文が気づいたとき、その五百円玉は夫の指に貼りついていた。丈司は売上げの小銭を数えているところだった。夜市の客足が途切れ、隣の焼き鳥屋から団扇の音が聞こえていた。丈司は硬貨を振り落とそうとした。落ちないので、文に、剥がしてくれ、と手を出した。
文が爪を掛けると、縁が少し曲がった。ゴムの玩具かと思った。けれど、外して金属の皿へ置くと、ほかの硬貨と同じ音がした。表の模様は擦り減り、何年に作られたものかは読めなかった。文は変な金をつかまされたと思い、売上げとは別に、自分の財布の小さなポケットへ入れた。
夫婦は乾物を売っていた。普段の店とは別に、月に一度の夜市へ出ていた。昆布と煮干しを小袋にし、台へ並べる。つまみになる小魚を買う客が多かった。その晩は売れ行きがよかった。来月の仕入れに回せると、丈司は空いた箱を重ね、文も余分に持ってきてよかったと思っていた。
夕飯を買いに行った文は、財布の中を見て足を止めた。別にしておいた硬貨が二枚になっていた。どちらも縁に同じ小さな欠けがある。よく見ようとして開くと、ポケットの裏地へ寄り添うように二枚が重なった。文は触らず、札でうどんを買った。
店へ戻る途中に、見慣れない露店があった。白い布をかけた台に、小さな靴が並んでいた。文の掌へ載るくらいの大きさで、革は艶があり、どれも新品だった。店主の姿はない。風もないのに、一足だけ靴紐が動いた。文はうどんが冷めると思って、先を急いだ。
丈司は会計の途中だった。釣り銭が足りないと言われ、文は財布を渡した。二人ぶんのうどんを台の裏へ置き、振り向くと、丈司が客へ小銭を渡していた。文は急いで財布を取り返した。小さなポケットは空になっていた。今ここから出したのかと聞くと、丈司は、二枚あっただろ、と言った。
客はもう人混みへ入っていた。灰色のコートの背だけが見えた。文が追おうとすると、別の客が小魚の袋を三つ台へ置いた。丈司は紙袋を開き、文は会計へ戻った。しばらく忙しく、気づくとうどんの汁を麺が吸っていた。文は柔らかくなった麺を食べながら、あの二枚を忘れかけた。
店じまいの時間が近づき、隣の焼き鳥屋が声を掛けてきた。いつもの女将だった。小銭が足りないから両替してほしいと言う。文が小銭の皿を寄せると、女将は一枚を拾い、いいのが入ったね、と言った。指の間で五百円玉が曲がった。文は女将の顔を見た。口元は知っていたが、目を覚えていなかった。
「これ、使えるんですか」
文が聞くと、女将は、もう使ったんでしょう、と答えた。丈司は隣へ小銭を渡し、札を受け取った。女将はそれを見て、明日もよろしく、と言った。夜市はその日だけだった。文は声を掛け直したが、女将は店の奥へ入り、炭を片づける音を立て始めた。
夫婦は残った袋を箱に収め、売り台の端へ寄せた。売上げを数えると、いつもよりずっと多かった。売った袋の数と合わない。丈司は釣り銭を足しているんじゃないかと言ったが、文は違うと思った。空いた皿の底で、五百円玉がゆっくり重なっていた。一枚の縁が開き、その下から同じ硬貨が滑り出てきた。
丈司も見ていた。二人とも、しばらく手を出せなかった。文は皿ごと紙袋へ入れた。紙の底が丸く下がったが、重さは思ったほど増えなかった。外から押すと、硬貨の縁が柔らかくへこんだ。丈司は、どこかへ返したほうがいい、と言った。最初に払った客の顔を、どちらも覚えていなかった。
文は出店の受付へ行った。丈司には空箱をまとめてもらっていた。事務用の机があった場所には、細長い布を売る店が出ていた。文は店主に受付の場所を聞いた。店主は答えず、紙に包んだ反物を差し出した。お待たせしました、と言った。文は注文していないと断った。店主は首を傾け、もう代金は頂いています、と言った。
丈司が空の段ボール箱を重ねて運んできた。店主は彼を見ると、そちらへ積んで、と一番上に紙包みを置いた。丈司は反射的に支えた。その重さで箱が潰れ、文が手を添えた。包みの隙間から、店で使っている暖簾と同じ色の布が見えた。店の名はなかった。代わりに、二人の名字が大きく染められていた。
文は紙包みを押し返した。店主は受け取らなかった。空箱ごと地面へ下ろすと、荷物をそんなところへ、と叱られた。丈司が黙って包みを抱え直し、文が空箱を持った。文はその袖をつかみ、店から離した。道の両側にはまだ灯りがついていた。さっきまで売り物をしまっていた人たちが、一斉にこちらを見た。
道は知っているままだった。角の消火栓も、文が何度も足を取られた舗道の割れもある。けれど、出ている店が違った。金魚屋の場所には布団が積まれ、焼きそば屋だった台には白い茶碗が伏せられていた。茶碗の店から、二客ですね、と声を掛けられた。文は見ないで歩いた。
駐車場へ着くと、軽ワゴンの後ろへ木箱が置かれていた。荷台を開けた覚えはない。箱の蓋に、丈司の名前が墨で書かれていた。運転席へ回ろうとすると、知らない男が伝票を出した。中の品は確認されましたか、と聞かれた。丈司は自分の荷物ではないと言い、車の鍵を握り直した。
男は、またそうおっしゃる、と笑った。文はその言葉が嫌だった。初めて会うはずなのに、以前から困らせている客として扱われていた。男は木箱を軽く叩いた。内側で硬いものが二度ぶつかった。丈司は蓋へ手を掛けたが、文が止めた。確認すれば、受け取ったことにされる気がした。
二人は荷物を車へ積まずに戻った。自分たちの売り台には、黒い布がかかっていた。文がめくると、残したはずの煮干しの袋がない。奥に女の人が座り、丈司たちへ、小さい袋でよろしいですか、と聞いた。文がここはうちの場所だと言っても、女は袋を開いたまま待っていた。
丈司は女の前へ売上げの紙袋を置いた。金を間違えたんだと説明した。女は、足りていますよ、と言った。足りないのではなく余っているのだ、と丈司が言い返すと、女は初めて困った顔をした。文にはその顔がわかった。客の言い分が通じず、次の客を待たせているときの顔だった。
女の後ろには、丈司が作った棚があった。板の傷もそのままだった。そこへ、知らない家の表札が並んでいた。文は一つに、自分たちの名字を見つけた。先ほどの暖簾を思い出した。夫の腕の中で、紙包みが動いた。布の端が少し垂れ、足元へ届こうとしていた。
丈司は暖簾を台へ置き、両手を離した。女が何か言ったが、夫婦は返事をしなかった。紙袋の口を開くと、皿の中へ柔らかい硬貨がいっぱいに溜まっていた。五百円玉の模様がなくなり、表も裏も同じ平らな灰色になっていた。文が皿を傾けると、硬貨は重なったまま離れなかった。
昼間は小銭が足りなくならないか心配していた。売れ残りをどう店へ持ち帰るか相談もした。文はそのことを思い出し、急に腹が立った。目の前の女へではなかった。余分に増えた金を数えていた自分へだった。あのとき、売れたものの数から考えればよかった。文は皿を持ち、舗道へ出た。
硬貨を一枚ずつ剥がして置いた。爪を入れると、紙を裂くような音がした。丈司が隣へしゃがんだ。皿の金だけでは済まない気がして、文は腰の袋から札も出した。その日に客から受け取ったものを、舗道の端へ並べた。初めの釣り銭と混ざっていたが、もう分ける気になれなかった。
道を通る人は足を止めなかった。札を踏みそうになっても、誰も拾わない。丈司が手を伸ばして硬貨を置くと、横から細い手が出てきた。取るのかと思ったが、その手は札の端を揃えた。商売をしている人の早い手つきだった。丈司は顔を上げた。人は立っていなかった。
向かいの灯りが一つ消えた。売り台の端に、煮干しの入った箱が戻っていた。文は札を並べる手を止めなかった。ひどく損をしていると思った。けれど、それを勘定し始めれば、またあの女の前に座ることになる気がした。丈司も黙って、財布の中に残った小銭を出していた。
最後の一枚は丈司の掌に残った。初めに見つけたときと同じように貼りついていた。文が縁を起こすと、掌の皮まで少し持ち上がった。丈司は顔をしかめたが、声を出さなかった。剥がれた硬貨を置くと、模様のない面に白い細かな毛が立った。文は手を服で拭き、夫を立たせた。
車の前の木箱はなくなっていた。夫婦は台を畳み、残った品物と空箱を車へ積んだ。文が助手席へ乗ろうとしたとき、丈司が足元を指した。小さな靴が一足あった。両方とも、紐がきれいに結ばれていた。文が途中で見た店の靴だった。靴底に触れると、誰かが履いていたように温かかった。
置いていこうと、丈司は言った。文もうなずいた。けれど、どこへ置けばいいのかわからなかった。車の陰にはもう露店がなく、裸の舗道が続いているだけだった。さっきまで金を並べていた場所も暗くなっていた。文は靴を車の脇へ揃え、一度は手を離した。
少し歩いて、戻った。靴の中に、白い小さな足が入っていた。くるぶしより上は見えなかった。文がしゃがむと足は消え、靴だけになった。丈司は何も言わずに見ていた。文は左右を重ねず、紙袋へ並べた。取り残していくことができなかった。車が動き出してからも、二人はその選び方について話さなかった。
家に戻ると、売上げは一円も残っていなかった。翌日、夜市の世話役から、台を片づけるのが早かったと言われた。夫婦の荷物がなくなったので、八時前にあの列を閉じたのだという。文たちが客に追われていた時間だった。焼き鳥屋の女将にも電話したが、その夜は休んでいたそうだった。
靴は捨てていない。履く人はいないのに、丈司が店の棚を一段空けた。文は掃除のたびに棚から下ろし、左右を揃えて戻す。底にはもう温かさがない。ただ、手を離したあとで紐が緩む。結び直すと、店の入口から、サイズはよろしかったですか、と声がする。文は振り向く。客は誰もいない。


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