桐野は、昔よりよく笑うようになっていた。
膝を悪くして走るのをやめ、三年ぶりに市民レースへ出るという。五キロなら付き合ってくれ、と誘われた。私は続けて走っていたから、今ならあいつに勝てるかもしれないと思った。その気持ちは、口にしなかった。
高校の陸上部では、いつも桐野が前を走っていた。練習中でも手を抜かず、ついて来られない者を待たなかった。私はその強さが好きで、同じくらい腹を立てていた。卒業後も年に何度か会ったが、二人で走るのは久しぶりだった。
集合場所へ来た桐野は、腹が少し丸くなっていた。私の靴を見て、高そうだな、と笑った。
「今日は、置いてくなよ」
あいつにそう言われる日が来るとは思っていなかった。
河川敷のコースを往復する小さな大会だった。参加者は百人ほど。競技というより、地元の催しに近かった。受付では知り合い同士が挨拶をし、係の人が紙コップを並べていた。私たちは真ん中より後ろに並んだ。
桐野は屈伸を一回だけして、膝の横を押した。
「無理なら歩くから」
「別に、最初から歩いてもいいだろ」
私が言うと、あいつは首を振った。
「少しは走っておきたいんだよ」
スタート直後、私は意識して速度を落とした。桐野は横で息を整えていた。足音が、高校の頃と違った。右足だけ少し強く着き、次の左足が遅れた。
川沿いの道には菜の花の残りがあり、土手の上を自転車が走っていた。あいつは古い同級生の近況を話し、私は短く相槌を打った。走りながらそんなに話していては、と言いかけてやめた。今日は勝負ではなかった。
一キロを過ぎたところで、桐野が、先に行っていい、と言った。
「まだ平気だよ」
「お前のほうが、我慢してる顔だから」
図星だった。私は笑って少し前へ出た。後ろからついて来る足音を聞き、急に、高校の最後の大会を思い出した。私は予選で落ち、桐野だけが先へ進んだ。桐野は帰りの電車で眠っていた。私は一駅分、あいつの顔を見ていた。
折り返し地点から戻って来る人たちが、道の向こう側を走り始めた。速い人は上体が動かず、こちらを見ない。私は何人かの靴を眺めた。
その中に、高校の時の桐野がいた。
赤い練習着を着て、細い腕を振っていた。短く刈った髪が汗で光っていた。私の顔を見て、口の端を上げた。
背後で、現在の桐野が咳をした。
私は振り向いた。桐野はちゃんといた。白い大会のシャツを着て、息を切らしていた。
「どうした」
「今、似たやつが」
道の向こうを指したが、赤い服はもう遠かった。若い参加者もいる。それだけのことだ、と私は言った。桐野は、うん、と答えた。笑わなかった。
折り返しは、橋の少し手前にあった。赤い旗を持った係の人が立ち、そこを回るように案内していた。その先の橋まで行けば距離を走りすぎる。
ところが何人かは旗を過ぎ、橋の下へ向かっていた。係の人は止めなかった。私が向こうもコースなのか訊くと、ここで折り返しです、と答えた。
「さっきの人たちは」
係の人は、誰も先へ行っていない、と言った。
桐野が私の横を通った。
「橋の下、涼しいから」
私は腕を伸ばしたが、シャツの端へ触れただけだった。桐野は旗の向こうへ走っていった。膝をかばう足音ではなかった。迷う間にあいつの背中が小さくなり、私は後を追った。
係の人が何か叫んだ。言葉は聞き取れなかった。
橋の影へ入ると、急に足元が柔らかくなった。舗装が途切れ、昔の運動場のような赤土になっていた。乾いているのに、靴が少し沈む。川の音が聞こえなくなり、代わりに、何人もの足音が重なった。
桐野は赤いシャツを着ていた。
私は名前を呼んだ。あいつは振り返り、まだ行けるだろ、と言った。声も若かった。
橋の下には、走り終えた人が何人も座っていた。膝へ手を置き、こちらを見ていた。服は皆違った。学校のジャージ、袖の短い運動着、今と同じようなシャツ。顔だけが、年齢に合っていなかった。子供の服を着た人の口元に深い皺があり、年配の人の脚が、細い少年の脚のように見えた。
一人が私を見て、道を空けた。
「まだ、前にいるよ」
桐野のことを言っていた。
私は桐野を追った。少し走ると、あいつの背中に追いつけそうになった。昔から、それくらいの差があった。伸ばせば届きそうで、届かない。私は息を吐くたびに歩数を数えていた。いつから数え始めたのか分からなかった。あと四つ、あと三つ。何までの数なのか分からず、怖くなって足を止めた。
桐野が振り向いた。
「何でやめるんだよ」
私は膝へ手をついた。高校の時には、あいつにこんな姿を見せるのが嫌だった。今は隠す余裕がなかった。
「戻ろう」
言うと、桐野は不満そうに口を曲げた。
「まだ一本残ってる」
練習の時の言い方だった。
私は今朝の集合場所や、大会の名前を話した。桐野は聞いているようだったが、話が終わる前に河原の先を見た。そこには学校のグラウンドに似た白い線があった。赤い服の人が、背を向けて立っていた。桐野と同じ肩幅だった。
「さっきの、お前か」
私が訊くと、桐野は、知らない、と答えた。
「あいつが先に着いたら、俺はどうなるんだよ」
その言葉には、昔の私が言いたかったことが混じっていた。
私は桐野の肘を掴んだ。細かった。人の腕の温かさはあったが、三十分前に見たあいつの腕とは違った。桐野は嫌がって振り払った。
「お前、勝てそうな時だけ、そういうこと言うよな」
私は手を下ろした。
「今日は、勝てると思ってた」
正直に言うと、桐野は初めて笑った。今朝の、少し太ったあいつの笑い方に見えた。
「じゃあ、走れよ」
あいつは背を向けた。
私は追わなかった。息が上がったまま、橋の入口へ戻った。途中、座っていた人の一人が、私の靴を見た。
「いいの、まだ新しいのに」
靴の話か、体の話か、分からなかった。私は返事をせずに歩いた。背中で足音が何度も近づき、そのたびに追い越されなかった。
赤い旗のところへ戻ると、係の人が駆け寄ってきた。私が道を外れて立ち止まっていたので、心配したという。橋の下まで行ったと話したが、行っていないと言われた。私の靴の底には赤土が詰まっていた。
桐野が向こうへ行ったと伝えると、係の人は無線で連絡を取った。私も名前と番号を言った。少しして、すでにゴールしているという返事が来た。
私は係の車に乗せてもらった。ゴールの近くで、桐野は水を飲んでいた。白いシャツへ戻っていた。腹も今朝と同じだった。
「どこ行ってた」
私を見ると、あいつはそう言った。
膝は痛まなかったという。記録も思ったよりよく、また走れる気がすると笑った。私はあいつの腕を見た。走った後の汗が乾き始めていた。肘に、私が掴んだ形で赤い跡があった。
救護の人へ、私も桐野も少し混乱していると話した。休んで水分を取り、念のため二人で病院へ行った。移動の途中、桐野は何度か同じ話をした。今日は調子がよかった、また来月も走ろう。それ以外の会話は普通だった。
診察で大きな異常は見つからず、その日は帰った。橋の下のことを訊くと、桐野は覚えていないと言った。無理に思い出してもらうのはやめた。
二週間後、あいつの部屋へ貸していた荷物を取りに行った。桐野は走る支度をしていた。赤いシャツだった。高校の時のものかと訊くと、古い箱から出てきた、と答えた。
「膝、どう」
「何の話」
私は笑えなかった。桐野は私の靴を見て、今日は一緒に走らないのか、と訊いた。私は断った。
それから桐野とは走っていない。電話をすれば普通に話せるし、仕事も続けている。けれど、以前よりよく笑うようになったとは、もう思わない。近頃は、人が遅れる話をすると、返事が早い。
「待たなくていいだろ」
あいつはそう言う。
秋に、仕事の帰りのバスからあの橋を見た。大会の日でもないのに、赤い旗が立っていた。夕方の風で、旗の先だけが動いていた。
下に誰かが座っていた。
私だった。高校の練習着を着て、膝に手を置いていた。川沿いを走って来る人へ顔を向けたが、別の人だと分かると、また俯いた。
バスが橋を渡る間、私は窓から離れられなかった。
あそこに残った私は、桐野を待っていた。


コメント