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湯上がりの爪

閉店後の浴槽を洗っていた友紀は、タイルの目地に爪が挟まっているのを見つけた。爪切りで切った先の部分ではない。根元まである、指一本分の爪だった。ほとんど透明で、先端だけが乳白色に濁っていた。客が怪我をしたのなら、血がどこにもないのはおかしい。

長いピンセットでつまむと、するりと抜けた。大きさは親指の爪ほどだったが、裏が深く窪んでいた。友紀は脱衣所へ持っていき、洗面台に敷いた新聞紙へ載せた。母に見せるためだった。母はそのあいだ、男湯の床へ水を流していた。

実家の銭湯を手伝い始めて三週間になる。母が階段で足をひねったため、友紀が仕事帰りに寄ることになった。父が亡くなってから、母は一人で帳場に座り、掃除の人にも来てもらっていた。その人が辞めた月に怪我をした。何から何まで時期が悪い、と母は笑った。

母はまだ足をかばっていた。力仕事を娘に渡すくせに、これは自分でできると言って、頼んでもいないところを洗い出す。友紀が拾った爪を見せると、母は老眼鏡を探した。洗面台には新聞紙だけがあった。折れ目に、細長い濡れ跡が一本残っていた。

「水で流れたんでしょう」
母は新聞紙を丸めた。友紀は排水口の網を外し、その下までのぞいた。あれだけ大きなものが通る隙間はない。
「爪なら、そんなに大騒ぎするものでもないわよ」
そう言って、母は友紀の手から網を取った。左手の小指に絆創膏が巻いてあった。

次の晩も爪があった。前日と同じ目地から、少しだけ先を出していた。抜け落ちたものが引っかかったのではなく、そこで生えているように見えた。友紀は壁のタイルを指で押し、ひびを探した。爪の先が、指の腹へ向かって曲がった。彼女は手を引き、いったん浴槽を出た。

客の忘れ物を入れる箱に、小さなケースがあった。母に聞くと、補聴器や入れ歯を持ってくる人のためのものだという。友紀は空いた一個を借り、ピンセットを取りに戻った。爪の先を避けて根元をつまみ、ケースへ落とした。蓋が閉まることを確かめ、自分の鞄へしまった。帰り道でケースを振ると、乾いた音が二度した。

朝には、空になっていた。蝶番も留め具も壊れていなかった。鞄の中を全部出し、裏地をひっくり返したが、爪は見つからなかった。友紀は眠る前に一度だけケースを開けた。それを思い出し、机の下まで探した。椅子の脚の脇に、濡れた指先を置いたような跡が六つあった。

母に話すと、今日から来なくていい、と言われた。怒った声ではなく、ひどく気を遣った声だった。
「疲れてるんだわ。会社も忙しいでしょう」
「お母さんも見たじゃない」
「私は見てないもの」
そこは母の言う通りだった。友紀は返事をせず、夕方にまた店へ行った。

番台から見える脱衣所で、常連の和枝さんが手袋をはめていた。九月で、まだ蒸し暑い。庭仕事の帰りだったと彼女は言った。指の先が余り、右の小指が手袋の外へはみ出していた。友紀は、違うところへ入っていますよ、と声をかけた。和枝さんは手元を見て笑った。

「昔から、うまく入らないの」
手袋を脱ぐと、何も変わったところはない。五本の指を広げ、五つの穴へ入れ直す。今度はちゃんと収まった。友紀はほっとした。和枝さんが財布を出そうとすると、小指だけがまた脇から出た。彼女はそれを人差し指で撫で、鞄へ手を入れた。

母はいつものように、和枝さんと漬物の話をした。友紀が帰った客の手について言うと、昔の怪我だろう、と答えた。そんな説明で納得できるわけがない。友紀は母の左手をつかんだ。絆創膏が剥がれかけていた。
「どこ、切ったの」
「引っ張らないで」
小指の横に、爪の端が見えた。

友紀は息を止めた。小指には普通に爪がついていた。その隣、手の外側にも透明な爪があった。爪の下は皮膚の小さな盛り上がりで、母が手を握ると一緒に曲がった。友紀が指で触れる前に、母は手を引いた。
「そこ、前からあったでしょう」
母は笑った。娘が自分のほくろを初めて見つけたような顔をした。

友紀は携帯の写真を探した。正月に母と食事をした写真で、母は湯呑みを持っていた。見える範囲では、指は五本だった。母は画面をのぞき、老けたわね、と言った。
「ここを見て。手」
「手だって老けるのよ」
冗談で逃げているのかと思った。だが、母は娘が何を問題にしているか、本当に分からないようだった。

最後の客が出たあと、友紀は女湯の浴槽へ入った。湯はまだ抜いていない。母は足が痛むと、よく閉店後にゆっくりつかった。その日もそうしようとしていた。友紀は先に栓を抜いた。母が洗い場へ来て、もったいないと文句を言った。友紀は、目地を見せたい、と答えた。

湯が減るにつれ、白いタイルに細長いものが現れた。一箇所だけではなかった。底に近い目地のあちこちから、透明な爪が出ていた。友紀は屈み、母を呼んだ。母は浴槽の縁へ腰を下ろした。指でひとつの爪を撫で、汚れが残っていると言った。爪はその指へ先を向けた。

「触らないで」
友紀が母の手を払うと、母は驚いた顔をした。直後、排水口で湯が詰まった。音が止まり、水面が膝の高さで動かなくなった。そこから、石鹸を使ったばかりのような白い泡が上がってきた。洗剤はまだ入れていない。友紀は母を縁から立たせようとした。

「お母さん」
声は浴槽の中でした。高くて、鼻にかかった子供の声だった。友紀は自分の口が動いたのかと思った。母が、なあに、と答えた。湯の中へ両腕を差し入れ、何かを支える姿勢を取った。
「目、つぶって。流すから」
小さいころ、母が友紀の髪を洗うときの言葉だった。

友紀は母の肩をつかんだ。骨が細く、濡れた肌が滑った。母は痛がり、友紀の手を外そうとした。その左手の、小指の隣が長くなっていた。湯に入っている部分だけ、もう一本の指が伸びていた。水面より上は小さな突起のままだった。友紀は母の腕を持ち上げようとしたが、肘から先が動かない。

泡の間から、頭が出た。髪はなく、耳もなかった。後頭部だと思って見ていると、そちら側で口が開いた。母の指に、その口が吸いついていた。友紀は湯をかき分け、母の手を探した。指がたくさんあった。長いものも短いものも、湯の中で母の手首へ集まっていた。

母の顔がようやく変わった。娘を見て、痛い、と言った。友紀は腕を引き続けた。床へ足を踏ん張ると、目地から出た爪が靴底をこすった。浴槽の栓は、友紀のポケットに入っていた。排水口は塞いでいない。それでも湯は減らず、逆に母の腰のほうへ上がっていた。

「手を離して」
友紀が言うと、母は、離してる、と泣くような声を出した。湯の中で指は握っていなかった。どれも掌を開き、誰かに洗ってもらうのを待つように上を向いていた。友紀は自分の両手も見た。右の親指と人差し指の間に、細い白い爪が出ていた。

彼女は手を引っ込め、エプロンでこすった。皮膚が赤くなっただけで、爪は取れない。母が、もういい、と言った。友紀は顔を上げた。
「帰って。あんたまで」
母の肩が水面へ近づいていた。腰掛けているはずの浴槽の縁が、ずっと低い位置にあるように見えた。

友紀は掃除用の柄の長いブラシを持ってきた。母の腕の下へ通し、取っ手の側を反対の縁へ渡した。母はそれにつかまった。両手とも握れた。湯の中の指だけが、まだ掌を開いたまま揺れていた。友紀は母にそのままでいてと言い、番台の奥へ走った。

浴槽には、底の排水口とは別に、掃除で砂を流すための排水管があった。父が改修の際に残した古い管で、裏の弁を開くと浴槽の脇の穴から排水溝へ抜ける。友紀は小学生のころ、そこへボールを落とし、父に怒られた。板の蓋をどけると、埃をかぶった配管が見えた。彼女は軍手も探さず、両手でハンドルを回した。

戻ると、母はブラシに腕をかけたまま床へ座り込んでいた。湯は足首まで減っていた。浴槽の底に、丸い頭がいくつも伏せていた。口のある側を床につけ、タイルの目地へ顔を押し込んでいた。友紀は母を抱えた。脇へ手を入れると、掌の白い爪が母の肌に引っかかった。

母は悲鳴を上げた。友紀は腕を離すまいと、指を握り込んだ。爪が自分の掌へ当たり、鋭い痛みがした。その瞬間、母の身体が軽くなった。二人とも洗い場へ倒れた。振り向くと、浴槽の縁にずらりと爪が並んでいた。下へ戻ろうとする指もあれば、縁を越えようとする指もあった。

母は裸足だった。友紀は自分の掃除靴を脱ぎ、母へ履かせて脱衣所へ引きずった。途中で母が足を止めた。引きずられているのは自分のほうだと思い、友紀も止まった。浴室の戸の隙間に、子供の手が一つ挟まっていた。何かを渡そうとしていた。透明な爪だった。

友紀は戸を閉めた。挟んだ感触はなく、戸は普通に閉まった。母を長椅子へ座らせ、バスタオルを二枚かけた。母は震えていた。友紀が左手の絆創膏を剥がすと、小指の横には傷もなかった。二人で掌と甲を何度も返した。右も左も、指は五本ずつあった。

その晩はタクシーで友紀の部屋へ帰った。母は運転手に、銭湯で滑りまして、と言った。友紀は言い直さなかった。母の手を握り、一本ずつ自分の指に挟んでいた。母は途中で眠り、曲がり角で頭を揺らした。運転手が少し速度を落としてくれた。

銭湯は営業を再開しなかった。母は掃除の人が見つからないからだと、客からの電話に答えた。和枝さんからも電話があったが、手の話は出なかった。友紀は業者に立会ってもらい、番台の現金と母の荷物を出した。浴槽の中は乾き、目地には普通の汚れが残っていた。

最後に出るとき、母が浴室を見たいと言った。友紀は困ったが、止める言葉が見つからなかった。母は戸の前まで行き、開けずに戻った。両手を友紀のほうへ出したので、彼女は一本ずつ指を数えた。母は黙っていた。数え終わると、その手を握って玄関まで歩いた。

玄関で二人とも立ち止まった。母の手と自分の手の間に、もう一本、細い指が入っていた。どちらの手から出ているのか分からない。友紀が力を緩めると、母が握り直した。
「今、離さないで」
母は浴室を見ていた。友紀はもう数えず、二人の手を上着のポケットへ入れた。

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