夕方に友人が庭へ入ってきた。
カブを見せろというのが口実で、用件が別にあるのは顔でわかる。缶コーヒーを持たせて縁側に座らせると、案の定切り出した。
「夜の道でさ、灯りって信用できると思うか」
この友人をMと呼ぶ。夜の配達を長くやっている男で、ビジネスバイクで住宅地を回っている。
雨の日も風の日も同じ区域を走るから、道のことは郵便屋の次に詳しい。数字や時間にやけに律儀で、話を面白くする癖がない。
深夜二時に販売所を出て、朝刊を配って回る。郵便受けの蓋を鳴らさない入れ方に妙な誇りを持っている、そういう男だ。
そのMが、配達の区域を替えてもらったという。
理由を聞くと、しばらく缶コーヒーの口を見てから話し始めた。
Mの区域に、田と宅地の境を走る直線の市道があった。
千葉県内の住宅地の外れで、これ以上の場所は伏せる。配達先が残っているからだ。
道の片側に防犯灯が並んでいる。等間隔で、順にLEDへ替えられて、夜は白い光が点々と続く。
その中に一本だけ、古い蛍光灯の柱が残っていた。

橙色の、少し疲れた光。その一本だけが点滅していた。
切れる寸前の蛍光灯なら、配達の道には年中ある。
後になって思えば、その柱は半年前からずっと同じ調子で瞬いていた。
交換の様子もないのに、切れもしない。
蛍光灯の寿命なら珍しくもない。Mも最初は気に留めなかったそうだ。
ある晩、点いた瞬間の柱の下に、人が立っていた。
消えると誰もいない。
次に点いたときも、いない。
残像だと思ったという。走行中の視界の端なら、いくらも見間違える。
見間違いなら、毎晩は続かない。
数日おきに点いた一瞬だけ、それは柱の下に立っていた。
Mが本気になったのは立ち位置に気づいてからだ。

最初は柱の真下だった。
次に見たときは路肩の白線の上。
その次は白線の内側。
車道側へ、Mの通る側へ少しずつ出てきている。
一度だけ、バイクを停めて確かめた晩があるという。
配達の途中で柱の手前に停まり、ヘッドライトを点滅する灯りの根元へ向けた。
ライトの輪の中には誰もいない。アスファルトと、伸びた夏草だけ。
ライトを消すと点滅が再開した。
点いた一瞬、それはさっきより手前に立っていたそうだ。
Mはそれきり、停まって確かめることをやめた。速度を落とすことも。
Mは律儀な男なので、信号待ちのあいだに点滅を数えた。
点いて一・八秒。消えて一・八秒。
配達端末の時計で幾晩か計り、狂いがないことを確かめた。

「寿命の蛍光灯は、あんなに揃わない」
Mは断言した。切れかけの灯りは震えるように瞬く。あれは呼吸みたいに規則正しかったと言う。
古い配達先の爺さんに、それとなく訊いたことがあるそうだ。
爺さんは新聞を受け取る手を止めて、道の方を見た。
「点いとるうちに通れ」
「消えとる間は、向こうの番だ」
それ以上は教えてくれない。昔あの道には灯りが一本もなく、提灯なしで歩くなと言われていた。聞き出せたのはそれだけだ。
Mは販売所に頼んで区域を替えてもらった。
ひと月ほどして、新しい区域の防犯灯が一本、点滅を始めたという。
「だからさ」
Mは缶コーヒーを飲み干して言った。
「あれ、多分ついてくる。灯りを替えてるんじゃない。俺の通る道に、ああいう一本ができる」

翌々日の深夜、カブで出た。
Mの元の区域まで下道で三十分ほど。国道を離れると信号が減り、家々の窓の灯りも減っていく。
コンビニの看板が最後の明るさで、その先は田の匂いだけになった。
夜気に稲の青い匂いが混ざる。カブのライトが届く範囲の外は、塗ったような暗さだった。
例の直線に入る手前でカブを停めた。歩いて確かめたかったからだ。
エンジンを切ると、耳の中で余韻がしばらく回った。
ヘッドライトも消す。目が慣れるまで、道の白線だけがぼんやり浮いていた。
七月の夜で、両側の田には水が張られている。蛙の声が敷きつめたように続いていた。
防犯灯を数えながら歩く。一本目から七本目までは白いLEDの光。
八本目だけが橙色で、点滅していた。
白い柱の光には、どれも小さな羽虫が群れていた。
八本目にだけ、一匹も付いていない。
夏の灯りに虫が寄らないのを、初めて見た。

近くの柱には管理番号のプレートが付いている。他の柱は番号が読める。
八本目のプレートは、番号の部分だけ塗料が浮いて剥がれ、読めなかった。
離れた位置で立ち止まり、スマホのストップウォッチで間隔を計った。
点灯一・八秒。消灯一・八秒。
二十回計って狂わない。Mの言ったとおり、機械の故障の瞬き方ではなかった。
動画も回した。
後で見返すと、点滅は映っている。間隔も一・八秒で揃っている。
柱の根元は、点いている瞬間のコマだけ画素が潰れて、黒い染みにしか見えなかった。
肉眼で見えたものは、一枚も残っていない。
計りながら気づいたことがある。
灯りが消えるたび、蛙の声がその一角だけ薄くなる。
点くと戻る。耳の錯覚と言われればそれまでの、その程度の差。

十数回目の点灯のとき、柱の根元に足が見えた。
足だけ。素足に見えた。
次の点灯では消えている。
さらに数回おいて、また現れた。白線の上に。
Mの話した順番のとおりだった。立ち位置が、道の内側へ移っている。
足の向きまで見えた。
爪先が道の内側を向いている。歩く者の足ではなく、こちらへ踏み出す前の足の向きだった。
引き返すならここだとわかっている。
わかっていて、足は柱を数え続けた。動画より、この目で間隔の崩れを確かめたかった。
一本ずつ柱を数えながら近づく。六本目を過ぎたあたりで、ストップウォッチの数字が崩れ始めた。
一・八が二・一になり、一・五に縮む。
伸びたり縮んだりを繰り返す。故障が今になって出たのかと思った。
七本目の柱の下で、揃っていることに気づいた。

数字ではない。自分の息と揃っている。
吸うと消える。
吐くと点く。
胸の上下と橙の明滅が、狂いなく重なっていた。
試しに息を止める。
灯りは消えたままになった。
十秒。二十秒。こめかみで自分の脈だけが数を刻む。
暗さが長いほど、点いたときに何が見えるかを考えてしまう。
道の先が暗い。蛙の声が薄い。その薄さの中で、砂利を踏む音が一歩ぶん、鳴った。
近い。
息を吐く。点いた。
足が、白線の内側に入っていた。こちらの車線に。

この灯りは、電気で点いていない。
そう理解した。理解した瞬間から、自分の息が急に手動になった。吸って吐いてと順番を頭で追わないと続かない。
吐くたびに点く。点くたびに、確かめたくなる。確かめれば、足は前より近いに決まっている。
八本目までは行かなかった。
息を数えながら後ろへ下がり、六本目から五本目へと柱を戻った。
橙の点滅は背中側に回る。振り返らずに歩幅だけ広げた。
五本目の柱の下で、吐いた息が白く見えた。
七月の夜にだ。白い塊は灯りの中で一拍だけ残り、ほどけた。
カブに跨ってエンジンをかける。排気音で自分の息が聞こえなくなり、それだけで肩が下りた。
直線を戻る。前方の田の水面に、光が映り込んでいた。
橙色の明滅。
進行方向の水面に、だ。八本目の柱はとうに背中側にある。
映った光は速かった。一・八秒どころではない。浅く細かく、誰かが肩で息をするような速さで瞬いていた。

国道に出るまで、水の張られた田が途切れなかった。
Mがまた庭に来たのは数日後だ。
順を追って話すと、Mは間隔のことだけ聞き返した。
「お前のときも一・八だったか」
途中から変わった、と答えた。息と揃った、とも。
Mは長いこと黙っていた。帰り際、キーを指で弄びながら言った。
「俺のときは、最後まで一・八だった」
それから思い出したように付け足す。
「区域は替えられる。家の前は、そうはいかんだろ」
その意味を、このときはまだ深く考えなかった。
Mはいまも夜の配達を続けている。癖がひとつ増えた。
口で息をしない。鼻で浅く吸い、灯りの下では吐かない。

信号待ちで隣に並ぶと、胸がほとんど動いていない。慣れだと本人は言う。
私のほうにも、ひとつある。
先週から、家の前の防犯灯が点滅を始めた。
市に連絡すると業者が来て、球は切れていませんと首をひねる。頼み込んでLEDごと交換してもらった。
業者が帰ったあと、柱の管理番号のプレートを確かめに行っている。
番号は読める。読めたことに、胸を撫で下ろしている自分がいた。
新しい灯りは、昨夜また点滅した。
寝室のカーテンは遮光の厚いものに替えている。それから、布団の中で自分の寝息を数える癖がついた。
数えているうちは息が乱れない。乱れなければ、外の間隔と揃うこともない気がしている。
根拠はない。
カーテン越しの明滅は、いまも続いている。
自分の寝息と合っていないことを、確かめる方法がない。


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