平井は立ち上がり、少し離れたところへタオルを敷き直した。誰かの場所に座ったのだろうかと考えた。

夏の終わりに、平井は小さな会へ出してもらった。
客は十五人だった。
林で何度も繰り返した噺をかけた。言葉は間違えなかった。それでも、笑いはほとんど起きなかった。笑ってほしい所で、平井は一度客の顔を見てしまった。一番前にいた女の人が、喉を押さえて小さく咳をした。
その後の言葉が早くなった。
師匠は終わってから、誰を待ってたんだ、と聞いた。
平井は答えなかった。

翌朝、いつもより早く林へ行った。
タオルを敷く前から、木の向こうに声があった。誰かと誰かが話している。平井には、言葉までは分からなかった。
「おはようございます」
挨拶をすると、声が止まった。
平井は座り、昨日の噺を始めた。始めてすぐに、笑いが起きた。まだ笑うところではなかった。
腹が立った。
昨日の客の前で、なぜその声がなかったのか。馬鹿げたことだとは分かっていたが、平井は本当にそう思った。

声を張り、いつもより大きく身振りをつけた。
林のあちこちで笑いが起きた。
平井が言葉を止めても、続いていた。笑っている顔を見たくなった。先ほどまで喋り声のしていた木へ、座ったまま体を寄せた。
根元に、白い布が見えた。
土で汚れた袖だった。その先に、細い腕が出ていた。
平井は、やっぱり人がいるのだと思った。

顔は、幹の向こうにあった。
半分しか見えなかった。大きく開けた口に、歯が数本残っていた。下の歯が前へ倒れ、唇へ刺さっている。それでも口は動き、笑い続けていた。
人は地面へ横たわっていた。
その背後にも、もう一人いた。立っているのではなく、地面へ倒れた枝の隙間に体をはめるように、斜めになっていた。胸の布が裂け、そこから細い枯れ草が突き出ている。
二人とも、平井を見ていなかった。
目のある辺りが、土に埋まっていた。

平井は体を戻した。
膝の上で、手が震え始めた。
林の客は、ずっと同じ調子で笑っていた。座っている石のすぐ下からも声がした。足を引こうとして、平井はタオルを踏んだ。よろけて掌をつくと、石段の隙間に、人の爪が揃っていた。
指先だけが、こちらへ出ていた。石を押さえているように見えた。
平井は立ち上がった。

笑いが止んだ。
本当に、一度に止んだ。
静かになると、川の音と、土手を走る自転車の音が聞こえた。
平井は荷物をつかんだ。
その時、林の中から低い声がした。
「まだ」
ひと声だけだった。

平井は立ったまま、自分がどこで噺を止めたか思い出そうとした。
最後まで話せという意味なのだろうか。そうでなければ、何をしてほしいのだろうか。
木の根元の口が、ゆっくり閉じた。唇へ刺さっていた歯が、皮膚の下へ潜った。
平井は目を逸らし、つかんだ鞄を置いた。タオルを敷かずに膝を折った。冷たい石の感触で、何をしているのかが余計にはっきりした。
客のために座ったつもりだったが、そうではなかった。
立って帰る勇気がなかった。

噺の続きを話した。
同じ言葉を二度言った。登場人物の名前を間違えた。笑いは起きなかった。
平井は林を見ず、目の前の地面へ視線を落とした。そこにも指があるかもしれないと思い、目を閉じた。目を閉じると、声の来る方へ顔を向けそうになった。
自分の噺は、こんなに長かっただろうか。
息を吸った時、すぐ耳元で、誰かも息を吸った。
平井は息を止めた。隣の息が、先に吐かれた。

噺を締める一言まで来た。
平井は、そこで初めて迷った。
これを言えば、また笑うのだろうか。今度は、どこで笑うのだろうか。
林で練習を始めてから、客が笑うのを怖いと思ったのは初めてだった。
何も言えないでいると、背中へ柔らかいものが触れた。布のようだった。平井の上着を引っ張らず、背中へ貼りついていた。
平井は、最後の言葉を言った。

何も起きなかった。
笑いも、息継ぎも聞こえなかった。
平井は頭を下げた。上げる時、目を開けないようにした。それからタオルと鞄を抱え、石段を下りた。
背中に触れていたものは離れた。
下の道へ足がついたところで、上から笑い声が降ってきた。平井は振り向かなかった。さっきまで自分の尻が載っていた、最上段の辺りからだった。

それきり林へは行かなかった。
師匠には、声を出す場所を探していると話した。近くの公民館が午前中なら安く借りられると教えられた。最初の月は金が足りず、アルバイトを増やした。
林の話はしなかった。師匠が信じてくれるとは思えなかったからではない。
聞かれたら、何度通ったかを答えなければならなかった。

二年後、平井の出る会を見に行ったことがある。
客席の前に、顔見知りらしい人が何人か座っていた。よく笑う人たちで、一言言うたびに声が上がった。平井はそれを聞いても、すぐに次の台詞へ移った。
帰りに感想を聞かれたので、笑いを少し待った方がよかったのではないかと言った。
彼は、分かってる、と答えた。
「でも、待っている間に聞きたくなるんだよ」
何を、と尋ねた。
平井はしばらく考え、まだ自分の話を聞いてるのかどうか、と言った。
「あそこで笑ってた連中、俺が喋ってるから笑ってたとは限らないだろ」
私が答えられずにいると、彼は次の稽古の時間を気にして、手帳を開いた。

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