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眼鏡を貸す

広瀬は、岩瀬の眉毛が左右で違うことを、その眼鏡で初めて知った。右は薄く、左は途中で切れている。十六年も向かいの机で働いていたのに、知らなかった。そう言うと岩瀬は、今ごろか、と笑った。

会社は小さな包装資材の卸で、二人とも営業だった。客先へ行く日が減り、商品の細かい注意書きを読む仕事が増えた。広瀬は老眼鏡を嫌っていた。紙を遠ざければ読めるうちは、と思っていたが、返品の数字を読み違えたので言い訳ができなくなった。

「これでよければ使えよ」
岩瀬が引出しから出したのは、銀色の細い眼鏡だった。耳に掛ける部分が片方だけ茶色い。度は知らないという。会社を辞める人が共用の文具入れに置いていったらしかった。岩瀬も、その人から借りたままだと言った。

鼻に載せると、不思議なほど文字がはっきりした。顔を上げても、相手がぼやけなかった。広瀬は感心し、そのまま午前中の伝票を片づけた。昼前に眼鏡を返すとき、岩瀬の頬に小さな口があるように見えた。

本当の口よりずっと上、耳の手前だった。横に細い皺があり、そこへ薄い唇が挟まっていた。広瀬が見ていると皺が閉じた。岩瀬は電話を取り、客の名前を繰り返した。声は普段どおりの口から出た。

翌日も借りた。必要だからだと自分では思っていたが、昨日の頬をもう一度見たかった。眼鏡を掛けると、耳の前に鼻筋があった。小さい横顔が、本来の顔から逃げるように外を向いていた。

広瀬は笑って、何か付いている、と言った。岩瀬は頬を拭った。
「こっちじゃない、もう少し後ろ」
岩瀬の指が耳へ移った。小さな横顔は、その指が来る寸前に髪の中へ入った。広瀬の口から笑いが消えた。

総務の女性に、岩瀬さんの顔、変じゃないかと聞いた。彼女は机越しにちらりと見て、寝不足でしょう、と答えた。見たときにはもう、返事のメールを打っていた。広瀬は携帯を取り出したが、人の顔を隠れて撮る気にはなれず、机へ戻した。

その晩、岩瀬は一人で残業していた。広瀬も帰りそびれ、近くの定食屋へ誘った。久しぶりだった。昔は出張の帰りに飲んだものだが、広瀬に子供ができてからは誘わなくなった。岩瀬が誰と暮らしているかも、今は知らなかった。

眼鏡はまだ広瀬の胸ポケットにあった。メニューを見るために掛けると、岩瀬の耳がひどく後ろへ寄って見えた。頬の面積が広い。顔をそむけても、正面にいたときの目が広瀬を見ている。横を向くための場所が足りないようだった。

「お前、こっち見てるか」
広瀬が尋ねると、岩瀬は箸を止めた。
「さっきから、そっちが見てるんだろ」
目が合った。岩瀬は目を伏せたが、頬にある小さな目は伏せなかった。広瀬を見ながら、口のないところで笑った。

広瀬は眼鏡を外した。いつもの岩瀬だった。少し太ったかもしれないが、顔の形は変ではない。ただ、唇の端を噛んでいた。広瀬が子供の受験の話を始めると、岩瀬はいつものように相槌を打った。

帰り道、岩瀬が突然言った。
「明日から、それ貸せないから」
広瀬は眼鏡を返した。岩瀬は受け取ったが、ケースへしまわず、自分の胸へ押し当てた。その手の甲に赤い跡があった。まぶたを強く擦ったような、柔らかい皮膚の跡だった。

金曜日、岩瀬は会社へ来なかった。有休だという。引継ぎは広瀬の机に置いてあった。担当先を分ける話が進んでいると、そのとき初めて知った。部長に尋ねると、本人から聞いているだろう、と言われた。

岩瀬は今月で辞めるつもりだった。親の介護かと広瀬が聞くと、部長は、理由までは、と答えた。それから、君が引き受けてくれるから安心したと言っていたぞ、と付け足した。広瀬には引き受けた覚えがなかった。

昼休み、岩瀬へ電話した。呼出音が切れるまで待ったが出ない。机の引出しに、銀色の眼鏡が入っていた。ほかの物は片づけてあり、小さな鉛筆削りだけが残っていた。広瀬は、あいつは何度辞めると言ったのだろう、と考えた。

最近、岩瀬が口を開くたび、広瀬は自分の話をしていた。受験の費用、妻の機嫌、売上。岩瀬は何度も、あとでいいんだけど、と言った。あとでと言う相手に、あとで聞こうと思った。それだけのことだった。

土曜日に電話が来た。
「眼鏡、机にあった?」
広瀬は、あると答えた。自分の鞄へ入れてあった。岩瀬はしばらく黙り、持ってきてくれないかと言った。声は近いのに、受話器を掌で覆っているように籠もっていた。

岩瀬の部屋は駅の裏の古い集合住宅にあった。広瀬は初めて訪ねた。玄関の鏡にタオルが掛かっていた。テレビは壁へ向けてある。日焼けした家族写真の額も伏せてあったが、眼鏡を掛けなくても部屋の人は一人だと分かった。

岩瀬は広瀬へ背を向けて座っていた。襟を立て、耳まで隠していた。
「そこに置いて」
指したのは洗面器だった。底に新聞紙を敷いてある。広瀬が眼鏡を置くと、レンズの下で紙が小さく膨らみ、それから元へ戻った。

「何があるんだ、これ」
岩瀬は肩を動かした。
「見ないところが、見える」
冗談だろうと返せる声ではなかった。広瀬は廊下に立ったまま、岩瀬の後頭部を見た。髪の分け目が耳の下まで続いている。その奥に、細い歯が並んでいた。

岩瀬は、眼鏡を借りた相手のことを話した。退職の挨拶の日、机を空にした老人が何度もこちらを向いたのだという。何か言いたげだったが、岩瀬は忙しくて、その度に目を逸らした。最後に老人は眼鏡だけ置いて帰った。

「見えなかったんじゃなくて、見なかったんだと思った」
眼鏡を掛けると、人の目から外れている顔が見えたという。笑ったあとに残る顔、怒りをこらえて横を向いた顔。最初は気のせいで済んだ。だが、気づいて見るたび、相手が隠れる場所を変えた。

「俺の顔を、お前が見つけちゃった」
岩瀬は笑おうとした。喉で声が割れた。
「会社じゃ、誰も気づかなかったのに」
広瀬は、だから自分へ貸したのかと聞いた。岩瀬は首を振った。振った後頭部の下で、小さな歯が一斉に閉じた。

「伝票を読むだけなら、と思ったんだ」
広瀬は洗面器を見下ろした。新聞の写真にある人の顔が、レンズの下で横を向いた。文字は動かない。印刷の顔だけが枠の外へ逃れようとしていた。眼鏡の縁に引っかかり、口が細く潰れていた。

広瀬はタオルを借り、眼鏡へ掛けた。岩瀬の肩から力が抜けた。ところが、タオルの織り目の間に、無数の小さな目ができた。どれも広瀬を見ている。彼が目を逸らすと、今度は足の甲へ視線が当たった。

「掛けるな」
岩瀬が言った。広瀬はタオルから手を離した。岩瀬が畳を擦り、洗面器へ近づいてきた。顔は見ないつもりだった。それでも、近づく人へ顔を向ける癖が勝った。

岩瀬の顔の皮膚は、耳を越えて後頭部へ回り込んでいた。頬とこめかみの境目がなくなり、目の下に別の目が開いていた。どれも困りきった岩瀬の目だった。隠そうとして手を上げると、その手の隙間から、さらに小さな顔が押し出されてきた。

広瀬は眼鏡を掛けていなかった。見つけた場所を、もう忘れられない。岩瀬は両手で頬を押さえ、壁へ顔を付けた。壁紙に口の形ができた。隣の部屋へ向かって、誰かが短く息を吐いた。

広瀬は台所へ逃げた。戸を閉めればよかったのに、閉め切れなかった。岩瀬の背中が畳の上で小さく丸まった。広瀬が少しの隙間から見ていることを、あちらはまだ知っていた。シャツの背に、閉じたまぶたが二つ浮いた。

見るのをやめた。台所の壁へ額を付け、手で耳も塞いだ。どうして耳を塞いだかは分からない。名前を呼ばれたら振り返ると思ったのかもしれない。しばらくして、岩瀬が畳を爪で掻く音だけ聞こえた。

「聞こえるか」
広瀬は壁に向かって言った。
「退職の話、ちゃんと聞かせてくれ」
返事はなかった。謝れば元に戻るなどと思ってはいなかった。何を言っても、友人を見ないでいるための言い訳になった。

岩瀬は、今それを聞くのか、と言った。ひどく嫌そうな声だった。広瀬は、今聞きたい、と答えた。岩瀬が笑った。先ほどとは違う、鼻から息の抜ける笑いだった。それから二人は、しばらく何も言わなかった。

広瀬は目を閉じたまま手を伸ばし、隣の空いた場所を叩いた。岩瀬の体重が畳へ移った。同じ壁を向いて座った。肩が触れたとき、岩瀬が息を止めたので、広瀬は少し離れた。昔のような距離なら大丈夫とは限らなかった。

岩瀬は会社を辞めて、元の妻がいる町へ引っ越すのだという。やり直すのかと広瀬が聞くと、そんなことは決めていない、と言った。まず話を聞いてもらう。駄目なら駄目で、その町で仕事を探す。それだけだった。

洗面器を、岩瀬がゆっくり引き寄せた。布を取る音、眼鏡を畳む音がした。広瀬は壁の染みを見続けた。やがて、取れない、と小さく言われた。何が、と聞く勇気はなかった。岩瀬は、それはもういい、と言った。

その晩、二人は台所の小さな机の、同じ側で弁当を食べた。広瀬が箸を落とすと、岩瀬が別の箸を出した。受け取る際にも相手の顔を見なかった。窓は暗かったが、ガラスには新聞紙が貼ってあった。

引っ越しの手伝いは、広瀬が申し出た。岩瀬は断った。会社への最後の挨拶も電話で済ませ、誰もそれを不自然だと言わなかった。机から出た鉛筆削りだけ、広瀬は小包で送った。眼鏡のことは、荷物に添えた紙へ書かなかった。

半年後、二人で食事をした。岩瀬が選んだのはカウンターの店だった。元の妻との話は少しも進んでいないらしい。広瀬は自分のことを話す前に、それから、と尋ねた。岩瀬が湯呑みを置き、続きを話した。

店員が料理を出すため、正面に立った。広瀬はつい、岩瀬の皿を手前へ引いた。店員はこちらへ回り、皿を置いた。岩瀬は何も言わなかった。彼の膝に置かれた眼鏡のケースの中で、固いものが二度、まばたきをした。

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