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祖父の迎え

祖父は、人を迎えに行くのが好きだった。
駅へ着く時間を伝えると、いつも三十分ほど前から待っている。私が改札を出る前に車が見え、運転席から大きく手を振った。学校で嫌なことがあった日も、祖父の車へ乗れば、ひとまず終わったように思えた。

大学の夏休みに、祖父の家へ二週間泊まった。
祖母が亡くなって二年がたち、母が一人暮らしを気にしていた。顔を出してくれれば安心するからと言われたが、私は車を借りられるのが目当てだった。免許を取ったばかりで、家には父の仕事用の車しかなかった。
祖父は、ぶつけなければいい、と鍵を渡した。ほとんど条件はつけなかったが、木曜の夕方だけは使うから空けておいてくれと言った。

二度目の木曜日、夕食の買い物から戻ると、祖父が門の外に立っていた。
私は時間を見た。五時を少し過ぎていた。約束は六時だと思っていた。
祖父は怒らず、まだ間に合う、と言った。
どこへ行くの、と尋ねると、人を迎えに行くのだという。
「じゃあ、俺が運転するよ」
祖父は少し考えてから、そうか、と助手席へ乗った。

町を抜け、昔の峠道へ入った。
祖父が道を教えた。私には馴染みのない場所で、途中から家がなくなった。曲がり角の向こうに、トタン屋根の小さな待合所が見えた。
「そこへ止めて」
ベンチに女の人が座っていた。
紺色の上着に、明るい色のスカートをはいていた。膝の上には茶色い鞄があった。
祖父が窓を下げると、女の人はすぐに立った。
「遅くなって悪かったね」
彼女は首を振った。

後ろへ乗ってもらった。
三十歳くらいに見えた。町の人か、何かの教室の知り合いかと思った。私は自己紹介した。彼女は自分の名を言わず、どうもすみません、と小さく答えた。
祖父が、家の者は帰ってきたの、と聞いた。
彼女は、まだだと思います、と答えた。
「それじゃあ、今日はもう少し待ってみよう」
祖父が言うと、彼女は両手を膝の上で重ねた。

迎えに行ったのに、家へ送らないのが不思議だった。
祖父は町へ下りる道を選ばず、峠を越えるように指示した。私は言われるまま走った。
女の人は窓の外を見ていた。
小さな集落を通りかかると、あの、と声をかけた。祖父が、まだ先だよ、と答えた。
彼女は何も言わなくなった。
祖父は私に、昔はこの辺りまで雪が積もったと話した。私は相槌を打ち、時々鏡で後ろを見た。彼女は、ずっと同じ側の窓を見ていた。

二十分ほど走ったところで、祖父が左へ曲がるよう言った。
狭い道を抜けると、見覚えのあるトタン屋根が出てきた。
さっきの待合所だった。
私は祖父を見た。
ここでいいと言われたので止めたが、ドアを開ける前に、祖父へ尋ねた。
「ここで待ってたんだろ」
「そうだよ」
「また、ここで降ろすの」
祖父は女の人の方を向いた。

「困ったら、そこにいてくれればいいから」
女の人は、ありがとうございますと言った。
降りる時に、鞄の口から白い封筒が見えた。両手で鞄へ押し込み、待合所へ戻っていった。
私は窓を下げ、送らなくて大丈夫ですかと聞いた。
女の人は答えなかった。
祖父が、行こう、と言った。
少し走ってから鏡を見ると、ベンチには誰もいなかった。待合所から外へ出る道は、今走ってきた道路しかなかった。

家へ帰って、私は女の人のことを聞いた。
祖父は夕食の袋を開けながら、昔からあそこへ来る人だと言った。
「家に帰れないの」
「帰れないんだろうな」
何があったのか訊くと、祖父は、そこまでは知らない、と答えた。
私は、木曜はいつもあの人を乗せてるの、と聞いた。
「来てる時はね」
祖父は弁当を電子レンジへ入れ、何分だと表示を見せた。その話はそこで終わった。

翌日、母に電話で話した。
母は途中から黙った。
「おじいちゃん、まだ行ってるの」
私は、知ってるのかと聞いた。
母が若いころから、祖父はあの待合所へ寄ることがあったらしい。最初は困った人がいたので乗せた、と話していた。だが、祖母は何度か乗せるなと言ったことがあるという。
母自身は、女の人を見たことがなかった。
「どういう人なの」
「分からない。おばあちゃんも説明しなかった」
ただ、母には、あの車へ一緒に乗らないよう言ったそうだ。

次の日の昼、一人で待合所へ行った。
夜や雨の日に行く勇気はなかったが、昼なら辺りも分かる。家があるのか、道がほかへ続いているのか、それだけ見たかった。
ベンチは空いていた。
屋根の柱には、昔の時刻表を剥がした四角い跡があった。バスがまだ来る場所には見えなかった。
裏へ回ると、急な斜面になっていた。女の人が、車の進んだ方から歩いて戻ってきたとしても、私は見落とせないはずだった。

ベンチの下に、紙があった。
折り畳んだ便箋だった。雨に濡れて乾いたため、角が丸くなっていた。落としたものなら祖父に渡せると思い、拾った。
字はほとんど読めなかった。
読めたのは、二行だけだった。
「家の場所はわかっています」
「おろしてください」
私は便箋を開いたまま、しばらく立っていた。

祖父へ見せると、あの人が書いたんだろう、と言った。
驚いた様子はなかった。
「家、分かってるって」
私が言うと、祖父は頷いた。
「毎回、そう言う」
「だったら送ればいいじゃないか」
「そこへ行ったって、家はないんだ」
祖父は便箋を裏返し、濡れた跡を指で擦った。

その家は、ずいぶん前になくなったらしい。
祖父が最初に送った時にも、空き地になっていたという。女の人は、ここじゃないと言い、困った顔で車から降りなかった。
祖父は一度、待合所へ戻した。
それから何度も、同じことを繰り返していた。
「どこへ送っても、違うって言うんだよ」
祖父は便箋から目を上げなかった。
「そのうち、こっちが迎えに行くのを待つようになった」

私は、彼女が途中の集落で声をかけたのを思い出した。
あの時の、まだ先だよ、という返事も。
「一昨日、降りたいって言おうとしてたんじゃないの」
祖父は少し黙った。
それから、あそこへ降ろせば、また迷う、と言った。
「帰る家がないんだから」
私は、家がなくても降りたい時には降ろしてやればいいと言った。
祖父は便箋を畳み、食卓の端へ置いた。
「知らないから、そういうことを言うんだ」

次の木曜まで家へいる予定ではなかった。
私は母に、少し延ばすと連絡した。何のためにいるのかは言わなかった。
祖父は機嫌がよかった。帰りに駅へ送らなくていいのだと喜び、好きなものを買ってこいと金を出した。
私はその金を受け取らなかった。
祖父に何かしてもらうたび、先日の車の後部座席を思い出した。そう思うことまでが、祖父に失礼な気もしていた。

木曜日、私は先に車の鍵を持った。
祖父に、今日は自分が運転すると言った。
彼は、道はもう分かるな、と助手席へ乗った。
女の人は、同じ所にいた。
同じ鞄を膝に置いていた。私を見ると、小さく頭を下げた。前よりもやつれて見えたが、目の周りは暗く、よく分からなかった。
私は車を出す前に、どちらへ行きたいですかと聞いた。
祖父が、いつもどおりでいい、と言った。

私は女の人を見た。
彼女は、祖父を見ていた。
「降りたい所があったら、言ってください」
そう言うと、ようやく頷いた。
走り出してしばらくは、誰も話さなかった。
例の集落へ入ったところで、女の人が、ここで、と言った。
私は路肩へ寄せた。
祖父が、だめだと言った。
その声が大きく、私はブレーキを踏みながら彼を見た。

祖父は、窓の外ではなく、私を見ていた。
「お前、後で責任を持てるのか」
女の人が後ろのドアに手をかけた。
祖父は後ろを向き、待ちなさい、と言った。いつも私へ、慌てなくていい、と言う時の声だった。
私は運転席から降り、後ろのドアを開けた。
女の人は鞄を抱え、片足ずつ車の外へ出た。礼は言わなかった。
祖父も降りようとしたので、私は助手席のドアの前へ回った。
彼は私を見上げた。こんな顔をする人だったのかと思った。

女の人は、細い路地へ入っていった。
私は追わなかった。そこが家なのかを確かめに行けば、また帰れないと言って車へ乗せることになりそうだった。
路地の奥で、一度だけ、誰かが笑う声がした。
女の声ではなかった。
祖父が聞こえたかと言った。
私は答えなかった。
古い家の戸が一枚閉まった。その音が、すぐそばでした。

家に着いても、祖父は助手席から降りなかった。
私は先に台所へ入り、夕食の支度を始めた。もう日が暮れかけていた。
米を研いでいると、砂利を踏む音がした。祖父が窓の外に立ち、手招きをした。
私は蛇口を閉めた。
「もう一回、聞いてくれ」
何を聞くのかと尋ねても答えず、祖父は庭へ戻った。

車は二人で帰ってきた時のまま、門に頭を向けてあった。
窓は閉まっていた。車内は暗く、近づくと、私と祖父の顔が映った。
祖父が口の前に指を立てた。
ドアの鍵が開くような小さな音を、私は待っていた。
ところが聞こえたのは、物を引きずる音だった。
がたがたと、重そうなものが床を擦った。食卓の椅子を、後ろへ引く時の音に似ていた。

何人かの声がした。
言っていることは分からなかったが、一人が喋って、一人が答えていた。食器の触れる音も混じっていた。
私は背中に汗をかいた。
女の人の電話か何かが、後ろに落ちているのだと思いたかった。だが声は、車の向こう側にいる人たちの声のようだった。窓を隔てた距離は感じられるのに、狭い車内で喋っている感じがしなかった。
後部座席を覗こうとすると、祖父が私の肩を引いた。

車の中で、戸が開いた。
何年も前から歪んでいるような、途中で二度引っかかる音だった。
路地で聞いた音と同じだと分かった。
「今、帰ったの」
女の声がした。
祖父は私の肩を掴んだまま、門の方を見た。
道には誰もいなかった。

「おじいちゃん、誰か乗ってる」
私は自分でも馬鹿なことを言ったと思う。
祖父は首を横に振った。
乗せた女の人は降りた。後部座席も見た。私たちは二人で戻ってきた。祖父はそれを順に、確かめるように口にした。
もう一度、椅子が動いた。
続いて、湯を注ぐ長い音がした。
祖父が、家へ入っていろと言った。

私はその場を離れなかった。
祖父はポケットから鍵を出し、運転席のドアを開けた。
灯りが点いた。
後ろには誰もいなかった。座席の下にも足は見えず、女の人の落とした鞄もなかった。
祖父は乗らずに、ドアを開けたまま待った。
それきり声も、物を動かす音もしなくなった。

運転席の背もたれの後ろに、細い光があった。
初めは庭の外灯の反射だと思った。
だがそれは、柱と戸の隙間だった。
青い布が少しだけ見えた。誰かが向こう側へ体を寄せ、そこからこちらを見ようとしている。
私は後ろへ下がった。
車内の灯りで照らされた座席には何もない。その座席の奥に、まだ部屋が続いていた。

「どちらさん」
男の声がした。
祖父はドアを閉めた。
また話し声が始まった。さっきまでと同じ調子だった。誰かが来たことも、戸口で追い返したことも、向こうでは気にしていないようだった。
祖父は鍵を私へ渡そうとした。
私は両手を引っ込めた。
それを見て、祖父は自分のポケットへしまった。

家へ入ってから、私は説明を求めた。
怒っていた。祖父が知っていることを全部聞けば、まだ何とかなる気がしていた。
祖父は、前にも一度降ろした、と言った。
「家まで送った時?」
「そうじゃない。その後だよ。もう勝手にすればいいと思って」
私と同じように、途中で降ろしたことがあったらしい。

その晩、祖父は車で寝たという。
祖母と喧嘩をして、家に入りづらかったのだそうだ。
夜中に目を覚ますと、すぐ後ろで何人もが食事をしていた。
祖父は私へ、その人数を指で示そうとした。何度か指を曲げてから、手を下ろした。
「あの人を乗せたはずなのに、こっちがお邪魔していたんだよ」
祖父は、そこから先を話そうとしなかった。

次の朝、私はバスで駅へ向かった。
祖父も途中まで一緒に歩いた。車は門の前に置いてきた。
私が隣を歩いていても、祖父は時々、誰もいない側へ道を空けた。狭い所でもないのに、肩を引き、何か言いかけて黙った。
私は女の人を降ろした場所を覚えているか、と聞いた。
祖父は、覚えているよ、と答えた。
だったらもう一度行こう、と私は言った。
祖父は長い間、足元を見ていた。

「あそこに戻れば、あの人を連れ出せると思ってるんだろう」
祖父も同じことを考えたのかもしれない。
それから何年もの間、一周しては同じ所へ戻していたのだ。
私は、今も何も分かっていないのか、と聞きたかった。けれど聞けなかった。
家の方で、車のクラクションが短く鳴った。

その後、祖父は母の家へ移った。
車は今も庭にある。母が片づけに行った時には、近所の人から、まだ誰か住んでいるのかと聞かれたそうだ。夕方になると、車を置いた辺りから煮炊きの匂いがするという。
私はあの家へ戻っていない。
祖父は母に、一度でいいから車まで送ってほしいと頼んでいる。
迎えに行きたい人がいるのだろう、と母は言う。

祖父が何をしに戻りたいのか、私には分からない。
ただ、どちらさん、と呼ばれた時、祖父は私を見なかった。
私が覗き込むより先に、帽子もかぶっていない頭へ手をやり、慌てて身を屈めた。
そのまま戸口を通ってしまいそうに見えた。

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