取り壊しの決まった古い公団があると聞いて、撮りに行った。
現場は千葉市内の郊外で、駅からはだいぶ離れている。
カブで一時間ほど走って、田畑の残る一帯に出た。
その奥に五棟ほどの古い建物がまとまって建っている。
どれも十一階建ての、外廊下タイプだ。
住んでいた人はあらかた退去して、窓のほとんどに内側から段ボールが貼られている。
敷地を囲う柵は半分が倒れて、出入りを止めるものは何もなかった。
夕方の早い時間で、棟の影が地面に長く伸びている。
人の声はどこからも聞こえない。
カブを敷地の隅に停めて、いちばん端の棟から入った。
一階のホールは外より一段暗い。

郵便受けがずらりと並び、口の開いたものから、古いチラシがあふれている。
かびと湿った埃の匂いがした。
ホールの奥に古い箱型のエレベーターが一基だけある。
扉の前に立つと低く重い音を立てて箱が下りてきた。
誰も呼んでいないのに、ちょうど一階で口を開ける。
中の蛍光灯は半分が切れていて、足元のあたりだけが妙に明るい。
階数ボタンは、一階から十一階まで縦に並んでいる。
どれも年季が入って、数字の角が丸くなっていた。
そのなかで七だけが違った。
七のボタンだけが、数字が読めないほど擦り減っている。
指の腹が当たる真ん中が、塗装ごと深くへこんでいた。
ほかの階の何倍も押された、という減り方だ。

人がいなくなった建物で、どうしてこのボタンだけがこうなるのか。
それを確かめたくて、各階を順に撮っていくことにした。
最上階の十一階から撮りはじめて、外廊下を一階ずつ下りていく。
どの階も似たような眺めだった。
閉じたドア。外された表札。割れずに残った蛍光灯。
窓から差す西日が、廊下を端まで赤く染めている。
九階。八階。
カメラを回しながら、階段で下りていく。
七階に降りて足が止まった。
ほかの階とは空気の重さが違う。
外廊下に並ぶドアは、どれも固く閉じている。
表札はすべて外されて、四角い変色の跡だけが残っていた。

郵便受けの差し込み口には、チラシの一枚も挟まっていない。
ほかの階より退去がずっと早かった、ということなのだろう。
廊下の端まで歩いて引き返した。
人の気配はない。
誰かがついさっきまでそこにいたような、空気の動き方をしている。
カメラを構えた手の甲が、うっすらと冷えている。
一番奥のドアだけ、ほんの少し開いていた。
隙間から覗くと室内はからっぽだった。
畳もカーテンも何もない、ただの空き部屋だ。
部屋の真ん中の床に、人がひとり立っていたほどの丸い擦り跡が残っていた。
何度も同じ場所に立った者の、足の跡に見える。

床のその一点だけ、埃が薄くなっていた。
ついこのあいだまで、誰かがそこに立っていたとしか思えない。
擦り跡はエレベーターのほうを正面に見る向きでついていた。
暗い部屋の中から、扉の開くのをずっと待っていた者がいたかのような、そんな向きだった。
私はカメラだけ残して、その階を離れる。
あとで近所に残っている古い住人にも少し話を聞いた。
七階に誰が住んでいたのかは、覚えている人がいない。
退去したのではなく、はじめから誰も入らなかった気がする、と言う者もいた。
逆にずっと同じ人が住んでいたはずだ、と言い張る者もいる。
話は人によってばらばらで、どれも要領を得なかった。
私は階段室の踊り場に、小さな定点カメラを三脚で立てた。
七階のエレベーターホールが画面の中心に入る向きにして、録画をはじめる。

ほかの棟を撮っているあいだ、置きっぱなしにするつもりだった。
二時間ほどして踊り場へ戻った。
カメラは止まっていない。
三脚は立てたときのままの位置にある。
その場にしゃがんで、早送りで再生した。
はじめのうちは画面に何の変化もない。
誰も通らない廊下と、閉じたエレベーターの扉が映っているだけだ。
途中から画の傾きが変わっていく。
三脚には誰も触れていない。
それなのに画角が、ほんの少しずつ右へ回っていく。
人の手で動かしたのなら、こうはならない。
カクカクとではなく、首をゆっくりめぐらすように、なめらかに回っていた。

最後の数分でカメラはエレベーターの扉を正面に捉えて止まる。
扉は閉じたままだ。
その先には、何も映っていない。
早送りを止めてその数分を等速で見直した。
カメラが向きを変えていくあいだ、音声には何も入っていない。
風の音さえしない、無音の数分が続く。
止まる直前のひとコマだけ、扉のあいだに細い隙間が開いていた。
中は底が見えないほど暗い。
そのコマを何度も止めて見たが、暗がりの奥に何かの輪郭があるようにも、ないようにも見えた。
家に帰って、撮った映像をはじめから見返す。
エレベーターのボタンを撮ったカットで、手が止まった。
七のボタンの擦れが、現地で見たときより広がっている。

撮ったばかりの映像のなかで、塗装の剥げが数字の外側まで伸びていた。
擦れの中心はボタンのやや下のほうに寄っていた。
自分の指を当ててみると、いつも押す位置より低い。
立った大人が押す角度ではない。
私より背の低い誰かが、下から押し上げるような擦り方だった。
撮影のあいだ私はそのボタンに一度も触れていない。
何日か置いてもう一度その公団へ行った。
暗くなってから棟に入った。
一階のエレベーターの前に立った瞬間、呼んでもいないのに箱が下りてくる。
扉が開いて誰も降りてこない。
箱は私が乗るかどうか、しばらく口を開けて待っていた。

私は乗らずに階段の踊り場へ回る。
おなじ踊り場に定点カメラを据えて、エレベーターの操作盤の近くには、別に小さな録音機を置いた。
朝まで撮りっぱなしにして、私は棟の外で夜が明けるのを待つ。
夜明け前に回収して、まずは映像を早送りで見た。
箱がひとりでに動いていた。
一階から七階へ上がって扉を開け、しばらくして閉じる。
それを夜のあいだに何十回も繰り返している。
七より上にも下にも、箱は一度も行かない。
七だけを行ったり来たりしていた。
明け方が近づくにつれて、箱の往復は短くなっていく。
一階で扉を閉じてから、また上がりはじめるまでの間が、だんだん詰まっていった。
朝が来る前に誰かが急いでいるようだった。

そのたびに誰かが七のボタンを押している。
箱の中にもホールにも、人の姿はどこにも映っていない。
録音機の音も聞いてみた。
夜のほとんどは無音だった。
箱が動きだす少し前に、決まって小さな音が入っている。
固いものを軽く叩くような、こつ、という小さな音だ。
暗がりのどこかで、指の先がボタンに触れているような、そんな間合いだった。
カメラのほうは相変わらず向きを変えていた。
途中で一度だけ私が録音機を置いた操作盤のほうを向く。
それからゆっくりと七階の扉へ向き直って、止まっていた。
何度仕掛けても、カメラはその一点だけを見ようとする。
扉の向こうに何があるのかは、最後まで映らなかった。

私が見せてほしいと思っているものと、カメラが見ようとしているものは、たぶん違う。
公団はひと月後に取り壊された。
エレベーターも箱ごと運び出されて、跡地はしばらく更地のままになる。
あの擦り跡もボタンも、まとめて消えたはずだった。
半年ほどしておなじ場所に新しい建物が建つ。
近くを通りかかったとき、ガラス越しに一階のホールが見えた。
しばらく足を止めて、その箱を見ていた。
真新しいエレベーターが、一基ある。
扉の脇に磨いたばかりの階数ボタンが並んでいた。
七のボタンだけが、もう真ん中からうっすらと白く擦れはじめている。
まだ誰も住んではいないはずの、新しい建物で。


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