土田がそのマンションに入ったのは、管理員が急に休んだ夜だった。代行の仕事は珍しくなかったが、泊まりの勤務は久しぶりだった。受付の棚にカップ麺が一つ置かれていて、前の勤務者が買い置きを譲ってくれたものだと思った。
引継ぎをした夕方の管理員は、エレベーターの戸が閉まりにくいと言った。点検の手配は済んでいる。止めているわけではないが、不安そうな人には階段を案内してほしい。
「勝手に直そうとしないでくださいね」
その注意だけは、土田にもよく分かった。機械に詳しいと思われることが多い。制服を着ているだけで、できる仕事が増えるわけではなかった。
十一時までは何も起こらなかった。
住人が帰ってきて、土田へ軽く頭を下げた。初めて見る管理員を気にする人もいれば、顔を上げない人もいた。土田はそのたび受付の椅子から腰を浮かせた。座ったまま挨拶をすると、あとで苦情になる場合があった。
十一時二十分、エレベーターが一階で開いた。
中は無人だった。戸の前に青い布が落ちた。ハンカチかと思ったが、近づくと細長かった。袖だった。青いシャツの左袖が一本、白い床へ出ていた。
土田は拾わず、箱の中を見た。
壁に鏡があり、手すりがあり、床に誰もいなかった。袖は戸の敷居を跨いでいた。奥の端がどこへ続くのか、見えなかった。
閉まりかけた戸が、また開いた。
袖が少し前へ出た。布の先に手があった。
土田は後ずさった。掌が床を押し、指が曲がった。爪は短く、親指の付け根に薄い絆創膏が貼ってあった。生きた人の手だった。
「大丈夫ですか」
箱の中から返事があった。
「もう少しです」
声が普通だったので、土田は一歩戻った。
床に倒れている人の姿が鏡の下へ隠れているのかもしれない。戸の横から覗き直した。奥の壁まで何もなかった。
手は敷居の前で止まった。腕が長すぎた。袖の肘の皺が、床の上を遠くへ進んでいたのに、肩は出てこなかった。
エントランスの自動ドアが開いた。
買物帰りの女が入ってきた。大きな箱を台車へ載せていた。土田が声を掛ける前に、彼女はエレベーターへ寄った。
「あら、まだ」
女は箱を壁へ寄せた。
住人らしかった。土田は、これはいつものことなのかと尋ねそうになった。だが女は床の手を見て、口を閉じた。初めから知っていたわけではないようだった。
「誰か、転んでます?」
彼女は膝をついた。
土田はやめてくださいと言った。女は振り返らず、青い袖へ触れた。
「起きられますか」
指が女の手首をつかんだ。
女の身体が前へ傾いた。引っ張られたのではなかった。肩の厚みがなくなった。土田の横から見ていた肩が、急に薄い板のようになった。
女は声を上げなかった。自分の胸を反対の手で押さえた。
土田は腰を屈め、彼女の上着の背をつかんだ。外へ引こうとした。布だけが伸びた。女の肩の位置が分からなかった。指に骨の硬さが触れたが、すぐ平たく滑った。
箱の中から声がした。
「押さないで」
土田は引いていた。押してはいなかった。
女が手を離した。
青い袖の指が一本ずつ開き、女の手首が抜けた。土田は勢いで後ろへ尻餅をついた。女も横へ倒れた。頭が床へ当たる前に、土田は腕を入れた。
彼女の肩は元の幅に戻っていた。呼吸が速かった。
「何、今の」
女は何度もそう言った。
土田には答えがなかった。
エレベーターの戸が閉まった。
手も袖も、敷居の上で挟まれたはずだった。音はしなかった。戸と戸の間へ青い線が残った。その線が少しずつ下へ縮んで、消えた。
階数表示が二階、三階と進んだ。
土田は女を壁へ寄せて座らせ、点検会社へ電話した。転倒した人がいると伝えたあと、人が挟まっている、と言い直した。受話器の向こうの声が変わった。
「挟まっている方は、今どこに」
土田は階数表示を見た。六階で止まっていた。
「六階です。たぶん」
自分で言って、ひどい説明だと思った。指示された確認には答えたが、機械へは触らなかった。女は膝の上で自分の手を握ったり開いたりしていた。手首に傷はなかった。
点検会社が手配している間に、土田は救急にも電話した。女は、大丈夫だから、と遮ろうとした。土田は頭を打っていないかを確かめてもらいたいと伝えた。
彼女はそれにはうなずいた。土田の腕に頭を載せたときのことを、よく覚えていないらしかった。
「触って悪かったんですね」
女は小さく言った。
土田は、そんなことはないです、と答えた。そう答えてから、もう一度彼女の顔を見た。ほんとうにそう思っていた。
エレベーターが一階へ戻ってきた。
土田は女の前へ立った。戸が開いた。中に人がいた。
青いシャツの男だった。奥の壁へ身体の左側をつけ、横向きに立っていた。顔は見えなかった。箱の中は十分に広かったが、男の前後にも、人が立っているような窮屈さがあった。
男は片足を外へ出した。
足の裏が敷居を踏むと、靴が平たくなった。
土田は、出ないでください、と言った。
男は止まった。
「降りたいんですけど」
いらだった声だった。土田は戸を押さえず、少し離れて、点検の人が来ると伝えた。
「いつ」
「今、こちらへ向かってます」
男はそれ以上訊かなかった。片足を戻すこともしなかった。靴だけが戸の外へ出て、足首から先が紙のように床へ貼りついていた。
女が立ち上がろうとした。
土田は振り返った。彼女は男を助けに行くのではなく、台車へ載せた箱を動かそうとしていた。入口から二人の住人が来ていた。通り道を塞いでいるのが気になったらしい。
土田が代わりに箱を押した。大きいが軽かった。
その間に、男の青いシャツが少し外へ出た。
身体の正面だけだった。
胸のボタンが縦に並び、ベルトがあり、顎の下があった。厚みはなかった。人を真正面から撮った写真を、そのまま立てたように見えた。
それが横へ動いた。
後ろに次の薄いものがあった。胸の裏側だった。肋骨ではない。シャツの裏地と、肌と、何か暗いものが、一枚の幅で並んでいた。
女が口を押さえた。
帰ってきた住人の一人が、エレベーターから顔を背けた。もう一人は靴を見つめていた。
誰も声を出さなかった。土田は二人へ階段を案内した。二人ともそのとおりにした。急がずに歩いた。ここで声を立てれば、自分まで見つかると思っているようだった。
男の身体が一枚ずつ、戸の外へ出た。
青い袖が最後だった。初めに床へ出た手は、胸の正面から離れたところにいた。絆創膏の貼られた指が、袖の端を探して曲がった。
土田は動かなかった。女も壁へ寄ったまま、見ていた。
全部が出るまで五分ほど掛かった。男は途中で一度、後ろへ謝った。
最後の一枚が出ると、男は普通の幅になった。
組み合わさる瞬間は見えなかった。目を離してはいなかった。気づいたら一人で立っていた。
男はシャツの裾を直し、入口へ向かった。
「すみませんでした」
土田へ会釈した。土田は癖で頭を下げた。
男は外へ出ていった。手の絆創膏は、内側から赤くなっていた。
点検の作業員と救急隊は、ほとんど一緒に来た。
女は頭と腕を見てもらい、念のため病院へ行くことになった。箱は受付で預かることにした。中には植木鉢が入っていると言った。
土田は台車ごと壁際へ寄せた。さっき彼女が動かそうとしていた物が、急に壊れやすく見えた。
作業員はエレベーターを止めた。土田の話を最後まで聞いたが、途中からメモを取らなくなった。
「出たんですね、その方は」
土田がうなずくと、作業員は一度だけ箱の中を見た。
鏡の前へ、青い線が何本も立っていた。
土田はそれを見た。作業員も見ているかどうか、尋ねなかった。彼は戸を閉じ、作業用の柵を置いた。
朝まで、住人は階段を使った。
誰も苦情を言わなかった。大きな荷物を持った人にも、足の悪そうな人にも、土田は事情を一から説明しようとした。途中で、分かりました、と返ってきた。
一人だけ、眠そうな男が尋ねた。
「今夜には戻りますよね」
土田は、修理が終われば、と答えた。男は修理という言葉を口の中で繰り返し、ゆっくり首を傾げた。
交代の管理員が来たのは朝八時だった。
土田は未使用のカップ麺を棚へ戻した。女の箱と、病院へ付き添った人の連絡先を引き継いだ。最後にエレベーターを指したが、何から話せばいいか分からなかった。
交代の人は、昨夜はお疲れさまでした、と言った。それだけで、土田の制服の背中が冷たくなった。
外へ出ると、通勤の人が次々に歩いていた。
入口のすぐ横で、青いシャツの男が壁に背をつけていた。昨夜出ていった人だった。朝の光の中で、何も変わったところはなかった。
男は土田に気づき、少し横を向いた。
その身体が、上着の縫い目よりも細くなった。
男の後ろには、もう一人分の正面が残っていた。二人とも、エレベーターの戸が見える場所で待っていた。


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