美佳を起こすには、頬を両手で挟むのがいちばん早かった。名前を呼ぶと返事だけする。肩を揺すると私の手を握り、母親と間違えて甘えた声を出す。学生のころからそうだった。
十二月の終わり、私は美佳の部屋へ泊まっていた。翌日の七時に軽トラックを借り、実家から運んでもらった食器棚を倉庫へ取りに行く。私の父に頼まれた仕事だったが、運転する代わりに昼飯を奢れと言ったのは美佳の方だ。酒を飲みたがるのを止め、十一時半には電気を消した。六時になったら容赦なく起こすよ、と言っておいた。
寝床は六畳の洋室だった。美佳がベッド、私が床に敷いた敷布団。ベッドの脚が高く、その下に畳んだ段ボールや掃除機の箱を押し込んであった。客用の布団を広げるため、私は箱をさらに奥へ蹴った。壁にぶつかるはずの距離を過ぎても動いたが、気に留めなかった。眠る前には、箱のことなど忘れていた。
美佳の声で目が覚めた。「起きてる?」と訊かれた気がした。枕のそばのスマホは五時四十二分だった。喉が渇いていたので、返事をせず台所へ行った。足の裏に床の冷たさが気持ちよかった。コップに水を入れると、寝室の方からも、誰かが水を飲む音がした。美佳も起きたのだと思っていた。
寝室の戸口だけが明るかった。カーテンは遮光の厚いもので、左右の裾も重ねて留めてある。その隙間からではない。ベッドの上に朝日が落ちていた。台所の窓は黒いままで、天気のよい朝に嗅ぐ、温まった布団の匂いがした。私はコップを持ったまま立ち止まった。
美佳は仰向けで口を開けていた。額の生え際に汗をかき、右目を少しだけ開いていた。その細い隙間が白かった。光が目に映っているのではなく、そこから頬へ、首へ、枕へと伸びていた。視線を動かすように眼球が動くと、私のコップにも光が当たった。水の上に小さな虹ができた。
「美佳」
呼ぶと、開いている目がこちらを向いた。もう片方は閉じたままだった。眩しくて片手を上げたとき、美佳がくしゃみをした。右目も閉じて、部屋が暗くなった。
「水、私のも」
いつもの寝ぼけた声だった。「自分で飲みな」と言い返しかけた。口から出たのは、もう一度、美佳の名前だった。私はコップを机に置いてベッドのそばへ座った。頬に触れると熱かった。目の下の皮膚だけ、炎天下で待ち合わせをした人のように汗ばんでいる。美佳は嫌がって私の手を払った。
「目、変だよ。痛くない?」
「知らない。今見えないんだから」
話が通じる。それだけで少し落ち着いた。美佳は、寝る前に外したコンタクトのことを言われたと思ったらしい。洗面所に眼鏡があるから取ってと言う。私は、取ってきたら目を開けてしまう、と思った。何を怖がっているか伝える言葉がすぐには出ず、黙っていると、美佳が上半身を起こした。
両目が開きかけた。
私は頬を挟んだ。いつも起こすときのように、親指が目の下に来る位置で。それから指をずらし、瞼に触れた。押してはいけない、と思いながら、指の腹で閉じさせた。美佳が短く叫んだ。頭を引かれて私の手が滑り、指の間から白い光が漏れた。その光の当たった腕が、焼けるように熱くなった。
「押さないで。何やってんの」
「閉じて。お願いだから」
私は自分の手を離した。美佳は目を閉じ、膝を抱えて座った。文句を言われるのを覚悟していたのに、美佳は口をつぐんだ。鼻をすする音がした。泣かせたと思い謝ろうとすると、先に美佳が言った。
「今、後ろから起こされた」
私の両手は目の前にあった。美佳も分かっている。枕元は壁で、ヘッドボードとの間に指を入れる隙間もなかった。それなのに、両肩を掴んで身体を起こされたという。腕を回して自分の肩に触れた美佳が、そこに何かついていたらしく、指を何度も擦り合わせた。
私は机の上のスタンドをつけた。黄色い明かりの下で、美佳の肩に黒い毛が貼りついていた。寝間着の襟から出ているものを引こうとすると、ひどく嫌がった。「それ、下まである」。足元のシーツが、誰かの胸のように膨らみ、ゆっくり沈んだ。
ベッドの下に寝ていた。
私は最初、美佳が毛布を落としたのだと思った。畳んだ段ボールの手前に、黒く毛羽立ったものが詰まっていた。さっき奥へ蹴り込んだ箱が押し戻され、脚の間で潰れている。黒いものは、ベッドより長かった。頭にあたる場所は壁の中へ続き、足の方は私の敷布団を持ち上げていた。呼吸に合わせて、床板まで軋んだ。
「下を見なくていい。私の腕を持って」
美佳の手を引いて立たせようとした。脚が床に届く直前、寝間着の両肩が背中へ引かれた。美佳の顎が跳ね上がり、そのまま枕へ倒された。引っ張る手は見えなかったが、左右の襟が細くつままれて、肩の肉まで食い込んでいるのは見えた。美佳が声を出そうと口を開き、目も開いた。
寝室の全部が夏になった。カーテンの前に干してあった靴下が眩しく白くなり、机の天板が熱を帯びた。耳の奥で、蝉のような音がした。私は顔を伏せた。足を動かせない。床に踵がついているのに、後ろから顎を押し上げられ、仰向けに寝かされそうになった。美佳も同じ方へ顔を向けさせられていた。黒いものが、大きく息を吸った。
「閉じて!」
美佳が両手で顔を覆った。指の間を光が抜け、壁を細く焼いた。私は椅子の背に掛かっていたタオルを取り、その上から押し当てた。乱暴になった。美佳は私を叩き、息ができないと怒鳴った。慌てて鼻と口を出し、額から頬までに畳み直した。タオル越しに閉じた瞼の形が分かると、顎を持ち上げていたものが離れた。首が痛くなって初めて、自分も叫んでいたと気づいた。
美佳はタオルを押さえたまま、今度は自分でベッドを降りた。片足を床へ出し、怖くなったのか戻しかけた。私はその足の下へ自分の足を入れた。「そこ、踏んでいい」。美佳の爪が足の甲へ食い込んだ。もう片方も私の敷布団の端に下ろさせ、二人で台所へ行った。
冷蔵庫に背中をつけて座ると、美佳が震え始めた。吐き気がすると言うので、洗い桶を持ってきた。タオルを外させないように顔の角度を変えることが、ひどく難しかった。私は自分の手つきが嫌になった。美佳は吐かず、桶に唾だけを落とし、もう車の話はしないで、と言った。するつもりなどなかったのに、私はすぐに頷けなかった。
救急車、と美佳が言った。私がスマホを探していると、彼女は「電話で言って。目を押されたって」と続けた。違う、と言いかけ、やめた。実際に押したのは私だった。私はその説明でいいと思い、寝室の入り口へ戻った。スマホは敷布団の枕元にある。スタンドはまだついていた。窓の外は、相変わらず夜だった。
ベッドの下のものが横向きになっていた。寝返りを打つ途中で、私の敷布団の端を巻き込んだらしい。黒い毛の間に、白い細いものが並んで見えた。指だと思った。爪のない、人の指の先だった。それが隙間なく一列に生え、寝室の端から端まで続いていた。上のベッドでは、空の枕がゆっくり傾いた。
私は壁に片手をつき、敷布団へ片足だけ乗せた。膝を曲げてスマホへ手を伸ばし、拾い上げた。美佳が台所で何か言った。戻りかけた私の踵に、指の先が触れた。箱を蹴った方の足だった。足首を掴まれたわけでもないのに、膝が折れた。後ろへ倒れ、ベッドの縁に肩をぶつけた。腰が床につくより先に、頭だけが持ち上がった。スマホが手から滑り、肘のそばへ落ちた。
天井を向かされていた。目の前に、台所から差す黄色い明かりが見えた。美佳が私を呼びながら近づいてきた。顎の下から喉を強く押されていた。来ないで、と言おうとした。口を開けても、喉から息が抜けるばかりだった。私は手探りで美佳の足に触れた。
「ここ? 頭、どっち?」
美佳は目を閉じたまま床を探った。最初は私の口を塞ぎ、それから鼻に触れ、額へ手を伸ばした。私はその手を握り、自分の目へ引いた。瞼を下ろしたつもりなのに、まだ明るかった。美佳は私の空いている手を探し、自分のタオルへ載せた。それから両手で私の顔を覆おうとして、私の指まで掴んでしまう。
「全部隠れてる?」
私がようやくそう訊くと、美佳は、分からない、と答えた。指を少し動かしただけで、睫毛の内側が熱くなった。私は美佳の手を離せなかった。彼女も、タオルから顔を動かせずにいた。二人の肘の間で、スマホが震えた。六時のアラームだった。
誰も止めなかった。


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