親方が俺にくれると言った鉋は、刃が抜いてあった。木の台だけを渡されても困る。刃はどこですかと聞くと、親方は後ろのポケットを叩いた。
「お前が最後まで残っとったら、やる」
俺は、子供に玩具を買うときみたいなことを言うな、と答えた。親方は聞こえないふりをした。
山の上の集会所で、床を張り替えていた。といっても、人が集まらなくなって何年もたつ建物だ。自治会を解散する前に、一度だけ寄り合いをする。そのために床の抜けるところを直してほしいと頼まれた。残った金を使い切る事情もあるらしく、材料は安くてよかった。
親方はその仕事で引退するつもりだった。七十一歳で、俺より脚立へ上るのが早い。だが寸法をメモし忘れたり、同じ釘を二度買ったりするようになっていた。俺が独立して十年になるのに、最後だけ手伝えと言う。頼み方が腹立たしくて、結局二日とも仕事を空けた。
集会所は、親方が三十代のころ建てたものだった。当時一緒に働いた職人はもういない。床下から出てくる削り屑を見て、ここは誰が削った、と名前を言う。俺は相槌を打ちながら腐った板を外した。床下は意外なほど浅く、赤土に柱の根元が直接立っているように見えた。
「ここ、基礎がないですよ」
「石の上だ。ちゃんとある」
親方は俺のそばへ来て、土を払い落とした。丸い石が出た。表面に指で掻いた跡があり、その真ん中に柱が載っていた。俺が周囲も掘ろうとすると、親方はそこまでは金をもらっていないと言った。
最初の日、道具を車へ積みに行くと、後ろで板を引く音がした。振り返れば、外した古い床板が一枚、土間へはみ出していた。俺は踏むと危ないと思い、端へ寄せた。二度目に工具箱を運んだとき、また同じ板が土間にあった。親方が出したのかと聞くと、返事がなかった。
建物の中へ戻ると、親方は窓枠を撫でていた。もう暗くなりかけ、窓の外に俺の軽トラが見えた。
「ここ、いつから高うなった」
親方は窓の桟を押していた。肩の高さだった。昼は肘を載せて茶を飲んでいた窓が、そんな高さにあるはずはない。俺は床板をまだ戻していないからだと言った。
自分で言ってから、逆だと気づいた。床を外して土へ下りれば、窓は高くなる。それはそうなのだが、親方は張り終えた新しい床に立っていた。俺と同じ場所だった。親方はもう何も言わず、腰の袋を外して床へ置いた。窓は次に見たとき、元の高さへ戻っていた。
その晩はふもとの宿に泊まった。親方は風呂へ入らずに寝た。俺は部屋で見積書を直し、床下の補修が必要ならどう伝えるか考えていた。親方の古い仕事を否定するようで言いづらい。隣の布団から、くそ、と声がした。振り向くと、親方は眠ったまま、両手で何かを押していた。
朝食のときに聞くと、長いこと同じ夢を見るのだと言った。自分の建てた家へ呼ばれ、戸の閉まりを直して帰ろうとする。帰り際に窓がずれ、次は階段の踏み板が落ちる。直す箇所が増え続けるので、朝になるまで帰れない。
「この頃は、寝たほうが疲れる」
親方は焼き魚の骨を、皿の端へ並べた。
二日目、自治会長が昼に来た。見て回ることもせず、土間で封筒を渡した。親方は封筒の中を確かめ、寄り合いは何日だと聞いた。会長は来月のことを曖昧に答えた。窓の向こうで風が鳴った。会長は建物の中へ片足も入れず、よろしく、と言って帰った。
「集まるんですか、本当に」
親方は封筒を胸にしまった。
「知らん」
それなら何のために直すのかと俺は言った。親方は、使わんから壊れてもいいのか、と返した。いつもの言い合いだった。俺は床の端に座り、板を切る寸法を書いた。その紙が、手を離す前に引っ張られた。
紙の下に爪があった。柱の根元の石から、一本だけ出ていた。砂で黒くなった爪だった。俺は紙を放した。柱の陰へ吸い込まれるように消えた。親方を呼ぶと、彼は少し離れたところから、それは触るな、と言った。
「何なんですか」
「知らんものを触るなというとる」
俺はその場で仕事をやめると言った。親方は好きにしろと答え、自分の鋸を取りに行った。俺は電動工具を箱へ入れ、土間に下りた。背後で床が鳴った。入口の柱を過ぎたのに、足元は板だった。戸口が前へ動いたのだと思い、もう三歩進んだ。足の下に、さっき俺が切った白い板が続いていた。
外では軽トラのエンジン音がした。自分がかけたままだったことを思い出した。道具を積み終えたら親方を乗せて帰るつもりだったのだ。運転席は十歩ほど先にある。それなのに歩くたび、同じ距離にあった。窓の枠が視界の左をついてきた。後ろから親方が、箱を置け、と怒鳴った。
箱を下ろすと、急に砂利の上へ膝をついた。軽トラの後輪が目の前にあった。工具箱は集会所の土間に置かれていた。俺はその間を見た。十メートルもない。板も柱も動いた形跡はなく、砂利に俺の足跡だけが続いていた。ただ、足跡の間隔が異様に狭かった。
親方は中にいた。俺が外から呼んでも出てこない。戻ってみると、床の上で腰の袋を外そうとしていた。留め具が引っかかるのか、指がうまく動かないらしかった。俺が外すと、袋が床へ落ちた。釘が散った。親方は大きく息を吐き、頭を下げた。
「下まで来やがった」
俺は会長に電話した。出たので、集会所の床がおかしいと言った。
「昔も一度、直してもらいましたな」
会長は親方の名前を言った。俺は何年前だと聞いた。少し黙ってから、三年か四年前、と答えた。親方は建ててから初めて来たように話していた。電話を切ると、親方は道具を眺めていた。
二十年前にも来た。その前にも来た。親方はそう言った。頼まれたところだけ直しても、帰ろうとすると別のところが緩む。道具を置いて宿へ行けば、翌朝には直っていることもあった。まだ大工を始めたばかりのころ、一晩だけ床下へ道具を預けて帰ったことがあるという。
「誰に預けたんです」
親方は俺を見た。
「誰もおらんと思うた」
それから、あの頃は腹が減っていた、と言った。次の現場へ急いでいた。道具を片づける時間も惜しく、明日取りに来ますと空の家へ言った。俺は続きを待ったが、親方はそれ以上話さなかった。
俺は道具を全部置いて、二人で外へ出ればいいと言った。親方はそれじゃ仕事が終わらんと答えた。どの仕事のことか、もう分からなかった。彼は俺が張った床を、踵で二度踏んだ。よくできている、と言った。褒められたのは久しぶりだった。俺が返事をする前に、床下から同じ場所を二度叩かれた。
壁に掛かっていた額が落ちた。続いて窓の桟が外れ、親方の足元へ滑った。俺は窓に近づかなかった。外れた桟の先に、黒い爪が何本も並んでいた。親方が手を伸ばすと、俺の腰から金槌が落ちた。足の甲へ当たらず、その桟を強く打った。爪が引っ込み、親方がよろけた。
金槌は土間へ転がっていった。俺の名前が、柄に彫ってあった。修業を始めた日に親方から買わされたものだ。こんな重いものはいらないと文句を言い、軽いものへ替えたが、古いほうも袋に残していた。俺が拾おうとすると、柄が手前へ一度跳ねた。帰れ、と言われた気がした。
親方を支えて土間へ下りた。柱がぎしぎしと鳴った。彼の胸の中で封筒が擦れた。
「それも置いて」
俺が言うと、親方は封筒を出した。板に載せると紙が開き、中の札が端へ並んだ。風は入っていなかった。床下から指が伸び、札の枚数を一枚ずつ確かめていた。
親方は見ていなかった。右手を後ろのポケットへ入れ、鉋の刃を出した。俺に渡そうとしたので受け取った。たちまち戸口が遠くなった。俺は刃を返さず、床へ置いた。親方は、危ない、踏むぞ、と言った。今さら何を言うのかと思ったが、俺は刃を下に向けて置き直した。
それでも外へ出られない。親方の靴の先は土間へ着いているのに、踵は床板に載ったままだった。彼はもう自力で足を出せず、俺の肩へもたれた。服の内側で硬いものが当たった。胸ポケットの鉛筆だった。短くなっても捨てず、帽子の縁へ挟んで使っていた黄色い鉛筆だ。
俺はそれを抜き、床へ転がした。親方の踵が下りた。二人で土間を渡り、砂利へ出た。軽トラは動かずそこにあった。助手席を開けて親方を座らせると、汗をかいた顔にようやく色が戻った。彼は自分で靴の紐を結び直した。指は震えていたが、きちんと結べた。
道具を取りには戻れなかった。俺が電話で事情を説明しても、会長は、後日でいいでしょう、と言った。道具が傷むから預かってほしいと頼むと、今は誰も上へ行けないと答えた。足元の金槌だけは、土間の外へ半分出ていた。俺は拾わず、柄の端を靴で中へ押した。
親方が上着を脱ぎたいと言った。背中が汗で貼りつき、腕が抜けにくかった。俺は袖口を引き、片方ずつ脱がせた。下に着たシャツは普通に濡れていた。肩も腕も、人の身体だった。脱いだ作業着を荷台へ放ると、親方は少し笑った。
「道具箱に何が入っとるか、帰ってから書いとけ」
俺はその言い方に腹を立てなかった。全部なくしたのだから、覚えているうちに書くほうがいい。集会所の戸は開いたままで、中の床に夕日が当たっていた。俺の金槌があった場所まで、古い板が一枚伸びていた。板はそこで止まり、砂利へは下りてこなかった。
坂を下り始めると、親方は眠った。俺は窓を少し開け、汗を乾かした。途中の曲がり角でバックミラーを見ると、荷台に作業着が立っていた。風で膨らんだのではなかった。襟が内側から押され、両袖が肘を曲げていた。裾の下には何もない。
車を止めた。親方は助手席で同じ姿勢のまま眠っていた。俺が荷台へ回ると、作業着の右袖が上がった。何かを打つときの角度だった。袖口から短い鉛筆が落ち、荷台の溝へ入った。床へ置いてきた、あの黄色い鉛筆だった。
俺は親方を起こさず、上着の肩を押した。立っているものは柔らかく、簡単に畳めた。けれど背中の下には、俺の掌を押し返す力があった。袖の奥で、こつ、こつ、と釘を打つ音がした。親方が助手席で咳をした。俺は二つの音を聞きながら、荷台へ上着を押さえ続けた。


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