森田が事故の現場でカメラを構えたので、私はその肩を押した。
「撮るなよ」
森田はシャッターから指を離し、こちらを見た。怒りはしなかった。車は写らないよ、とだけ言った。
レンズは確かに、車と反対側を向いていた。
その日の朝、二人で山道を走っていた。
紅葉を撮るつもりだったが、目当ての駐車場がいっぱいだった。私は帰ろうと言い、森田は別の場所を知っていると答えた。彼と撮影に出かけたのは二度目で、運転も任せていたから、私は従った。
沢沿いの細い道へ入ったところで、前を走っていた軽自動車が止まった。少し先に、ガードレールへぶつかった車があった。
運転席側が大きく潰れていた。
先行車の男性は、すでに電話をしていた。私も車を降りたが、何をすればよいか分からず、道の端に立った。
事故車の中から、苦しそうな声が聞こえた。
顔を見ようとして近づきかけた私に、男性が、そこにいて後ろの車へ合図をしてくれと言った。私はカーブの手前へ戻り、両手を振った。
森田は三脚を出していた。
それを見て、私は一度、彼の肩を押しに行ったのだった。
警察と救急の人が来た。私たちは話を聞かれ、名前と連絡先を伝えた。
その間も森田は、谷の方を何度か見た。救急車が動き出すと、私もそこにいる理由をなくした気がして、戻ろうと声をかけた。
森田は、あと少し、と答えた。
谷底の小川を見ている。紅葉は向こうの山にあり、その位置からでは葉もほとんど写らなかった。
「まだ何か来るのか」
私が聞くと、森田は頷いた。
「来ることがある」
彼はレンズの蓋を外し、私に車へ入っているよう言った。
私は従わなかった。何を撮るのか確かめておきたかった。
写真をやっている者は誰でも、撮りたいものがある。だが、何が目当てかさえ相手へ言えないような撮り方を、私はしたくなかった。
森田はファインダーから目を離した。
「車は撮ってない。本当に」
「じゃあ何を撮ってる」
「通るやつ」
その言葉の意味を聞き返す前に、彼はカメラへ顔を戻した。
私は腹を立てたまま、隣に立っていた。
谷の向こうで、枝が揺れた。
一本だけだった。風が吹けば周囲も動くはずなのに、長く張り出した枝が、下へ押し曲げられていた。何かが載っているようだった。
その枝が跳ね戻ると、少し離れた枝が曲がった。
私はカメラを持っていなかった。車へ取りに戻ろうとして、足を止めた。そんなものがいるのかと確かめるために来たわけではなかった。それでも、今、ここにあった。
音が近づいた。
木の枝を踏んでいる音ではなかった。水の中で、鍋を引きずっているような音だった。硬い縁が石に当たり、少し離れ、また当たる。
沢を渡る場所に目を凝らした。水面がへこんだ。
透明な何かが、浅い川へ足をつけたようだった。濡れた形が一瞬だけ見えた。丸く、幅があり、指らしいものはなかった。
その足が上がると、水が元に戻った。
森田が小さく、そっちじゃない、と言った。
目線はもっと上だった。
私は木の上を見た。
枝と枝の間に、人の服が引っ掛かっていた。灰色の上着だった。袖が一つ、谷の上を向いている。枯れた枝へ引っ掛かっているように見えたが、上着だけが滑るように動いた。
その隣にも服があった。
茶色いズボンが、腰のところから二つ折りになっていた。中身があるように膨らんでいる。風には揺れず、同じ高さのままこちらへ進んできた。
私は、あれは人ですかと聞いた。
森田は返事をしなかった。
小さな靴が見えた。
大人の服より低い所にあり、左右が揃っていなかった。片方は踵を上に、もう片方は横を向いていた。靴の先から細い足首が出ていた。
私は森田の腕をつかんだ。
彼はカメラから離れず、いま声を出さないでくれと言った。
見えないものが、谷を上っていた。
その体の外側に、人が何人もついていた。
服が見える者と、手だけの者がいた。細い腕が途中で消え、その先に体があるのか分からない者もいた。
一人の顔が、木の陰から出た。
目を大きく見開いた、若い女だった。口も開いている。顎へ黒いものが垂れ、その下に、金色の鎖が光っていた。
笑っているようには見えなかった。
女の頭が傾いた。
こちらへ顔を向けたのではなかった。載っているものが動いたために、揺れたようだった。腕が垂れ、白い手の甲が枝に当たった。
私は、何かしなければと思った。
けれど、その人は木より高い所にいた。足場も梯子もない。こちらへ呼びかける声もなかった。私が持っているのは携帯電話だけだった。
電話を取り出した。
何を伝えればよいのか分からず、画面を点けたまま持っていた。
森田がカメラを下げた。
「渡るから、少し下がろう」
車道を横切るという意味だった。
私は彼に続いて、道の脇へ下がった。谷の側から大きな風が来た。木の葉が路面を横へ走った。
何も見えない場所が、道路の上を通った。
向こう側の茂みが一度に倒れた。その上に、人の足の裏がいくつも並んでいた。大きさも向きも、揃っていなかった。
私はしゃがみ込み、頭を両腕で囲った。誰かに触られると思った。
音は、道の上を越えて山へ入った。
しばらくの間、葉の動く場所を目で追うことができた。やがて枝も動かなくなり、向こうの斜面には、いつもの山しかなかった。
森田が三脚を畳み始めた。
私は、女の人がいた、と言った。
森田は頷いた。
「前より増えてたな」
私は彼を見た。彼は下を向いたまま、脚の留め具を一つずつ外していた。
車へ戻っても、私は助手席へ乗らなかった。
谷の女は、まだ生きていたのではないか。あの足首や手は、人のものだった。森田にそう言った。
彼は、分からない、と答えた。
「分からないなら、どうして撮ってるんだ」
「分からないから撮ってるんだよ」
私は言葉に詰まった。彼が誇らしげに言ったのなら、まだ怒れたかもしれない。森田は疲れた顔で、カメラを鞄へしまっていた。
彼は四年前に初めて見たという。
別の山だった。その時は、黒い犬のようなものが一つ、空中を運ばれていた。道路で車にはねられた犬がいたから、それと同じだと思った。ただ、近づくことはできなかった。
次に見たのは、人が二人だった。
それが今日の場所かと聞くと、違うという。県も違っていた。
「事故の後なら来るのか」
そう尋ねると、森田は首を振った。
「来ないことの方が多い」
私は、森田がどれくらいの場所へ行ったのか聞いた。
手帳を出すかと思ったが、彼は覚えていないと答えた。
「人が死んだ場所へ、行ってるんだろ」
「そういう場所もある」
何が違うのか説明してくれと言うと、彼は、さっきの人はどうなったか分からないだろ、と言った。
救急車で運ばれた人のことだった。
私は、その人が助かれば、何かを取り違えたままで済むような気がした。森田に結果を聞く気にはなれなかった。
あの日は駅まで送ってもらった。
車の中では、ほとんど話さなかった。一度だけ、私が横を向くと、森田は前を見たまま、写真を見せようかと言った。
断った。
目で見ただけでは分からなかった。写真なら何か見えるかもしれない。それは考えたが、彼と一緒にその続きを始めたくなかった。
森田は、それ以上勧めなかった。
職場では、それまでどおり接した。同じ部署ではなく、顔を合わせることも多くなかった。
しばらくして、彼は別の営業所へ移った。私たちが出かけた話を聞いていた同僚が、向こうにも撮影仲間がいるらしいと教えてくれた。
「女の人と、よく出かけてるって」
その一言に、私は森田へ連絡をした。
ひどく勝手なことだと思う。相手が男なら、何も言わなかったかもしれない。
電話に出た森田に、一緒に行く人には先に話した方がいいと言った。
彼は、何を、と聞いた。
私はあの谷のことだと答えた。
「話したよ。ちゃんと」
嘘かどうか、確かめようはなかった。森田は、彼女の方から行きたいと言ったんだ、と付け加えた。
私は電話を切った。
今も、写真を見なかったことを正しかったとは思えない。
あの女の人は、何かからぶら下げられていたのかもしれない。自分の腕でしがみついていたのかもしれない。
見えないものがどちらへ向かっていたのか、その行き先を森田がもう知っているのか。
知らないでいたいと思うたび、いちばん顔を背けたのは自分だったのだと、思い出す。


コメント