祖母の針山は、蓋のある菓子缶にしまわれていた。赤い布を丸く縫っただけのもので、下には醤油皿ほどの木の受けがついていた。針は七本刺さっていた。私は一本ずつ抜いて缶の底へ並べた。母が横から手を出し、長い一本だけはそのままにしてと言った。
どうしてか聞くと、曲がっているから危ない、と答えた。上から見えるのは、白い頭のついた待ち針だった。抜かないと曲がっているか分からない。私はそう言ったが、母は聞かず、缶に入っていたボタンを色ごとに集めていた。祖母の家の片づけで、母は一日中そういう細かい仕事を選んでいた。
祖母が死んだのは春だった。家財の大半は伯父が手配して出したが、裁縫道具だけ母が引き取った。祖母は近所の人の服を直していて、縫いかけのものも残っていた。母が一軒ずつ返し、最後に持ち帰った缶を、私と開けていた。私が縫えるのは取れたボタンくらいだった。
母は祖母に似て手が小さい。私は父に似て指が長く、袖の長さも合わなかった。子供のころの服を祖母が作ってくれたことはない。好き嫌いが難しい子だから、と祖母は言った。私は頼んだこともないのに、断った側にされるのが嫌だった。その愚痴を母へ言うと、おばあちゃんも年だから、と返されていた。
針山の横に、細い針が一本落ちていた。私が抜いた六本とは別だった。頭がなく、糸を通す穴もない。折れたものだと思い、缶へ入れようとした。つまんだ右の人差し指が痛んだ。刺したつもりはなかったが、指の腹に小さな赤い点があった。私はティッシュで押さえた。
母の手首に、赤い線が出た。擦り傷のように細かった。それが動いた。母がボタンへ伸ばした腕の内側で、線が曲がり、二つに分かれた。私は母の腕をつかんだ。「わ」という字に見えた。私がそう言うと、母は腕をこすり、何かの跡でしょう、と答えた。
指からティッシュを離すと、折れた針が一本そこに載っていた。さっき缶へ入れたつもりだったものだ。指には針が通るほどの傷はなく、血もついていなかった。母の手首の字は消え、代わりに私の指の付け根に小さな膨らみができた。皮膚の下で、針先が横になっているような形だった。
私は針を缶へ落とし、蓋を閉めた。母は黙っていた。痛みはすぐ引いたが、針が体の中に残っていないか不安だった。翌日に診てもらうと、見える範囲に異物はないと言われた。痛みや腫れが出たら来るように説明され、私は絆創膏をして帰った。母の家へ寄ると、缶は台所の高い棚へ移されていた。
「これ、前にもあったの」
私が聞くと、母は食器を洗う手を止めた。祖母がまだ元気だったころ、針山を持って、縫い物を頼みに来たことがあるという。母は何でも一人でやれる祖母が自分を頼ったと思い、嬉しかった。針を一本抜くと、胸が苦しくなり、喉から祖母の声がした。
「何て言ったの」
「途中まで」
母は洗い終わった皿を、また水の下へ入れた。私は蛇口を閉めた。母は怒らず、その皿を拭いた。
「私がやりましたって。それだけ」
祖母は聞くなり針山を取り上げ、母の手から抜いた針を奪った。そのあと二人で何を話したか、母は言いたがらなかった。
私は缶を下ろした。六本の針は底に残っていた。折れた一本は見つからず、待ち針の白い頭だけが赤い布の上にあった。昨日より低かった。母は抜くなと言った。私は抜かずに針山を持ち上げた。木の受けの下から、尖ったものが出ていた。爪先ほどの隙間へ、自分で進んでいた。
「おばあちゃん、何をやったの」
母は祖母を責めないでと言った。私はまだ責めていない、と答えた。母の首筋に細い線が出た。襟に沿って伸び、「わたしが」と読める形になった。母は鏡を見ようとしたが、途中で手を下ろした。口が少し開いた。祖母が物を頼む前にする、あの息の吸い方をした。
私は缶の蓋を閉めた。母の首の字が消えた。母は椅子へ座り、両手を膝の下へ入れた。若いころ、祖母の店を手伝っていた女の人の話をした。園子さんという、母より四つ年上の人だった。ある日、預かった晴れ着に鋏の切り込みが見つかった。祖母は園子さんの不注意だと言った。
園子さんは辞めた。持ち主への弁償もしたという。母はまだ中学生で、その場で何も言えなかった。祖母自身が裁ち台へ鋏を置き、袖の下に刃を入れたのを見ていた。けれど祖母は、あの人はよそへ行ってもやっていけるから、と言った。自分の店だけは閉められないとも言った。
「あとで、おばあちゃん謝るって言ったの」
母は窓を見た。
「園子さんに会えるように、私が電話した。でも当日になると具合が悪いって。何度もそうだった」
病院からも電話をした。退院したら会うと言って、そのまま春になった。祖母の遺品を片づけたとき、母は針山を見つけた。布の真ん中が濡れていて、白い頭だけ乾いていたという。
私は園子さんへ連絡しようと言った。母は首を振った。もう終わったことだと、その人は言うだろう。祖母が死んだのだから、迷惑をかけないほうがいい。母はそう繰り返した。そのあいだ、棚の缶が小さく鳴った。針が一本ずつ、底へ落ちる音だった。開けると、抜いて並べた六本が、全部針山へ戻っていた。
私は数え直した。白い待ち針もある。合計七本。その周囲に、黒い細かな毛が落ちていた。糸ではなかった。私が指で触れると、母が手を引いた。手の甲に黒い毛が一本出ていた。抜こうとするより先に、皮膚の下へ沈んだ。母は小さく、いやだ、と言った。
私は全部抜いてしまえばいいと思った。そうすれば、言いかけたことが終わるのではないか。母に確かめもせず、針山へ手を伸ばした。白い頭をつまむと温かかった。針を少し持ち上げたところで、母の口が動いた。
「私がやりました」
声は祖母だった。母は自分の両頬を押さえた。
続きがあると思って、私は指を止めた。母は口を開けたままこちらを見た。首に文字が浮かび、襟の下へ続いていた。祖母の字は丸かったはずなのに、それは細長く、縫い目に似ていた。母の掌にも一文字ずつ浮いた。文字の並ぶ順番が分からず、私は読めなかった。
母は声を出そうとしていた。だが出たのは、知らない人の名だった。園子さんではない。次も違う名だった。母の喉が動くたび、赤い文字が腕へ流れた。祖母の店で預かった物のことか、家の中のことか、私には分からなかった。謝ることが一つだけだと思ったのは、私の勝手だった。
白い頭を離した。針がすっと戻り、母は息を吐いた。その勢いで、赤い布が内側から膨らんだ。針山は丸いままではなく、片側が少し尖っていた。木の受けへ、濡れた髪が数本垂れた。母が、見ないで、と言った。誰に向けた言葉だったのか、今も確かめていない。
私は蓋をした。祖母の声で母に謝らせるつもりだったのかと思うと、急に吐き気がした。母は水を飲み、時間をかけて袖を下ろした。私は自分の手も見た。針をつまんだ指の間に、細い赤い線が残っていた。母がそれを拭こうとしたので、手を引いた。触って移るのか、まだ分からなかった。
園子さんの住所は、母が知っていた。車で三十分ほどの団地だった。私は翌朝、電話をかけた。祖母の孫だと名乗ると、長い間があった。母の名を告げると、あの子は元気、と聞かれた。私は元気ですと答え、それから少し迷って、会って話したいことがある、と言った。
母は一緒に来なかった。私は缶を持っていくか迷い、家に置いた。針山を見せても、園子さんに引き受けてもらう理由にはならない。自分の言葉で話さなければと思ったが、謝る言葉を用意しようとすると、喉が少し熱くなった。車の中で声に出して練習するのはやめた。
園子さんは玄関へ出て待っていた。背が高く、祖母よりずっと若く見えた。部屋には小さなミシンがあった。今も縫っているのですかと聞くと、頼まれたものだけ、と答えた。お茶の湯呑みを置く手に、赤い線が一つ見えた。彼女は私が見ているのに気づき、袖を少し下げた。
私は晴れ着の話をした。母が見たこと、祖母が会いに来る約束を果たせなかったことを、そのまま伝えた。園子さんは頷いたが、驚いていなかった。
「知ってたよ」
そう言ったあとで、湯呑みを私の側へ寄せた。
「お母さんも、ずっと気にしてたんだね」
私はすみませんと頭を下げた。園子さんは、あなたが切ったんじゃないでしょう、と言った。声は優しくも厳しくもなかった。私が顔を上げると、彼女は手首を机の下へ隠していた。
「でも、来てくれたことは嬉しい」
そこで話を終えてくれた。私は祖母を許してもらえたか、聞かなかった。
帰るとき、園子さんは玄関の外まで出てくれた。私の指を見て、抜いたの、と聞いた。私は頷いた。彼女は少し目を閉じた。
「みんなのを、一本にしたんだね」
何のことか尋ねても、それ以上は話さなかった。玄関の奥で、ミシンがひと針だけ動く音がした。誰もそこには座っていなかった。
母の家へ戻ると、缶が台所のテーブルにあった。母は蓋に手を載せて待っていた。開けたのかと聞くと、開けていない、と答えた。私は園子さんと話したことを伝えた。母は長く黙り、最後に、自分も会いたい、と言った。私が電話すると言いかけると、母は自分ですると携帯を取った。
缶は二人の間にあった。電話を終えた母が、触ってみて、と言った。蓋に手を載せると、下から硬いものが押していた。白い待ち針の頭だと思った。押し返さず手を離すと、缶が一度だけ跳ねた。母は膝へ両手を戻した。約束が一つ決まったあとも、中のものは動いていた。
それからは、針山の針を抜いていない。母は園子さんと月に一度ほど会い、縫い物の話をしている。私はそのあいだ缶を預かる。両手で持つと軽いが、片手へ移すと急に重くなる日がある。白い頭が蓋に当たって、かち、かち、と鳴る。呼ぶ声はしない。けれど、缶を持っていないほうの私の手首に、言い始めの一文字だけが赤く出る。


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