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息をする客

「息、少し静かにできますか」
女の店員に言われて、私は思わず鼻を押さえた。二階まで階段を駆け上がってきたばかりだった。寝不足の朝に走ったので、胸の奥がひりひりしていた。
「すみません」
椅子へ浅く腰を掛け、口を閉じた。店員は水を置かず、盆を胸へ抱いて待っていた。
風邪をうつされると思ったのかもしれない。鞄からマスクを出してつけると、彼女はようやく頷いた。

得意先へ行く時間を一時間、間違えていた。
こちらの確認不足だった。先方の受付で気づき、近くの喫茶店を教えてもらった。裏の道へ入ったところ、緑の看板、と言われた。
看板は見つかったが、入口が分からなかった。シャッターの下りた一階の店の脇に、細い階段があった。その上に硝子の扉があった。腕時計を見ると、約束までは四十分しかなくなっていた。
私は急いで階段を上がった。休憩するために走るのは馬鹿げていたが、もう外を歩きたくなかった。

店は思いのほか広かった。窓際に四人席が三つあり、奥に長いカウンターがあった。壁には手書きの短冊が並び、コーヒーのほかに焼きそばや雑炊もあった。
客は三人。新聞を読む男と、向かい合って座る年配の女二人だった。
私が声を掛けられた時、三人とも顔を上げた。それだけだった。店員の注意がよほどきつく聞こえたのか、新聞の男などは気の毒そうに片方の眉を上げた。
私はマスクの中で息を整え、ブレンドを頼んだ。

水とコーヒーは一緒に来た。
店員は、私の顔から目を離さず、カップを置いた。近すぎて盆の角が椅子に当たったが、目を下げなかった。
「お水、先に飲めます?」
妙な訊き方だった。飲めますよ、と答え、マスクを片耳から外した。彼女は半歩下がった。
水は普通の水だった。少しぬるく、洗ったコップの匂いがした。二口飲むと喉の痛みが楽になった。私がコップを置くまで、彼女はそこにいた。
「それでしたら」
何がそれなのかは言わず、カウンターへ戻っていった。

コーヒーも普通だった。熱くて、少し酸っぱかった。
私は鞄から資料を出した。先方の担当者へ渡す見本の説明が一か所だけ気になり、余白に書き足した。ボールペンの出が悪く、紙の端を何度もなぞった。
向かいの女二人は、料理の話をしていた。揚げると食べるけれど煮ると嫌がる、というような愚痴だった。男が新聞を捲る音がした。台所では皿が触れ合った。
どこにでもある朝の店だった。私はマスクを机の上へ置き、冷まそうとコーヒーへ息を吹いた。

窓際の女が、短く声を出した。
私は手を止めた。カップの向こうで、その女が自分の頬を押さえていた。相手が何か言い、紙ナプキンを渡した。
白い粉が、彼女の襟へ落ちていた。
化粧が崩れたのだと思った。年配の女は濃く化粧をしていた。頬の片側だけ、薄い紙を擦ったように毛羽立って見えた。
女は私のほうを見た。
私は、何となく頭を下げた。席は二つ離れていた。私のしたことが関係する距離ではなかった。

店員が来て、テーブルの上のマスクを指した。
「お飲みになったら、こちらを」
「ずっとですか」
「できれば」
彼女は私のカップを見た。まだほとんど残っていた。私は言われたとおりマスクを戻したが、少し腹が立った。
「なら、入口に書いておけばいいんじゃないですか」
店員は首を傾げた。
「皆さん、普通にしてくださるので」
その言葉を聞いて、窓際の二人が頷いた。頬へナプキンを当てている女まで、申し訳なさそうな顔をした。

仕事の前に揉めたくなかった。
コーヒーを残して出ようと、資料を重ねた。床にボールペンの蓋が転がっていた。机の端を探り、拾うために屈んだ。
隣の空席の下に、白い欠片が幾つもあった。
パン屑より大きく、どれにも同じ丸い艶があった。一つは歯だった。奥歯だった。薄茶色の根が二本出ていたので、間違いなかった。
私は立ち上がった。
椅子の上にも粉があった。座面の中央に、誰かが座って立った時のような、二つの浅い窪みが残っていた。

「お掃除しますから」
店員が小さな塵取りを持ってきた。
私は歯を指した。彼女は屈んで見たが、驚かなかった。紙ナプキンでつまみ、粉と一緒に塵取りへ入れた。
「お怪我ではありませんので」
「誰の歯ですか」
女二人の会話が止まった。新聞の男が、ゆっくり紙を畳んだ。私は自分の声が大きかったことに気づいた。
店員は塵取りを下げたまま、困ったように笑った。
「お客様のでは、ありませんよ」
慰めるつもりで言ったらしかった。

鼻の奥へ、苦い粉が入った。
私はマスクの上から口を押さえた。こらえる前に咳が出た。何度も出た。店員が塵取りを取り落とし、片手で顔を覆った。
白いものが、指の隙間からこぼれた。
彼女の下顎が細くなっていた。唇の端から耳の下まで、消しゴムを使ったあとのように皮膚が崩れていた。粉の下には赤い肉があるはずだった。何もなかった。粉が落ちた分だけ、女の顔が向こうの壁を見せていた。
それでも彼女は、目を閉じなかった。
片手を私へ向け、待ってくれというように振った。

咳が治まると、彼女は顔から手を離した。
欠けた顎の輪郭は、そのままだった。耳の下から肩までの間に、壁の短冊が見えた。
「お苦しいんでしたら、奥へ」
声はさっきと同じだった。
私は返事をせず、椅子へ掛けていた鞄を引いた。持ち手の片方が背に引っかかり、椅子が横へ倒れた。私は鞄だけをつかんだ。窓際の二人が席を立ったが、出口へは向かわなかった。私から遠ざかるように、壁際へ寄った。
新聞の男だけが、近づいてきた。
「落ち着いて。急に出さなければ」
息のことを言っていた。

男の顔を見た。
鼻の穴はあった。唇も動いていた。けれど、話し始める前にも、途中にも、息を吸う音がなかった。胸の薄いシャツが、少しも上下しなかった。
店へ入ってからのことを思い返した。
女たちは、よく話していた。長い文を、相槌も挟まずに言っていた。料理の好き嫌いから親戚の愚痴へ、声は一度も途切れていなかった。
私は息を止めた。
そうすると、店の中にある音が少なくなった。エアコンの羽が軋んでいる。冷蔵庫が鳴っている。誰の鼻も喉も鳴らなかった。

男は私の顔の前へ手を出した。
触られたくなくて首を引くと、彼はそこで止まった。私の口元をじっと見ていた。マスクの布が、唇へ張りついていた。
「今みたいにしていたら、楽でしょう」
私は首を振った。
「ずっとやってるの」
彼は女たちを振り返った。
「ああ、だから」
一人が納得したように言った。もう一人は、口に当てていたナプキンを折り直した。指の間から落ちた白い粉を、靴の先で自分の椅子の下へ寄せた。

胸が痛くなってきた。
私は入口へ身体を向けた。男は道を譲った。誰も私を捕まえなかった。かえって、それが怖かった。
三人は具合の悪い客を見送るように、肩を引き、通れる幅を空けていた。店員が倒れた椅子を起こした。
扉へ手を伸ばした時、我慢できなくなって息を吸った。
マスクが口へ貼りつき、内側で音がした。
背後で女が叫んだ。
私は振り返らず、扉を押した。押しても動かず、取っ手を引き直した。鈴が、耳のすぐそばで鳴った。

階段の半ばでマスクを外した。吐いた息が、胸の奥から長く出た。上の店で何かが倒れた。
足を滑らせかけ、手すりにすがった。外の車の音が聞こえていた。角を曲がる配送のトラックが見えた。私はもう一段下り、手すりを離した。
下から女の人が上がってきた。
店へ来た客だった。片手に小さなバッグを持ち、段の途中で私を待った。私は脇へ寄った。
彼女はすれ違わなかった。
私の外したマスクを見て、上を見て、それからバッグを両腕で抱え直した。

「今日は、まだ駄目なんですね」
上の店員へ言っているようだった。
私は女の横を抜けた。喉が焼けるようで、どうしても鼻では足りなかった。口を開けて、何度も空気を入れた。
女の手が、肩に触れた。
袖の上へ、さらさらと粉が落ちた。手はすぐ引っ込んだ。
彼女は怒らず、泣きもせず、自分の指を見ていた。その一本が、関節の途中まで短くなっていた。
「それ、止まらないの?」
私が首を振ると、女は階段を一段下り、私の前へ立った。
「どこでなら、止まるの」
道路へ出るまで、彼女は同じことを訊いてきた。

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