黄色い洗濯ばさみは、まだ使えた。航平は割れたところがないか裏返し、川へ落ちないよう柵の上へ載せた。釣り糸の切れ端を挟んでいたらしい。細い透明な糸は、手を離すと水門の向こうへ吸い込まれた。下をのぞいたが、魚も浮きも見当たらなかった。
午前四時前だった。航平は市場へ荷物を届けた帰りで、叔父の家に寄る約束をしていた。店の前へ野菜の箱を置き、横の川まで叔父を探しに来た。叔父はいつもこの時間、水門脇の小道に椅子を出していた。以前は鰻を獲っていたが、今は網を仕掛けることもない。水だけ見ていて楽しいのかと聞くと、見ない日もある、と答える人だった。
その日は椅子だけがあった。座面には雨を拭いたような跡があり、足元に使い古したポリ袋が畳んであった。航平は洗濯ばさみを椅子へ移した。叔父のものなら、ここにあれば気づくだろう。海までの水路は潮が引き、護岸の下に黒い泥が出ていた。杭のあたりで、水鳥が一羽じっとしていた。
叔父は上流の橋を渡ってきた。片手にパンの袋を持っていた。航平を見つけると袋を持ち上げ、それから小走りになった。
「触ったか」
挨拶より先にそう言った。航平は椅子を指した。叔父は洗濯ばさみを取り、柵へ戻した。糸はもうそこになかった。叔父の指が二度空を挟んだ。
水鳥が飛び立った。羽ばたく音だけがして、姿は途中で見えなくなった。航平が目を凝らすと、鳥のいた泥に水が上がってきた。波ではなく、平たい水面が滑ってきていた。沖は引き潮なのに、その場所だけ川を上る方向へ動いていた。叔父が洗濯ばさみの口を、何もない空中へ開いた。
「いま何を外した」
「糸。釣り糸みたいな」
「引いたか」
「引いてない。勝手に落ちた」
叔父は頷いたが、顔は強ばっていた。航平は、勝手に外したのは悪かった、と言った。叔父がその言葉を途中で手で止めた。水門の向こうから、同じ語尾が聞こえた。悪かった、と若い男が言った。
航平は柵へ近づいた。叔父が肩を引いた。川の反対側には、漁具を入れる倉庫が並んでいる。人がいてもおかしくはない。航平が、誰かいるんですか、と言おうとすると、叔父はさらに強く腕を引いた。口を閉じていろと、声には出さずに言った。
水面が静かに上がった。さっきまで見えていた泥の斜面が隠れ、杭の白いところまで濡れた。水門は海と川を完全に閉ざす形ではなく、普段は開いている古い扉だった。水の横を歩ける程度の狭い通路に、鎖を渡した柵がある。その鎖がゆっくり張り、金具がきしんだ。風も流木も当たっていなかった。
叔父はパンの袋を航平へ渡した。片手を空けたいだけだったらしい。航平は受け取り、叔父の指を見た。指先に細い糸が巻きついていた。さっき消えた釣り糸と同じに見えたが、水の中から伸びているのではない。開いた洗濯ばさみの間を通って、叔父の口元へ続いていた。
叔父が息を吐くと糸が緩んだ。吸うと張った。洗濯ばさみを閉じる前に、彼はそれを顎から遠ざけた。金属のばねが鳴り、水面が一段下がった。ほんの少しだった。叔父は柵へ肘を置き、その姿勢のまま止まった。洗濯ばさみの口は彼の指を挟んでいない。指で持ったその先で、空中の何かを挟んでいた。
上流の橋で自転車が止まった。新聞を配る女性だった。叔父と顔なじみらしく、今朝は甥っ子さんと二人、と声をかけた。航平は返事をしかけて飲み込んだ。叔父も答えず、反対の手だけを上げた。女性が走り去ると、水門の下で同じベルが鳴った。自転車の姿はない。何度も鳴らし方を試すように、間隔が変わった。
航平は携帯を出した。水が上がっているのなら、管理するところへ連絡する必要がある。叔父へ画面を見せると、彼は首を振った。止められる理由が分からず、航平は少し離れて電話しようとした。そこで、パンの袋の中に固いものが入っているのに気づいた。買ったばかりの小さなロールパンが、全部貝殻になっていた。
袋の印刷も値札も、そのままだった。貝殻は薄く、二枚ずつ閉じていた。航平が一つつまむと開いた。中に、丸めた千円札が入っていた。濡れていない。航平はすぐ袋へ落とした。叔父が足を鳴らしたので振り向いた。首を振り続けていた。袋を地面へ置くと、叔父はようやく動きを止めた。
水門の向こうで、今度は航平の携帯の呼出音がした。朝の配達で鳴った音だった。叔父へ着信を聞かせた覚えはない。航平の携帯は手の中で暗いままだった。叔父はポケットから小さなメモ帳を出し、膝の上で何かを書いた。渡された紙には、短く、持って帰るな、とあった。
航平は袋を見た。パンなら叔父の家へ持って帰るつもりだった。千円札を抜く気などなかった。そう書き返すと、叔父は紙を読まずに折った。片手で洗濯ばさみを持つ指が震えていた。航平は椅子を寄せ、叔父を座らせた。洗濯ばさみの口を柵へ向けようとした途端、彼の口が勝手に開いた。
「代わってくれ」
声は叔父のものだった。だが、叔父は首を振った。航平は腕へ触れた。叔父は彼の手を握り、一本ずつ指をほどいて洗濯ばさみの持ち手へ添えた。言葉と動きのどちらを信じればいいのか分からなかった。航平は叔父の指を押さえ、ばねが開かないように一緒に持った。
水の中で何かが転がった。丸太のような、太いものだった。水面に触れた部分だけが白くなった。航平は人ではないかと目を凝らしたが、長さがありすぎた。倉庫の端から水門の手前まで続いていた。それが少し持ち上がると、腹のような面に小さな穴がたくさん並んでいた。穴から、新聞配達のベルが鳴った。
叔父は目を伏せていた。航平も顔を下げた。黄色い洗濯ばさみの根元に、叔父の歯が映っていた。プラスチックは曇っていて、人の顔など映るものではない。細い糸の両側に唇があり、少しずつ開こうとしていた。航平は力を込めすぎ、指が痺れた。
岸の向こうで叔父の名が呼ばれた。女の声だった。航平も知っている、叔父の妻の声だった。彼女は生きていて、店の二階でまだ寝ているはずだ。野菜を届けたとき、窓の明かりが消えているのを見ていた。叔父が顔を上げた。洗濯ばさみの内側にある口が、一度笑った。
「パン、買ってきたんでしょう」
向こうの声はそう言った。叔父は自分の唇を噛んだ。血は出なかったが、航平の指へ温かいものが流れた。海水ではなかった。舌が、洗濯ばさみの間から指を舐めていた。小さく、柔らかく、子供の舌のようだった。航平は離しそうになり、叔父の手ごと握った。
二人で持っていても、糸は張り続けた。水は徐々に引いたが、白い腹の長いものは岸へ寄ってきた。声を覚えた分だけ、穴が増えたように見えた。航平の名を呼ぶ穴もあった。名前をどこで聞いたのかと思ってから、新聞配達の女性が叔父へ言った挨拶を思い出した。甥っ子さん、としか言っていない。
叔父は航平の指を少しずつ外し始めた。自分一人で持つつもりだった。航平はそれに逆らい、手を下げた。洗濯ばさみを、最初に置いてあった柵の鎖へ近づけた。叔父が頭を振った。だが航平は、手で持っているより、元の位置へ戻したかった。糸を挟んだままの洗濯ばさみを、鎖の細い継ぎ目へ差し入れた。
硬い金属とプラスチックが擦れた。ばねを開けば糸が抜ける。開かなければ鎖に掛からない。航平はポケットの車の鍵を出し、付いていた小さな輪を洗濯ばさみの穴へ通した。何度も指が滑った。叔父が鍵の輪をつかんでくれた。二人で鎖へ留め、手を離した。
叔父が大きく咳をした。糸は口元から外れ、鎖の間へ消えた。航平は彼の背をさすり、椅子に座らせた。叔父は一度だけ、逃げるぞ、と言った。二人が小道を戻り始めると、水門の下でも同じ声がした。逃げるぞ、逃げるぞ。長い腹の穴が、いくつも順に喋っていた。
航平はパンの袋を置いていった。叔父も振り返らなかった。上流の橋へ出ると、空が明るくなっていた。自分の車は叔父の店の前にある。鍵を鎖へ付けたままだと気づいたが、取りに行く気にはなれなかった。叔父の妻が店の戸を開け、二人を見て、何をしていたの、と言った。本人の口が動くのを見て、航平はようやく返事ができた。
叔父は店の椅子でお茶を飲んだ。洗濯ばさみをなぜ留めていたか聞くと、昔から水が変な音を立てるときにそうしていた、とだけ答えた。誰に教わったのかは言わなかった。航平が謝ると、叔父は首を振った。外したことより、自分でまた戻そうとしたことが怖かった、と言った。
叔父の妻は二人のお茶を入れ替えた。水門の話を聞きながら、店の窓を閉めた。航平が鍵もかけるよう言うと、彼女は手を止めた。誰か入ってくるのか、と尋ねられ、航平は答えられなかった。叔父は湯呑みを持ったまま、窓の外の川を見ていた。
合鍵は航平の家にあった。叔父の妻に送ってもらい、昼前に車を取りに戻った。水門まで行ってみると、黄色い洗濯ばさみはまだ鎖にあった。車の鍵もぶら下がっていた。水は普通に海へ流れ、日差しの下に小魚が見えた。航平は手を出さず、離れたところから見ていた。
対岸の倉庫の脇で、叔父が立っていた。先ほど店で別れたばかりだった。航平へ何か差し出していた。黄色い洗濯ばさみだった。こちらの鎖にも、同じものがある。航平は振り向かなかった。叔父の妻が店から出てきて、まだ帰らないの、と声をかけたので、彼はそちらへ歩いた。
背後で、ぱちん、と音がした。航平の上着の裾へ、洗濯ばさみが留まっていた。濡れていなかった。鍵は付いていない。航平はそれを取らず、その場に立ち止まった。水門の向こうから、自分の声がした。
「落としましたよ」
叔父の妻が、誰、と振り返った。航平は彼女の口へ手を当て、声が出る前に押さえた。


コメント