屋上で食べていいと教えてくれた人は、自分ではそこへ行ったことがないと言った。
私は新しく入った派遣先で、まだ昼を一緒に食べる相手がいなかった。休憩室へ行けば席はあったが、誰の場所か分からない椅子へ座るのが苦手だった。天気もよかったので、コンビニの袋を持って上へ行った。
そのビルの屋上庭園は一般にも開放されていた。
エレベーターを出ると、低い樹木を植えた鉢が並び、間に長いベンチがあった。風が強く、葉の裏が白く返っていた。柵の向こうには、隣のビルの壁と大きな道路が見えた。
人は十人ほどいた。みんな静かに弁当を食べていた。
私は入口に近いベンチへ座った。
袋からパンを出すと、風で包みの端が持ち上がった。膝で押さえながら食べた。近くの植木の向こうに、白いシャツの女の人がいた。背中をこちらへ向け、細い弁当箱を膝へ載せていた。
食べるたび、肩が小さく動いた。
私はその人の向こう側にもベンチがあるのかと思った。あちらは日陰で、涼しそうだった。
女の人が立ち上がった。
弁当箱を持ち、私のほうへ歩いてきた。顔が見えるはずだった。
背中だった。
白いシャツの後ろ身頃が、こちらへ向いたまま近づいてきた。後ろ歩きではない。膝は進む方向へ曲がり、爪先もこちらへ出ていた。
女の人は私の横を通り、入口へ消えた。
私はパンを口の中へ押し込んだ。
噛むことだけに集中した。後ろ向きに見えただけかもしれない。身体の細い人で、髪も短かった。服の前後を一瞬取り違えることはある。
そう思い、包みを畳んだ。
隣のベンチの男が水筒を飲んだ。私のほうを向いていたが、水筒は背中の真ん中へ当たっていた。
男の襟足が動いた。
飲み込む喉の動きに似ていた。襟の下が、上下した。
私は目を逸らした。入口へ戻ろうとしたが、床に落ちたパンの欠片が気になった。食べ散らかして去るのは嫌だった。拾うために屈むと、男の足元が見えた。
靴の踵が、こちらへ向いていた。ベンチに座る向きと、脚の向きが合っていなかった。
「落としましたか」
清掃の女の人が声を掛けてきた。
私は欠片を見せた。彼女は小さな塵取りを寄せた。ほうきの先へパンを置くと、いいですよ、と言った。
その人には顔があった。額に汗があり、鼻の脇に日焼け止めが白く残っていた。
私はそれだけで、もう少しここにいられる気がした。
「皆さん、いつもここで食べるんですか」
私は尋ねた。
清掃の人は屋上を見渡した。
「お昼は多いですね」
それ以上の話はなかった。彼女はベンチの間の紙屑を拾い、柵のほうへ進んだ。
私は立ち上がって、少し離れてついていった。話を続ける用事が欲しかった。ごみは持ち帰るんですね、と聞くと、彼女は入口に小さい箱があります、と答えた。
柵の近くで、清掃の人が足を止めた。
ほうきを縦に立て、片手を柵へ置いていた。休んでいるように見えた。
私は隣へ行った。
道路に顔があった。
向こうの信号の先だった。
横断歩道の白い線の間に、大きな顔が上を向いていた。目と鼻と、口があった。広告の絵ではなかった。車が通るたび頬が少しへこみ、過ぎると戻った。
さっき白いシャツで通った女の人の顔だと思った。
顔を見ていないのだから、分かるはずがなかった。それでも、その人だという感じがした。
口が開いた。
歩道を歩いていた人の一人が、立ち止まった。屋上を見上げたようだった。
道路の口が、同じように上を向いた。
その人の身体が、頭から下へ短くなった。しゃがんだのではない。肩が襟の中へ入り、鞄が腰へ近づき、靴だけが路面に残った。
次の車が通ると、靴も見えなくなった。
私は柵から離れた。
清掃の人はまだ見下ろしていた。ほうきを握る指が白くなっていた。
「今の」
私が言うと、彼女は首を振った。
見えなかったということか、言わないでということか分からなかった。私はもう一度呼んだ。
今度は彼女がこちらを見た。
鼻の脇の白いところが、さっきより低い位置にあった。口の横にあった。
私は彼女の腕へ触れた。
制服の袖に身体があった。温かかった。彼女は驚いて、私の手を見た。
「少し、座りませんか」
私が言うと、彼女はうなずいた。
私たちは入口の近くの、誰もいない端へ戻った。彼女はほうきと塵取りを壁へ立て掛けた。それから初めて、大きく息を吐いた。
「いつから、ああなんですか」
訊いてしまった。
彼女は困った顔をした。
「今日、私も初めてなんです」
別の建物の担当で、休んだ人の応援へ来たと言った。
私もここで働き始めたばかりだと答えた。
私たちはそれきり黙った。慣れている人を探していただけなのに、互いに違う側だと思っていた。
日陰の人たちは食べ続けていた。
背中しかなかった。水筒も箸も、服の向こうで動いていた。パンの袋を破る音がした。誰かが小さく笑った。普通の昼休みと同じ音だった。
その下の道路で、信号が変わった。エンジンの音が屋上まで上がってきた。
私は顔を上げなかった。食べかけのパンが膝にあり、もう口へ運べなかった。
入口へ向かって人が歩いていた。
帰る人も、今から来る人もいた。みんな、背中で行き違っていた。狭いところでは身体を少し捻り、すみません、と言った。
正面があるはずの側を、こちらへ見せる人はいなかった。
エレベーターの到着音が鳴った。私はそこで、あと十五分で休憩が終わると気づいた。
清掃の人が時計を見た。
「下へ戻ります」
彼女はほうきを取った。私は一緒に行ってもいいかと尋ねた。
「もちろん」
その普通の返事に、胸が詰まった。何か許されなければ動けない場所にいるような気がしていた。
彼女は作業用の扉へ向かった。一般の入口とは別で、外へ道具を出すための小さな戸だった。
戸の向こうには狭い階段があった。
一つ下の設備のある階へ続いていた。私たちは手すりを持って下りた。誰にも追われなかった。扉が閉まる音が上で響いた。
清掃の人は踊り場へほうきを置き、自分の顔を両手で触った。
私は見ないふりをした。
彼女は掌をしばらく眺め、制服の裾で拭いた。
仕事へ戻る道は、普通に分かった。
借りていた入館証を読み取り機へ当て、自分の席へ座った。向かいの人が私を見て、お昼どうでした、と尋ねた。
屋上へ行ったと言うと、暑くなかったですか、と返ってきた。
私は、風が強かったです、と答えた。話はそれで終わった。
午後の仕事は、何度もやり直した。
窓の向こうが気になった。私の席からは、隣のビルの壁しか見えない。壁に何か映るたび、人の顔ではないかと確かめた。
休憩時間に洗面所へ行った。鏡の自分に、欠けたところはなかった。
ただ、眉を上げると、鏡の中の額が少し遅れて動いた。疲れているときの見え方だと思おうとした。もう一度は試さなかった。
定時で外へ出た。
昼間に見下ろした道路だった。人が歩き、車が走っていた。道路には顔も口もなかった。私は歩道の端に立ち、信号が青になるのを待った。
向こう側で、男の人が足を止めた。
こちらを見ているのだと思った。目が合わなかった。男の目は、私よりずっと高いところへ向いていた。
男が眉を寄せた。
私も眉を寄せた。
彼は後ろへ半歩下がった。
私はそこで動くのをやめた。自分の顔を触りたくなったが、両手を鞄の持ち手へ置いたままにした。
男は屋上を指さそうとして、腕を半分だけ上げた。そばを通る人に何か言った。その人も見上げた。
私は上を見なかった。
顔の前に風があった。屋上でパンの袋を飛ばしかけたときと同じ、強い風だった。地上の街路樹はほとんど揺れていなかった。
私の唇の端に、パンの小さな欠片が触れた。
食べかけは袋に戻し、鞄へ入れていたはずだった。
信号が変わった。
私は人に混じって歩いた。向こう側の男はまだ止まっていた。私とすれ違うときには、顔を見なかった。彼が見ている先に、私も自分の顔を置いてきたのだろうか。
首を反らしかけて、やめた。唇の端へ、また強い風が当たった。
私は歩いた。
交差点を渡り切ってから、口の端の欠片を指で取った。乾いたパンだった。私はそれを包み紙へ挟み、駅へ向かった。


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