日比さんと献血に行ったのは、買い物についてきてもらった帰りだった。私の家の洗濯機が壊れ、彼の車を出してもらい、私の運転で家電店を回った。三軒目で買う物を決めると、今度は俺の用につきあえよ、と言われた。
駅前の献血ルームだった。日比さんは半年に一度くらい来るらしかった。私も学生の頃に一度だけした覚えがある。待つついでに受けるつもりで、二人で受付へ並んだ。
「一人だと、終わったあと飯を食うのがつまらないんだよ」
日比さんが言った。私の洗濯機と彼の献血と、そのあとの昼飯が、あの時は同じ程度の用事だった。
会社では十四歳上の先輩にあたる。私が入ったばかりの頃は、二人で地方のスーパーへ納品に行った。冬にはいつも、私が上着を車に忘れるかもしれないと思って、自分の古いジャンパーを後部座席に積んでいた。十年以上経って、私が自分の車に防寒着を置くようになってからも、会うと、寒くないかと後部座席へ手を伸ばした。
受付を済ませると、日比さんが窓際へ手を上げた。ソファに女の人がいた。薄い青のカーディガンを膝へ載せ、外の看板を眺めていた。二十代の終わりくらいに見えた。
「知り合いですか」
「前にもいた」
日比さんは女の隣を通り過ぎて、飲み物の機械へ行った。知り合いというほどではないようだった。私は紙コップを持つ彼を待ち、女から一つ空けた席へ座った。
小さい音でテレビがついていた。映画の紹介をしていたと思う。女はそれを見ず、採血室に通じるガラスの扉を見ていた。髪を耳へかけると、耳たぶに丸い穴が一つあった。飾りはつけていなかった。
私は予備の検査で、今日はやめておきましょうと言われた。細かい数字は覚えていない。体調のことをいくつか確認され、ふらつきも何もないと答えて、待合へ戻った。日比さんの姿はもうなかった。奥へ入ったのだろうと思った。
さっきの席に、年配の女性が座っていた。
最初、別の人だとしか思わなかった。髪の分け目の両側が白く、口元に深い線があった。青いカーディガンの膝に、両手を伏せている。手の甲の小さな染みが、ガラス越しの昼の光によく見えた。
私は向かいの席へ座った。会社から来たメールを返しながら、ガラスの扉が開く音に目を上げた。白いポロシャツの男性が出てきて、職員の人に頭を下げている。女は、その男性を見た。
鼻の下の溝が浅くなった。
眼鏡のレンズが曇っているのかと思った。私は眼鏡を外し、膝の上で拭いた。かけ直した時、女は最初に見た顔へ戻っていた。髪の白いところも見当たらず、ただ、口を閉じる時に皺が寄るような、ほんの少しの動きが残っていた。
男性は別の席へ座り、携帯を取り出した。女へ挨拶はしなかった。
私は携帯の画面を暗くした。女の顔を直接見ているのがまずい気がして、ガラスの向こうにあるベッドへ目を向けた。日比さんは見えなかった。背の高い仕切りが幾つもあり、こちらから見えるのは入口に近い二つだけだった。
「お一人ですか」
女に訊かれた。
「連れがいます。私は今日は駄目でした」
女は私の肘の内側を見た。小さな脱脂綿が留めてあった。
「待つんですね」
「ええ。昼を食べに行くので」
それを聞くと、女は少し笑った。冷たい感じはしなかった。私もつられて笑い、昼飯は何がいいだろうと考えた。
女の指が、カーディガンを撫でた。骨張った指だった。さっき笑った顔の年齢と、手が合っていなかった。
私は口を開きかけて閉じた。若く見える人に年齢のことを言うような、失礼なことをしそうだった。顔を上げると、目の縁にも細かい皺ができていた。女はゆっくり瞬きをした。そのあいだに、頬の肉が下がった。
何分も見続けていなければ分からない変化ではなかった。唇が薄くなり、こめかみから白い髪が増えていった。首を動かすと、喉の皮が横へ重なった。
私は立った。紙コップを捨てに行き、受付の脇にいる職員へ声をかけた。
「あの方、具合が悪いんじゃないですか」
窓際を顎で示すと、職員はすぐにそちらへ行った。私も少し離れてついていった。知らない人の顔が変わった、とは言えなかった。
「お変わりありませんか」
職員が女へ声をかけた。
女は顔を上げた。目の周りの皮が薄く、椅子から立つのも難しそうに見えた。それでも、しっかりした声で、大丈夫です、と答えた。
「お連れの方、もう少しかかると思いますので」
職員はそう言って戻っていった。
私はその背中を見た。女は空いた隣の席へ手を置いたが、私を呼ぶような仕草はしなかった。待っている人がいるのは、本当らしかった。
向かいへ戻るのが嫌で、テレビの下にある椅子へ座った。横を向くと女が見えた。白髪を後ろへ撫でつけている。頭の形は最初のままで、耳たぶに穴が一つあった。
また、ガラスの扉が開いた。
今度は若い女性が出てきた。腕のところを押さえながら、窓際のソファの前を通った。年老いた女がそちらへ顔を向けた。若い女性は一瞬、女を見下ろしたが、止まらずに通り過ぎた。
それだけのあいだに、女の頬が張っていた。縮んでいた唇が丸くなり、白髪の筋が根元へ引かれるように消えた。
女は立って、飲み物を取りに行った。歩く速さまで変わっていた。背中がまっすぐで、足を出す時に膝へ手をやらなかった。私の前を通ると、脱脂綿のところ、もう押さえなくてもいいと思いますよ、と言った。
自分がずっと肘を押さえていたことに、その時気がついた。
私は日比さんへメッセージを送った。終わったらすぐ連絡ください、とだけ書いた。すぐに既読がつき、親指を立てた絵が返ってきた。奥から顔を出してくれとは頼めなかった。
女は水を飲んだ。紙コップの縁が少し潰れ、持っている指の関節が出っ張ってきた。もう、顔を見る必要もなかった。
女はコップを両手で包み、膝に掛けたカーディガンの位置を直した。髪が白くなると、指でその流れを整えた。そうしている人の横を、職員が普通に通った。
私は気分が悪くなり、飲み物の機械の前へ行った。何を押せばよいか、しばらく決められなかった。自分の腕の小さな脱脂綿を剥がすと、針の跡に乾いた血がついていた。手で擦ろうとしてやめ、脱脂綿を元へ戻した。
後ろから声をかけられた。
「帰らないんですか」
女だった。いつ立ってきたのか気づかなかった。近くで見る顔は、私の母より年上に見えた。膝に掛けていた青いものを、今は肩から羽織っていた。
「連れを待ってるんです」
私はさっきと同じことを言った。
女は頷いた。それから、私は待っていなくてもいいと思われる、と言った。
「お連れの方にですか」
返事はなかった。女は私の手元の脱脂綿を見て、口の端を上げた。笑ったのだと思う。口元の皺が先に動き、目があとから細くなった。
「ひとりで帰れるって、何度も言うの」
女は私に話していた。誰のことだろうと思ったが、今度は訊かなかった。
ガラスの扉が開き、日比さんが出てきた。腕に上着を掛け、職員と何か話している。私を見つけると、悪い悪い、といつもの調子で笑った。
女の肩が、少し上がった。
私のすぐ目の前で、皺が伸び、髪が黒くなった。それからさらに、頬の形が小さくなった。今まで二度見た若い顔を通り越して、十代の子供のような顔になった。
袖から出ている手だけは、老いたままだった。女はそれを引っ込め、青い袖の先を丸めて握った。
日比さんは女を見た。
「お待たせしました」
私に言ったのかと思った。でも、目は女のほうを向いていた。
女は唇を動かした。日比さんが少し屈んだので、私は言葉を聞こうとして半歩近づいた。
「帰ります」
日比さんが先に言った。女の声は聞こえなかった。
彼は受付へ歩いていった。私も追いかけ、窓から離れたところで、今の人を知っているんですね、と尋ねた。
「だから、前にもいるって言ったろ」
「いつからですか」
日比さんは、少し考えた。私が待ちくたびれて機嫌を損ねたと思ったらしく、悪いな、時間かかったな、と別のことを言った。
「あの人、誰を待ってるんですか」
「知らないよ」
今度は顔をこちらへ向けた。
受付で渡された物を袋へしまい、休んでからお帰りください、と声をかけられた。日比さんは壁際の椅子へ座った。私はその前へ立ち、女のほうを振り返った。
女はソファへ戻っていた。黒い髪を耳へかけ、膝の上に両手を置いている。顔はさっきの子供のままだったが、手は指を伸ばすのもつらそうだった。
私は日比さんへ、女の顔のことを話した。うまく順番に話せず、白髪がなくなって、顔が、という説明になった。途中まで聞いた日比さんは女を一度見て、私の話が終わるまで目を逸らさなかった。
「俺には、あの人、ずっとああだよ」
「若いですか」
日比さんは返事をしなかった。女へ向けていた顔が、いつの間にか伏せられていた。
「初めて来た時にもいたんですか」
「ああ。ここじゃない所にも」
そこまで言って、日比さんは口を閉じた。
私は三軒の家電店を思い返した。入り口。駐車場。エレベーターの横。青い服を見た気もした。だが、誰が着ていたか思い出そうとすると、今の女の顔しか浮かばなかった。
「日比さんの、お母さんですか」
別人だと言ってほしかった。日比さんの母親が、私が入社する前に亡くなっていたことは知っていた。
「違う。あんなに若くない」
女がこちらを見た。十代の顔で微笑んでいた。その目を、私は見続けられなかった。青い袖の下にある手の甲は、黒ずみ、薄く乾いていた。日比さんは、そこへ目を向けなかった。
しばらく二人とも黙っていた。奥のテレビから笑い声がした。ガラスの扉が開くたび、私は振り向いた。誰が出てきても、女の顔はそのままだった。
日比さんが立った。私は車の鍵を返そうとした。ポケットから出した鍵を、掌に載せて差し出した。彼は受け取らず、もう少し頼む、と言った。
女も立ち上がった。
顔は子供だった。立つ時には老いた両手をソファへつき、身体を前後に何度か揺らした。日比さんのほうへ歩き始めると、足取りだけが軽くなった。
「一人で帰れますから」
日比さんは女へ言った。さっき出てきた時よりも、丁寧な言い方だった。女は答えず、私たちのそばで止まった。青い袖を、片方ずつ手の甲へ引いていた。
私は鍵をポケットへ戻した。女を先に行かせようと出口の脇へ寄ると、日比さんが私の上着を引いた。
「先、行ってくれ」
自動扉が開いた。私が通り、日比さんが続いた。二人分の足音の後ろに、杖の先で叩くような、硬い音が二つずつついてきた。
エレベーターの前で、日比さんは自分の上着を広げた。誰へとも言わず、これ掛けて、と差し出した。私は青い服のほうを見ず、到着したエレベーターの開くボタンを押した。
日比さんが乗っても、ボタンから指を離せなかった。彼の上着が、まだ扉の外にあった。片方の袖だけがゆっくり持ち上がり、内側で、乾いた手が布を掴み直す音がした。


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