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空いたところ

「泊まっていこうか」
靴を履きかけた千佳が、もう一度そう言った。奈央は首を振った。
「昨日も泊まってもらったし。今日は一人でいる」
「はいはい。せいせいしましたね」
千佳は笑って、玄関に置かれたごみ袋を二つ持ち上げた。奈央も一つ持とうとしたが、いいから鍵を閉めな、と部屋の中へ押し戻された。

三年、一緒に住んだ。流しに茶碗を残すことも、互いの仕事が忙しい週には洗濯を引き受けることも、だいたい許し合って暮らしていた。千佳が結婚すると聞いたとき、奈央はすぐに部屋を探し始めた。引っ越しの金が貯まるまでいてもいいと言ってもらい、ありがとうと答えた。その日のうちに、不動産屋へ行った。
一人でいるところを、誰にも見られずにいたかった。

今度の部屋は駅から少し遠い。ベッドを壁へ寄せ、反対側に低い棚と小さな座卓を置くと、真ん中に何もない床が残った。
引っ越しを手伝った千佳は、ここにソファが置けると言った。奈央はしばらく何も置かないつもりだった。横になって両腕を広げても、人の足や荷物に当たらない。そのために家賃を払うのも悪くなかった。

弁当の蓋を開けたのは八時過ぎだった。電話を座卓に置き、動画を流して、買ったばかりのクッションに座った。食べる量も、風呂へ入る順番も、相談しなくていい。唐揚げに添えられたレモンを絞ってから、千佳は揚げ物へ何かをかけられるのが嫌だったな、と笑った。

足がつかえた。
座卓の向こうへ伸ばした右足の、甲を押されていた。奈央は足を引き、卓の脚にぶつかったのかと下を覗いた。
床には何もなかった。足の甲だけが、靴を脱いだ後のように熱い。
クッションを少し下げようとしたが、後ろへ引けなかった。尻を浮かせれば済むのに、横着しているのがいけない。奈央は膝立ちになって、尻の下から引き抜いた。

クッションは軽く取れた。傍らへ置いて座り直そうとすると、尻がさっきより少し高いところで止まった。
奈央は膝に力を入れたまま、座卓へ肘をついた。弁当を食べ切り、空の容器を重ねる。ごみ袋へ入れるため、身体をひねったところで、肘が脇腹へ押し戻された。
誰かが背中合わせに座っているようだった。

振り返っても、棚があるだけだ。
棚まで伸ばした手が、途中で止まった。指先に柔らかいものが当たっている。埃のついたビニールかと思って指を擦ったが、何も摘めなかった。掌を伏せると、平らではない面にぺたりとついた。

奈央は手を引いた。指のつけ根に、ぬるいものがまとわりついて、遅れて離れた。
近くで、唇を開くような音がした。

テレビのない部屋に、電話の動画だけが流れていた。奈央は止めようと手を伸ばした。親指が画面に触れる直前、手首を下から押し上げられた。電話が卓の端へ滑り、コップにぶつかった。
麦茶がこぼれた。卓の縁から床へ落ちる途中で、茶色い水が横に広がった。

空中に、水のついた面があった。
幅は奈央の両肩より広かった。水は丸みのある表面を伝い、床から二十センチほどのところで細い筋に分かれた。水の下では、床板の継ぎ目がぼやけていた。
その部分だけが、うっすらと白かった。

奈央は立った。膝に何かが当たり、伸ばし切れなかった。半ば屈んだまま座卓から離れると、背中を押していたものが、すうっと前へ出た。
曲がった右足の甲に、また熱い感触が載った。
声を出して蹴った。蹴った先はへこんだが、戻ってきた。爪先と踵を、別々の手で包まれたようになった。

「ちょっと、やめて」
誰に言ったのか、奈央にも分からなかった。足を捻って引き抜き、ベッドへ腰をぶつけた。痛みがありがたかった。そこには、知っている硬さの角があった。
ベッドの端に手をつき、座卓の上の電話を見た。手を伸ばせば届く距離だった。

腕を横に回すと、肘の内側が押された。上から取りにいこうとすると、二の腕が肩へ寄せられた。奈央は額を座卓へ近づけ、身体ごと這うようにして電話を掴んだ。
千佳を呼び出している間、耳まで持ち上げられないので、画面を口の前へ置いていた。

「何。忘れ物?」
「来て」
「どうした」
「変なのがいる。部屋に」
千佳の後ろで、電車の案内が聞こえた。奈央は、部屋のものを順番に言おうとした。ベッド、棚、座卓。どれもそこにあって、それらの間には何もない。それなのに、足が伸ばせない。
「虫? 大きい?」
「虫じゃない。見えない」
「鍵閉めたよね」
「見えないのに、いるの」

黙った千佳が、少しして言った。
「一回、外に出な。私も戻るから」
普通の提案だった。なぜ電話より先にそうしなかったのか。奈央は頷き、電話をポケットへ押し込もうとした。指が入らなかった。履いているズボンの、いつも鍵を入れる場所が、何かでいっぱいだった。
布の上から押すと、ポケットの底で丸いものがずれた。
奈央は電話を握ったままにした。

立ち上がるときには、片方の膝だけが伸びた。曲がったままの脚を引きずり、台所へ続く戸口へ向かった。
部屋の真ん中は広かった。千佳が掃除機をかけた跡が、斜めについている。その上を歩けばよかった。
一歩を踏み出した奈央の足は、床につく前に止まった。

膝の少し下に、横たわるものを感じた。そこへ体重をかけると、脛の皮膚を強く吸われた。奈央は後ろへ下がろうとして、さっき自分の脚があった場所にも、もう足を戻せないことを知った。
ベッドの布団を掴んだ。引っ張った弾みでシーツがめくれ、マットレスの隅が見えた。布団は落ちず、脇腹の高さで広がって止まった。

誰かが下から支えている。
そう思っても、肩も頭も見つけられなかった。布団は人が寝ている形にはならず、四隅を不揃いに持ち上げられていた。その下で奈央の脚が、ゆっくりと揃えられていった。

「今、どこ?」
電話から声がした。
「まだ部屋」
「出られない?」
「足が」
奈央は自分の声が妙に小さくなっているのに気づいた。千佳が聞き取れないのは、電車の音のせいだけではなかった。
「誰かに押さえられてる?」
「わかんない。いっぱいある」

千佳はもう、聞き違いを確かめようとしなかった。近所の人を呼べるかと訊き、奈央が戸を叩くと言うと、消防へ連絡するから一度切ると告げた。
切らないで、と言いかけた。電話が切れても何かの音が欲しくて、奈央は親指でさっきの動画を開いた。料理をしている女が、蓋は少しずらしておきます、と明るく言った。
座卓の向こうで、濡れたところが光った。

奈央は布団から手を離し、台所の戸枠を掴んだ。足首の間に、指ではない太さのものが挟まった。膝を離そうとすると、今度は外側から押し合わされた。
戸枠の下には、荷解きの紙を詰めたごみ袋が一つ残っていた。奈央はそれを踏んだ。中の紙箱が潰れ、足が少しだけ下がった。
空いた分へ膝を入れ、腰を回し、もう片方の脚を引いた。

何かから身体を剥がす音が、腰のまわりで続いた。
台所の床へ、片手と片膝がついた。電話が滑った。奈央は画面を追って身体を倒したが、拾うのを諦め、そのまま玄関まで這った。後ろから何かが追いかけてくる音はしなかった。
前へ出した手が、何度も途中で止まった。

玄関のたたきには自分の靴が二足だけあった。奈央はそのうち一足を横へ蹴り、靴のあったところへ膝を下ろした。ドアを拳で叩いた。
「すみません」
強く叩こうとすると、肘が後ろへ引けない。小さな音しか出なかった。
「開けてください。誰か」
自分で開ければいいのだと気づき、鍵を回した。

ドアは外へ開いた。廊下の冷たい空気が頬に当たった。
奈央はほとんど笑いながら頭を出したが、そこで止まった。腹の前に、幅のあるものが押しつけられていた。身体を横にしようとしても、肩が回らない。
ドアは開き切っていた。肩の横にも膝の下にも、挟まるような物は何も見えなかった。

向かいの戸が開いた。昨日、挨拶をした男だった。仕事から帰ったばかりらしく、片手に靴下を持っていた。
「どうしました」
「引っ張って。ここから出して」
男は靴下を廊下へ落とし、奈央の右腕を取った。

男の手に触ったところだけ、冷たかった。奈央はその手首を握り返した。男が少し下がる。奈央の膝が床を擦り、数センチ前へ動いた。
その後ろへ、すぐにぬるいものが寄ってきた。

「何に引っかかってるんですか」
「そこ。後ろ。いっぱい」
男は奈央の頭越しに部屋を見た。
「誰もいませんよ」
奈央もそう思いたかった。声を出さず、男の手を引いた。見てもらうより、触ってもらえばよかった。

男が左手を室内へ入れた。奈央の肩の横を通り、何もないところで止まった。
顔から血の気が引いた。掌を裏返し、もう一度押した。指を揃えた手が、宙で平らになった。
「これ」
男は手を抜いた。奈央の腕を握る方の手にも、急に力が入った。
「ちょっと待って。人、呼んできます」

「友達が消防を呼んでるから。離さないで」
奈央は両手で男の袖を掴んだ。片方を離したら、そこへ別のものが入る気がした。男は頷き、廊下へ顔を向けて声を張った。空いている手で開いたドアを何度も叩き、出てきた人たちに、消防を待っていると話している。
声がいくつも聞こえ始めた。こんなに人が住んでいたのかと、奈央は思った。

廊下の声を聞きながら、今朝の夢を思い出した。
荷物を運んできた人が、ベッドの横に立っていた。千佳はその隣で寝ていて、奈央だけが起きていた。運ぶものはもうないはずなのに、その人は、ほかには何を入れますか、と訊いた。
奈央は笑って、何も、と答えた。私の分だけ空いていればいいです、と。
目が覚めたときには、千佳が湯を沸かしていた。

男が奈央の腹のあたりを見ていた。シャツには何も付いていない。ただ、ボタンとボタンの間の膨らみがなくなり、布が肌へ貼りついていた。
「息を吐いて。お腹を引っ込められますか」
奈央は言われたとおりにした。
男に引かれて、身体が少し進んだ。

吐いた分だけ、腹に当たるものもへこんでついてきた。
奈央は息を吸おうとした。胸が広がらなかった。背中と胸を、同じ温かさの面に挟まれていた。
「もう少し」
男が言った。出られそうだと、後ろの人たちにも言った。

奈央は首を横に振ろうとした。頬の脇にも、いつの間にか何かがあった。
開けた口にだけ廊下の空気が届いていたが、それを胸へ入れる場所がなかった。
男の袖を掴んだ指を離せば、苦しいと言うための身振りくらいはできる。
指と指の間には、もう、ぬるいものが詰まっていた。

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