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六時の留守番

六時になっても、悠介は玄関のチェーンを外さなかった。向こうで父親が鍵を回し、扉を細く開けた。隙間から、いつもの仕事着の腹が見えている。今日は遅くなるから、お父さんと夕飯を食べていて。母は朝、そう言って出かけた。八歳の悠介は、食卓に箸も並べて待っていた。

「悠介、ここ外して」
父の指が扉の隙間を指した。右手にはスーパーの袋を提げていた。袋の底に傾いた弁当が二つある。悠介は床へ座り、靴箱にもたれた。チェーンには手が届く。けれども、居間にいる男に、まだだと言われていた。

その男が来たのは、五時半を少し過ぎた頃だった。悠介がテレビの音を下げると、後ろで咳がした。居間の戸を振り返った。戸の向こうに濃い茶色の上着が見えた。入ってきた音はしなかったし、インターホンも鳴っていない。男は戸枠の陰に立ち、靴下を履いた片足だけを畳へ出していた。

怖いと思う前に、悠介は謝った。何か悪いことをしたのか、わからなかった。それでも相手がずっと返事を待っている気がして、すみません、と言った。男は上着の前を指で叩いた。学校へ提出する紙を忘れたときの先生に似た仕草だった。悠介は床に開いていた連絡帳を閉じた。

男は、今日は決めてもらう、と言った。声は壁のほうから聞こえた。悠介は首を伸ばしたが、戸の陰から顔が出てこない。男は動いていないはずなのに、見ようとしたぶんだけ上着の肩が遠ざかった。テレビの中で犬が走り出し、その音だけが急に大きくなった。

「お父さんが帰ってくるから」
悠介が言うと、男は、そいつでいいのか、と聞いた。もう少し待てば、ほかも来る。悠介は意味がわからず、父が買ってくれるはずの弁当のことを考えた。男は台所へ体を寄せた。冷蔵庫の前から、制服の袖が見えた。父の仕事着ではなかった。

居間と台所の間には、短い廊下しかない。そこに何人も立てるわけがなかった。けれど、青い袖の隣へ灰色の背広が現れ、さらに、白いシャツから出た腕が伸びた。手はみんな空だった。悠介のほうへ向けられた掌は、指の太さも色も違っていた。

茶色の男は、気に入った手を取ればいい、と言った。悠介は、父に似ている手を探した。見つからなかった。どの腕の先にも顔がない。顔のあるはずの高さへ目を上げると、冷蔵庫に貼られた給食の献立表が見えるだけだった。腕は下のほうで、静かに順番を待っていた。

そのとき父が帰ってきた。男は、玄関へ行くな、と言った。悠介は行った。ただ、扉を開ける前に、もう一つ聞こえた。今日はそいつを入れないほうがいい。男の言い方は、窓を開けたら雨が入ると教えるときのようだった。悠介はチェーンを握ったまま、居間を振り返った。

父は最初、遊びだと思ったらしい。悠介の名を何度か変な声で呼んだ。子供の頃からしてくれる、テレビの怪獣の真似だった。悠介が笑わないので声を戻し、具合が悪いのかと聞いた。悠介は首を横へ振った。ここにいる、と言うと、誰が、と父が聞いた。

「決めろって言う人」
父は黙った。それから扉をもう少し引き、隙間へ顔を寄せた。悠介は初めて父の顔を見た。いつもの顔だった。額に汗が浮き、弁当の袋を持ち替えていた。茶色の男の声が、悠介の背中へ届いた。そいつを選んだら、あとの人は待てなくなるぞ。

悠介は父へ、帰って、と言った。父が目を見開いた。すぐに嫌だと思った。そう言いたかったわけではなかった。茶色の男が咳をして、悠介は口を閉じた。父はどこへ帰るんだよと、小さな声で言った。悠介は答えられず、靴箱の下へ足を押し込んだ。

父は扉を閉め、外から母へ電話をした。低い話し声が聞こえた。居間では、腕の人たちが動き始めた。灰色の背広が食卓へ寄った。青い袖はテレビの前に立った。茶色の男が、待たせてるんだから早く、と言った。悠介は動かなかった。どの人が選ばれても、夕飯の箸が足りないと思っていた。

母から悠介の携帯へ電話が来た。学校から帰ったときだけ使う、小さなものだった。悠介は母に、家に男の人がいる、と話した。母は何かを落としたようだった。音が途切れたあと、今どこにいるの、と聞いた。悠介は玄関、と答えた。母は、お父さんのそばにいなさい、と言った。

父は外から、警察に来てもらうぞ、と告げた。男は笑わなかった。腕の人たちも動きを止めた。悠介は、誰か来れば終わると思った。けれども男は上着の裾をつかみ、悠介のほうへ少し引いた。昔の上着を着せてもらうときの、硬い布の擦れる音がした。

その音に覚えがあった。悠介は、まだ言葉を知らなかった頃の、嫌な気持ちを思い出した。高いところに座って足をぶら下げ、下に並ぶ大人を見ていた。隣にはほかの子もいた。みんな同じ大きさだった。早く、と言う人が後ろにいて、泣くと順番を後にされた。

思い出だと言われたら、違う気もした。祖母の家の古い写真を見た夢かもしれない。それでも、茶色い布を顎の下へ詰め込まれたときの息苦しさだけは、はっきりしていた。悠介は首を掻いた。男は戸口に片足を置いたまま、まだ迷うのかと言った。

父の携帯が、外で鳴った。短い会話のあと、扉がもう一度開いた。父は隙間越しに、誰とも約束しなくていい、と言った。悠介は、前にしたかもしれない、と答えた。父は首を傾げ、それでも今はしなくていい、と繰り返した。悠介の胸が少し軽くなったが、男の袖は居間から消えなかった。

玄関のすぐ裏に、白いシャツの腕が来た。悠介は扉へ背中を押しつけた。腕は父のほうへ掌を向けていた。扉の隙間から父の指が伸びる。その指の間へ、白い腕の指が入ろうとした。悠介が声を上げると、父は手を引いた。何かに指を挟まれたように、手の甲を見ていた。

「お母さんがいい」
悠介は居間へ向かって言った。茶色の男は、今日はこっちだ、と答えた。母を選ぶ話ではないらしかった。青い袖が扉のすぐ前へ来た。狭い玄関に立つ場所はないのに、靴箱と壁の間から腕だけが伸びてくる。悠介は両手を脇へ挟んだ。

男は、最初からやり直すのは大変なんだぞ、と言った。悠介は、自分が家に来るより前を考えた。母に聞いたことがある。悠介がいない頃も、父と母はこの部屋に住んでいた。二人で映画を見に行き、遅くまで起きていたそうだ。そこへ戻されるのだと思った。自分の机も、歯ブラシも、なくなるのだと思った。

悠介は靴箱の上から上履き袋を取った。朝、母が洗って干してくれたものを、帰ってから自分で取り込んだ。袋の底にまだ少し湿り気があった。顔へ当てると洗剤の匂いがした。知らない人の手を取ったら、この匂いのする家へ帰れない。悠介は袋を握り、立ち上がった。

「このお父さん、もう持ってる」
誰へ説明すればいいのかわからないまま、悠介は言った。男は、聞いてることに答えろ、と怒った。声が初めて低くなった。悠介はうなずいた。言い返さず、玄関のチェーンを外した。急ぐと金具が引っかかり、二度やり直した。扉を押す手は、震えていた。

父が悠介を抱えて廊下へ出た。その背後で何かが倒れた。悠介は父の肩越しに見た。家の中は暗かった。テレビはついているのに、玄関まで光が届かなかった。床を這うような低い位置に、茶色の肩が見えた。男は小さくなったのではなく、長い腕を曲げてしゃがんでいるようだった。

廊下に出てからも、父は悠介を下ろさなかった。部屋へ戻るなと、電話の相手から言われていた。父の首が汗で濡れていた。悠介はそこへ頬をつけた。閉じた扉の下から、食卓に並べた箸が一本出てきた。次の一本がその上へ重なり、四本全部が外へ押し出された。

母と警察官が着いたのは、それから間もなくだった。母は走ってきて、父に抱かれたままの悠介へ触れた。父は片手を離し、母の肩へ回した。悠介の話を聞いてから、警察官が家の中を調べた。窓は内側から鍵が掛かり、押し入れにも台所にも人はいなかった。

玄関に、茶色い上着が落ちていた。小学校へ上がる前の子供が着るような大きさだった。母にも父にも見覚えがない。警察官は写真を撮り、上着を袋へ入れた。裏返した襟のところに、白い四角い布が縫いつけてあった。名前は書かれていなかった。

その晩は母の姉の家へ泊まった。悠介は父と母の間で寝た。眠りかけるたびに、手の平を下へ向けた。誰かへ差し出しているように見えないようにしたかった。父は指を撫でようとしたが、悠介が嫌がったのでやめた。母はその手を、布団の上へ置いていた。

翌朝、父の職場から電話が来た。帰宅途中に立ち寄る予定だった取引先で、六時すぎに倉庫の外壁が崩れたのだという。父は弁当だけを置き、すぐに荷物を届けるつもりだった。悠介の様子を見て、廊下から先方へ連絡し、納品を翌日に回していた。その話を母は食卓で聞いた。子供のいないところで、父は、変な巡り合わせだな、と言った。

母はすぐには返事をしなかった。あの男は父を家へ入れないほうがいいと言った。家へすぐに入れていたら、父は荷物を届けに出ていただろう。それでも、あの男は父を助けるために言ったのか、家から遠ざけたかっただけなのか。母には判断がつかなかった。男を追い出せてよかったと、口にするのもためらわれた。

上着について、あとから一度だけ連絡があった。裏地を開くと、袖がずっと奥まで折り込まれていたという。子供の服にしては不自然な仕立てだと、警察官は言った。どこかで見た記憶はないか聞かれ、母はないと答えた。話の途中で、昔、悠介が嫌がった店があったことを思い出した。

三歳の冬だった。祖母が茶色のコートを買おうとし、悠介が売り場の床に座って泣いた。着たくない、と言うのではなかった。順番の後ろは嫌だ、と言っていた。母は電話を切ってから、そのことを父へ話そうとした。父は仕事でまだ帰っていなかった。時計を見ると、もうすぐ六時だった。

悠介は居間で宿題をしていた。母が玄関の鍵を確かめて戻ると、息子は椅子を少し横へずらした。母の座る場所を空けてくれたのかと思った。けれど、悠介は椅子の背へ顔を隠し、隣の何もないところへ、小さく首を振っていた。母はその脇へ座った。六時を過ぎても、息子の両手は膝の下に挟まれたままだった。

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