木を見に行く途中で、福原は自分の車の音が消えたことに気づいた。
エンジンは動いていた。足元には細かな振動があり、道の砂利も跳ねている。窓を下ろすと冷たい風が入り、葉の匂いがした。それだけだった。車を止め、戸を閉めても音がしない。何度か耳を押さえた。何か詰まったのかと思ったが、自分の指で耳を擦る音だけは聞こえた。
土地の所有者は、待ち合わせた土場に立っていた。四十代の女で、片方の手袋を外して持っていた。高瀬という名は、紹介してくれた材木商から聞いていた。福原が名乗ると、彼女は頷いた。
唇は動いたが、声は聞こえなかった。
福原は自分の耳を指した。高瀬は驚かず、道を少し下るよう手で示した。二十歩ほど戻ったところで、風の音がした。振り返ると、彼女が何かを言いながら近づいてきた。最後の二文字だけが聞こえた。
「……です」
「もう一度、お願いします」
「ここから上は、静かなんです」
福原は古い材を買い、店舗の内装などへ売っていた。倒れた大木の根元を輪切りにして、テーブルへ使えるかという相談だった。紹介した男は太い木だとしか言わず、写真を送ってきた。根が土を抱えたまま横倒しになっていた。年輪の美しさまでは分からなかったが、古材を探す客がいるので見に来た。
高瀬は、父親が死んでから手入れをしていない山だと話した。父の死因を福原は聞かなかった。土地と人の死を近づけると、材の値段の話がしにくくなる。倒木がどこまで傷んでいるかを先に見たかった。
「静かなのは、前から?」
高瀬は頷いた。
「父が切り始めてからです」
福原はそこで立ち止まった。
土場から見えるところに幹が寝ていた。根元には以前に切った断面があり、黒く濡れていた。幹の横へ、円い板が一枚立てかけてある。最初に試し切りしたものだという。父が切ったあと、気に入らず、そのまま置いた。高瀬は無音の場所へ入り、板を両手で持った。唇が何かの形になった。
福原は彼女について入った。足音もなくなった。高瀬から板を受け取ると、掌が痺れた。振動しているのではない。木の中へ手を入れてしまったように、指の先の感覚が離れた。
年輪の間から、鳥が鳴いた。
音の小さな録音を聞くようだった。福原が顔を近づけると、鳥の声の下に鋸の唸りがあった。厚い円板を背後から誰かが切っている。反対側を見ても、濡れた木の面があるだけだった。福原は思わず板を地面へ置いた。音は止まらず、年輪の中心で、男が短く咳をした。
高瀬の父なのだろうか。彼女を見ると、顔を背けていた。福原は尋ねなかった。ここでは自分の声も出ないと思っていた。試しに名前を呼ぶと、板の上から声がした。高瀬が板を見た。福原の顔を見なかった。
二人は元の道へ戻った。福原は板を置いてきたが、指先へ木の冷たさが残っていた。
「録音か何かですか」
そんな質問しかできなかった。高瀬は、そうなら助かる、と答えた。板を割って中を確かめたことはない。割る道具を持って近づくと、手が止まるのだという。
「脅されるとか?」
「音がするから」
「どんな」
高瀬はしばらく考え、近くで人が暮らしてる音、と言った。
父親がここで死んだわけではなかった。病院で亡くなり、葬儀も町で済ませた。そのあと高瀬が山へ来ると、いまのように静かだった。最初は自分の耳がおかしくなったと思った。林の中の幹へ耳をつけると、食器を洗う水音が聞こえた。包丁で何かを刻む音もした。そばに家などない場所だった。
福原は値段を出せないと伝えた。買わないと言ったつもりだったが、高瀬は、無料でもいいです、と答えた。
「ここに置くのも、嫌なんです」
「捨てる仕事は、してないので」
彼女は言い返さなかった。福原も、言い方が冷たかったと思いながら直せなかった。自分で聞いたものを、処分に困った材として車へ積みたくなかった。
帰る前に写真だけ撮ることにした。紹介した材木商へ、どんな状態だったか伝えなければならない。高瀬は道に残った。福原がもう一度土場へ入ると、木を挽く音が円板から聞こえた。さっきより速く、荒かった。
板を持ち上げ、切断面を撮った。写真ではただの年輪だった。濡れていると思った黒い部分へ触ると、乾いていた。木の外側が泥で汚れているので、一部を削れば本来の色が分かる。福原は小さな刃物を出しかけた。年輪の中心で、女の声がした。
「やめてよ」
高瀬の声ではなかった。福原の妹の声に似ていた。妹とは二年会っていない。
彼は刃物をしまった。
帰り道で高瀬が、何か聞こえましたか、と尋ねた。福原は木を持ち上げたことだけ話した。円板の縁に、小さな削り屑が引っかかっていた。袖へついていたので払った。欠片は地面へ落ちず、福原の靴の上へ残った。彼は拾い、紙に包んで車の小物入れへ置いた。家に持ち帰る気はなかった。高瀬に見られながら投げ捨てることが、どうしてもできなかった。
その晩、福原の部屋が静かになった。
隣の店が閉まった時刻だったので、最初は気にならなかった。洗面所で水を出すと、流れる形だけがあった。コップを置いても鳴らない。自分の声も、出した感触しかなかった。福原は部屋の外へ飛び出した。階段の途中で、下の階に住む夫婦が顔を上げた。
「さっきから、何してるんですか」
福原が口を開くと、夫婦は天井を見た。
声は上の部屋から聞こえていた。
彼は階段を下り、建物の外で電話をかけた。相手には普通に聞こえると言われた。高瀬へ連絡すると、昼に板を持ち上げたせいかもしれない、と答えた。
「前も、来た人がそう言ってました」
福原はそれを先に言ってほしかったと怒った。高瀬は謝り、買ってもらうつもりだったから、と言った。
「その人は、どうしたんですか」
電話の向こうで長い間、呼吸だけが聞こえた。
「連絡がなくなりました」
福原は翌朝、山へ戻った。小物入れの欠片を、紙ごと高瀬へ見せた。彼女は受け取らなかった。二人で元の円板へ戻した。何かが戻る音はしなかった。福原は幹から離れ、何度も手を叩いた。途中から拍手が聞こえるようになったが、それは昨日と同じ場所だった。欠片を置いたからではなかった。
材木商へは買えないと連絡した。異常を説明すると、電話では分からないから自分も見に行こうかと言われた。福原は止めた。買わないのなら、他に当たるという言葉を聞いて、初めて強く言い返した。
「あそこへ人を連れていかないでください」
電話を切ったあと、無音の幹の方で、同じ言葉が聞こえた。自分が先に言ったのか、向こうが先だったのか、覚えていられなくなった。
福原はその町を離れた。買付けの途中で泊まっていただけなので、部屋の契約を終えるのは難しくなかった。宿の主人へ騒音の苦情を詫びた。自分の部屋が無音だったことは、最後まで話せなかった。
別の町へ移ってからも、夜になると音が遠くなった。消えるのは福原の部屋の中だけだった。廊下の掃除機は普通に聞こえ、自分の電気ポットが沸く音だけは、窓の外から聞こえた。耳の検査では異常はなかった。福原はその結果を何度も読み、自分だけが何も聞こえていないのではないことを、他人には確かめなかった。
高瀬から一度、山を見に行った知らせが届いた。幹は売っていない。ところが、前より静かな場所が広くなったという。無音の境へ紙を結んで帰ったら、次にはその外にも音がなかった。福原は戻って確かめるとは言わなかった。
その夜、宿の受付で呼び止められた。
「お部屋で、誰か休んでますか」
一人だと答えた。女の人の寝息がずっとする、と受付の男は言った。いびきではなく、浅く寝返りを打つような息だという。福原は鍵を受け取り、自分の部屋の前まで行った。扉の外では確かに聞こえた。
中へ入ると、静かになった。
福原は寝床を見た。何もいない。明かりをつけたまま椅子へ座り、夜明けを待つことにした。やがて木の上へ茶碗を置くような音が、遠くで一つした。山の円板の上で、誰かが食事を始めていた。自分の部屋へ持ち帰ったことのない茶碗の音を、福原はもう、聞き分けられるようになっていた。


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