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革の手帳を開く

父の仕事道具で、売れたのは車だけだった。機械は古く、運び出すほうに費用が掛かる。私が見積書を揃えていると、川野さんが軽トラックで来た。父と同じ石屋で長く働いていた人で、戸棚と作業台はもらってくれることになっていた。

父が死んで二ヶ月になる。私は別の町へ嫁いでいたが、週末に戻り、少しずつ作業場を片づけた。母は生前からここへ入らなかった。石の粉が嫌いだと言っていた。私も子供の頃、父へ弁当を届ける以外に来たことはない。床を掃くたび、こんな広さだったのかと思った。

戸棚の奥から、革の手帳が出てきた。焦げ茶色で、角が丸く減っていた。父の手袋に包まれていたが、表紙に粉はついていない。川野さんに見せると、帳場へ置いといて、と言われた。仕事のメモなら残しておこうと思い、ほかのノートと分けて鞄へ入れた。

帰りの車で、ハンドルが急に細くなった。私は路肩へ寄せ、両手を離した。ハンドルは変わっていなかった。左の人差し指の腹だけ、触れている感じがしない。爪で押すと痛みはあった。触れたものの固さや厚さが、その指だけ抜け落ちていた。

夕飯のときには治った。夫に話すと、重いものを持ったからだろうと言われた。私は納得して、食後に手帳を開いた。川野さんの連絡先が書かれていればと思ったのだ。連絡はずっと母を通していた。けれど、最初から何枚めくっても、紙には何も書かれていなかった。

裏表紙へ指を回したとき、左手の感覚がまた消えた。代わりに、冷たい平らなものへ指を当てている感じがした。机は木だった。手帳を離し、指を顔に当てても、冷たいものはついたままだった。表面に細かい穴があり、一箇所だけ深く欠けている。石だと思った。

机へ置いた手帳が、ゆっくり閉じた。真ん中に指を挟んだような隙間が残った。私の両手は離れていた。隙間の中を見ようとして照明へ向けると、表紙が平らに閉じた。机へ戻し、目を逸らすとまた膨らむ。革の下に細長いものが入り、背のほうへ動いていた。

翌日、川野さんへ電話をした。仕事の記録があると思って開いた、と話すと、何枚、と聞かれた。数えていない。私は十枚くらいだと思うと答えた。川野さんは、これからは手袋を外さんでくれ、と言った。それから、できれば手帳を作業場へ戻してほしい、と頼んだ。

父の手袋は作業場へ置いてきていた。私は冬に使う自分の革手袋をはめ、手帳を袋へ入れた。持ったとたんに、手袋の左の指先が濡れた。表面は乾いている。中で、水が人差し指に溜まっていた。私は手袋を抜いた。指は濡れておらず、裏地だけがひどく冷たかった。

作業場では川野さんが待っていた。手帳を受け取ると、自分の厚い軍手で包んだ。私が手袋のことを話すと、それも預かる、と言った。説明してもらえないと渡せない、と私が言うと、川野さんは困った顔をした。父がどう使っていたか知っているだけで、自分にもわからないのだと言った。

父たちは、古い墓地を片づける仕事もしていた。引き取り手のない骨を別の場所へ納め、墓石を外す。十数年前の現場で、移すはずの骨がなくなることがあった。川野さんは細かい話を避けたが、出入りしていた男が持ち出していたのだという。警察が調べても、全部は戻らなかった。

「親父さんが最後に確かめたんだよ。下に落ちてないかって」
川野さんは、作業台の下へ手を伸ばす仕草をした。墓の奥は目では見えない。父は腕を入れ、底と隅を指で探った。終わってから、指の感覚がおかしいと言い出した。触っていないときにも、まだ中を探っている、と言ったそうだ。

手帳は、その前から持っていたらしい。ただ、文字を書いているところを川野さんは見たことがなかった。父は作業のあと、手袋を脱いで手帳を開いた。空白の紙へ順に指を当て、しばらく待ち、閉じた。川野さんはそれを、指に力が入るか確かめる癖だと思っていた。

私は父の右手を思い出した。中指の爪が半分までしかなかった。何に挟んだのか聞いても、若いときにな、と笑って終わった。父は箸も鉛筆も普通に使ったから、不便だとは思わなかった。川野さんに爪のことを聞くと、あの人の手は古い傷だらけだった、とだけ言った。

預かった手袋を返してくれと言うと、川野さんは軍手で手帳を包み直した。帰って使うものなら、持っていかないほうがいい、と言った。私はその言い方に腹が立った。父の道具と一緒に捨てるなら、そう言ってほしかった。手袋は夫にもらったもので、安いものではなかった。

私は軍手を持ち上げた。手帳の脇に、細い光が見えた。革の縫い目から、曲がった針金の先が出ていた。戸棚の釘でも刺さったのだと思い、指でつまんだ。針金は抜けなかった。表紙の内側で何かが回り、私の人差し指を裏から押した。

川野さんが手を払いのけた。手帳が開き、紙が何枚かめくれた。白い紙の上に、爪の欠けた指があった。絵ではなかった。紙は平らなのに、指の厚みがはっきり見えた。私が息をのむと、その指は紙の縁へ動いた。見ようとして顔を近づけたところで、紙が白く戻った。

父の指だと思った。見間違えるほど、知らない手ではなかった。私はページを押さえた。目を上げ、窓のほうを見ると、指の腹へ太い節が触れた。目を戻せば何もない。見つめている間だけ、手帳はただの白い紙になった。触れて確かめようとすると、別の手がこちらへ寄ってくる。

川野さんが窓のカーテンを引いた。見なければいいということではない、と言った。私はもう一枚めくった。今度は、中指の爪が何かの下へ入り込んだ。実際の爪は短く、紙の上にあった。それなのに、爪の付け根が引かれる感じがした。私はページを戻そうとして、うまくつかめなかった。

右手にも感覚が移っていた。指を開いても、何かを握った形のまま固さが残る。私は手帳から手を離した。作業台に触れたはずの掌に、人の額が当たった。冷たくはなかった。小さな傷が眉のすぐ上を横へ走っていた。父が晩年、棚の角へぶつけて作った傷に似ていた。

川野さんは、それは親父さんじゃない、と言った。私は、わかってる、と答えた。わかっていなかった。父の額へ触れたのは、病院で死んだ日だけだった。そのときより温かかった。私はもう一度、表紙へ手を戻した。ここに手を置いていれば、父が目を開けるのではないかと思ってしまった。

表紙の革が、私の手の形へ沈んだ。掌の窪みが二つでき、指の先には爪の跡が残った。私が手を引くと、跡が逆向きに膨らんだ。手帳の中から、こちらへ指を出そうとしていた。親指の位置が左右で逆だった。私の手を覚えたものが、内側からまねているように見えた。

川野さんが古い封筒を持ってきた。私の手の下へ差し込もうとしたが、紙が途中で曲がった。封筒を押さえた川野さんの軍手へ、黒い点が増えた。濡れた泥が下から染み出しているようだった。川野さんは手を引き、軍手を脱いだ。指の腹を見て、唇を噛んだ。

父がなぜ手帳を開いたか、私にはわからない。指へついたものを置いたのか、なくした感じを受け取りに来たのか。けれど、川野さんまで指を入れれば、中にあるものの場所がまた増える気がした。私は封筒を取らせず、手の下で少しずつ引いた。指へ触れていた額が、封筒の端に沿って遠ざかった。

紙を挟んだまま、手帳を閉じた。細い針金は表紙へ戻っていた。私は自分の手袋を取って包み、左右の手首側を重ねた。左右を裏返さないよう、何度も確かめた。川野さんは触れずに見ていた。私の指はまだ、何かの額をなぞっていた。手帳を置いても、その感じはすぐには消えなかった。

そのまま渡すのは、押しつけることだと思った。私がそう言うと、川野さんはうなずいた。自分が最初に見つけておけばよかった、と言った。作業場の奥へ、蓋のある金属の箱を出してきた。父が砥石をしまっていた箱だった。手帳を手袋ごと入れ、私に、ほかのページは開くなよ、と言った。

翌週、作業台を引き取る日に、私は母と一緒に行った。手帳の入った箱は、川野さんの車へ積まれた。川野さんは、墓地の仕事を請けた組合へ相談すると言った。何かの作法で片づくようなことは、口にしなかった。私も頼むほかなかった。空いた戸棚の背板には、父の手形が薄く残っていた。

家へ帰ってから、母に父の傷をどれくらい知っていたか聞いた。母は、全部は知らない、と答えた。仕事の話をしない人だったと言い、洗濯物を畳んだ。父の作業着の袖口をまくると、血が乾いていることが何度もあったそうだ。手帳の話をしようとしたが、私はそのまま黙っていた。

一ヶ月ほどして、手袋が返ってきた。川野さんが母へ届けたのだという。箱と手帳は預け先が決まったと聞いたが、私は場所までは尋ねなかった。手袋は薄い紙に包まれ、洗って返すようにきちんと形を整えられていた。あれほど濡れた裏地にも、染みはなかった。

左手を入れると、人差し指だけが奥まで入らなかった。裏地が丸まっているのだと思い、指を抜いて覗いた。中には何もない。もう一度はめると、今度は全部の指が途中で止まった。右も同じだった。糸で縫い止めた感じではなかった。内側に、私より先に入っている指の腹があった。

窓の外を見たまま、私は手袋を片手で押さえた。爪の欠けた指が、人差し指の先へ触れた。父の手だと思ってはいけないと、川野さんの声を思い出した。手袋へ目を戻すと、ただの冷たい裏地になった。袋にしまおうとして目を離した瞬間、内側の指が一本ずつ曲がり、私の指の長さを確かめ始めた。

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