出社したくない朝に限って、自転車が重くなった。早紀は駅前の坂を上りかけ、ペダルへ体重をかけた。いつもなら立たずに上れる坂だった。チェーンも外れていないし、タイヤの空気もある。それでも前輪が回らず、両脚の力を受け止めたまま止まっていた。
会社で異動を言い渡された翌朝だった。早紀は希望を出していなかった。遠い支店で人が辞め、独身で転居しやすい彼女が選ばれたのだろう。そう思うと承知しましたと返事をした自分にも腹が立った。自転車を下り、引き返すと、車輪は嘘のように軽くなった。
最初は坂のせいだと思った。平らな裏道で駅へ向かおうとすると、今度は曲がり角で止まった。二人乗りでもしているように後ろが重い。早紀はサドルを振り返った。濡れた落ち葉が一枚載っていた。雨は三日前に上がっていた。葉を払い落とすと、車輪が少し回った。
その日は有給を取った。駅へ行かずに川沿いを走ると、自転車は気持ちよく進んだ。風の音に混じり、ときどき後ろで短く息を吐く音がした。早紀が止まれば止まり、漕ぎ出せばまた聞こえた。後輪に枯草でも絡んだのだろうと考え、途中の自転車店へ入った。
店主は早紀より十ほど年上の女性だった。前にパンクで世話になったことがある。自転車を台へ載せて後輪を回し、問題ないですね、と言った。早紀が、荷物を載せると止まるような、と説明しても、鞄を載せたくらいでは変わらなかった。店主はブレーキを確かめ、途中で指を止めた。
前のかごの支えに、毛糸が巻いてあった。早紀が高校生のとき、祖母が自分の自転車を譲ってくれた。かごががたつくので、隙間へ糸を巻いたのだという。早紀はそのまま使っていた。店主が糸を外そうとすると、車輪が台の上で回った。勢いがありすぎ、彼女は咄嗟にタイヤを押さえた。
「これ、誰かが長く乗ってました?」
早紀が祖母のことを話すと、店主は糸をほどくのをやめた。代わりに、今朝どこで止まったか聞いた。説明すると、店主は近くに住んでいた知人の話をした。昨日から、自分の家へ帰れないと言っている。住所は変わらないのに、その通りが見つからないらしい。
早紀は道に迷う人の話をされても困った。地図を見ればいいだけではないか。店主はそれ以上説明せず、料金はいらないと言った。早紀は礼を言い、店を出た。自転車を押して道路へ出る直前に、かごが腕を引いた。早紀は止まった。その前を、音の静かな車が通り過ぎた。
助けられた、と思った。祖母も危ないとき、声より先に服の袖を引く人だった。自転車の毛糸は紺色で、だいぶ色が褪せていた。早紀は指で押してみた。柔らかく、ほどけそうになってはいなかった。川沿いへ戻ると、車輪はまた軽くなった。会社からの電話に出て、異動の日程を聞いた。
帰り道、昔の同僚が待っていた。近くに住んでいて、異動の話を聞きつけたのだという。駅前でお茶でも飲もうと誘われ、早紀は少し迷った。今から会社の愚痴を始めると長くなりそうだった。断る言葉を探しているうち、自転車が急に斜めになった。後輪だけが段差に引っかかったように動かなくなった。
同僚は予定があるのかと聞いた。早紀が頷くと、自転車は起きた。彼女と別れてから、背後を振り向いた。同僚はまだ立っていて、駅へ向かう道を探すように首を回していた。毎朝使っている駅だった。早紀が駅はあっちと指すと、相手は、そこ、塀じゃない、と答えた。
早紀には道が見えた。狭いが、人が二人並んで歩ける道で、突き当たりに踏切の遮断機がある。同僚は塀に手を当てる仕草をした。掌が空中で止まり、そのまま左右へ滑った。早紀は自転車を置いて近づいた。スタンドを立ててハンドルから手を離すと、同僚が前へのめった。急に道が見えたらしく、照れたように笑った。
その晩、早紀は自転車を自室へ入れた。古いアパートの一階で、盗まれたくないときには時々そうした。前輪を玄関に置き、後輪を新聞紙へ載せた。仕事へ行きたくない。愚痴を聞きたくない。そう思ったときに止まり、別の人の前に道がなくなる。考えたくなくてテレビをつけた。
朝になると、新聞紙が折り畳まれていた。後輪の下で、小さな扇の形になっていた。中には切り抜いたような路面が見えた。印刷された写真ではなかった。アスファルトに白い線があり、小さな靴がその端を歩いていた。早紀はしゃがみ、新聞紙を広げようとした。靴は動きを止め、爪先だけをこちらへ向けた。
彼女は手を引いた。紙は自分で元の形へ折れた。後輪が一度だけ回り、靴も路面も見えなくなった。窓の外で人が、すみません、と言った。早紀がカーテンを開けると、男が一人立っていた。スーツのズボンに自転車用の裾留めをつけていた。近所の者ですが、道を教えていただけませんか、と聞いた。
早紀が玄関を開けると、男は門の向こうを指した。自宅へ入れないのだという。男の家は二軒先で、普通に玄関が見えていた。早紀がそう伝えると、彼は頷いた。
「玄関は見えるんです。そこまでがない」
男は門をまたごうとして、片足をすぐ戻した。足首から先がひどく濡れていた。道に水はなかった。
早紀は自転車を外へ出した。男がこちらを見ると、車輪が重くなった。早紀の腹に、早く帰ってほしいという気持ちがあった。それに気づいて怖くなった。ハンドルを持つ手を離すと、自転車は倒れた。男は濡れた靴を見て、急いで自宅へ戻った。今度は普通に歩けた。
店主へ電話した。彼女は自転車を持ってきてと言った。早紀は乗らずに押した。駅前の坂も、同僚と別れた角も、歩けば通れた。ただ、ペダルが回るたび、道端の家の玄関が少し遠くなる気がした。早紀はペダルを紐で車体へ固定した。押すだけなら、車輪だけが回った。
店主は毛糸の結び目を見て、祖母はもういないのかと聞いた。早紀は頷いた。祖母が死んだあと、自転車を捨てようとしたことがある。回収の日に体調を崩し、翌月は雨が降り、結局今まで残していた。話しているうちに、それも全部、行かなくて済んだ道なのかと思えてきた。
店主は近くに住む知人から預かった鍵を取り出した。合鍵を何本か束ねていた。今朝、自宅の玄関へ行けなくなり、店で休んでいる。奥の休憩室に人がいた。早紀には足だけ見えた。靴の横に濡れた靴下が置かれ、指の先が白くなっていた。
「直せますか」
早紀が聞くと、店主は答えに困った顔をした。直す場所がない。自転車は壊れていない。早紀が乗るのをやめればどうなるか、それも分からない。店主はただ、あの人を家へ戻してあげたい、と言った。自転車の後輪が、誰も触らないのに半回転した。
奥で男が呻いた。店主が走り、早紀もついていった。男の足元に、細い道路が伸びていた。畳の縁と縁の間へ、濡れたアスファルトが挟まっていた。その先に、小さな門が見えた。男が足を入れようとすると、店主が肩を押さえた。とても人の通れる幅ではなかった。
早紀は自転車へ戻った。紐が外れ、ペダルがゆっくり回っていた。右、左と、誰かの足で漕ぐように。彼女はペダルをつかんだ。かごの毛糸が引かれ、手の甲に糸の跡がついた。自分を止めてくれていた力だと分かった。だが、いま止めてほしいのは自転車のほうだった。
店主が工具を持ってきた。二人でペダルを外した。早紀は初めて、自転車の横に腰を下ろして作業を見た。乗っていれば分からない位置に、靴底の形の泥がついていた。右も左も、大人の靴ではなかった。祖母の靴でもない。子供が立つ場所を何度も変えたように、泥の跡が重なっていた。
ペダルが外れると、奥の男が立てた。道路はまだ床の間にあったが、指で触れるほど薄くなった。店主は彼を支え、店の外へ出た。男は自分で歩き、角で一度止まり、その先へ進んだ。店主が戻るまで、早紀は自転車を立てずに横倒しにしていた。かごの毛糸が、床を探るように少し動いた。
異動の日は変わらなかった。早紀は上司へ電話し、急に決められたのは困る、と初めて言った。待遇も住む場所も、返事をしたあとで聞くことではなかった。上司は驚いた声を出したが、説明し直すと言った。電話を切ると自転車が軋んだ。早紀はそれを直すために手を伸ばさなかった。
店主は処分業者の場所を紙に書いた。持ち込める日を調べ、早紀の休みに合わせて連絡してくれた。車で運ぶこともできると言われたが、早紀は歩いて持っていくことにした。どうしてかと聞かれて、途中の道を見ておきたい、と答えた。自分でも、それ以上の説明はできなかった。
土曜の朝、自転車を押して出た。店主が外したペダルは箱に入れ、かごへ載せた。毛糸は切らずにあった。最初の角でハンドルが左へ引かれた。早紀は右へ曲がった。腕に力が要った。前輪の先に、短い路地が現れた。以前あった銭湯の看板が見え、入り口の前で何人かが動かずに立っていた。
彼女は立ち止まらず、今の道を歩いた。次の角では、川沿いへ行くほうが軽かった。遠回りでもそちらなら楽だったが、紙に書いてもらった道を進んだ。後輪から、濡れた新聞紙が一枚ずつ剥がれた。振り向くと、紙は路面に落ちる前に広がり、小さな交差点になって消えた。
途中で何人も、早紀に道を尋ねた。知っている場所だけ教え、分からない場所は分からないと答えた。男も女も、若い人も年寄りもいた。一人だけ、祖母と同じ歩き方の人がいた。追いつこうとしかけると、自転車が急に軽くなった。早紀は足を止め、かごの紙を読み直した。
処分場へ着いたのは昼だった。受付の人は、まだ乗れそうですね、と言った。早紀は、乗りません、と答えた。ペダルの箱も渡し、毛糸をどうするか聞かれた。自転車につけたままでお願いしますと言った。係員が車体を台車へ載せると、サドルの上に小さな膝が二つ出た。
係員には見えなかったらしい。台車を押して奥へ行った。早紀はその場から声をかけなかった。止めれば、またどこかの道を選ばずに済む気がした。受付の窓に、彼女の後ろの道路が映っていた。来るときに通った角が、いくつも重なって並んでいた。
早紀は歩いて店へ戻った。店主の知人は自宅へ帰れたが、駅へ出る道が一本、まだ見つからないと言っていた。早紀は自分が異動することを伝えた。店主は気をつけて、と言った。早紀が別れを告げて歩き出すと、背後でベルが鳴った。道を渡るのをやめれば安全だったかもしれない。彼女は左右を見て、車が来ていないことを自分で確かめてから渡った。


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