母がダンスを始めたのは、七十一歳になってからだった。
父の納骨が済んだ日、帰りの車で、これから何をしたい、と聞いた。何もしたくない、と言われるつもりだった。母は窓を見ていたが、少しして、踊ってみたい、と答えた。
私は笑った。笑ってから、母が一度こちらを見たので、慌てて教室を探すと言った。
「そんな大げさなことじゃないのよ」
母はそれきり黙った。駅に着くまでの間に、私は何度もスマートフォンを見せた。初心者歓迎の文字や、明るい床の写真を。母は画面の隅を指で拭き、見えた、と言った。
父が若いころ、母は踊りに誘われたことがあったらしい。相手は父ではなかった。誰だったのかは聞かなかった。父との思い出の話にするつもりで相槌を打ちかけていた自分が、少し恥ずかしかった。
結局、母は自分で教室を見つけた。商店街の外れにある二階建ての建物で、昔は一階を家具屋が使っていたという。広い板の間が残っていた。昼は窓の光だけでも明るい。母は週に二度、そこへ通い始めた。私は帰りに迎えられる日だけ、車を出した。
初めて見た母の靴は、金色だった。金といっても、薄い布に細かな粒が光るような色だ。そんな靴を履く人だとは知らなかった。娘が大人になってからも、人前へ出る日は黒い靴と決めていると思っていた。
「派手かな」
「いいんじゃない」
今度は笑わなかった。母は片足を上げ、踵の留め金を指で押した。
半年ほどして、母から香水を頼まれた。昔、私が海外旅行の土産に渡したものと同じ瓶だった。もう残りが少ないという。贈ったのは二十年も前で、その間使っているのを一度も見なかった。見つけた同じ名前の商品を送ると、少し匂いが違うわね、と電話が来た。
「古いのは捨てたほうがいいよ」
「まだあるもの」
母は古いほうを、踊りに行く日に使っていた。
十一月の水曜、迎えに行くと教室の戸が閉まっていた。ガラス越しに、奥の床へ午後の日が差していた。母の鞄が椅子に置かれ、靴を入れる布袋が上から出ていた。私は戸を叩いた。返事はなかったが、奥で椅子を動かす音がした。
鍵はかかっていなかった。中へ入ると、甘い匂いがした。母に贈った新しい香水はもっと軽い香りだった。そこには、古くなった花を水から抜いたときのような匂いが混じっていた。床の向こうで母がこちらを見た。白いブラウスに、裾の広い青いスカートを穿いていた。
「ちょっと待ってね」
肩が上がっていた。誰かと踊る姿勢だった。
相手の人は母の前にいた。灰色の上着を着た、小柄な男だった。顔は母の頭の向こうに隠れていた。胸を張っているのに、背中だけが妙に平らだった。母の片手が、その肩の上へ伸びている。どこに腕を回しているのか分からず、私は入口から少し横へ動いた。
男の左腕は、母の背中に届いていなかった。脇から肘が斜めに出ていて、指先は自分の腰に触れていた。母はその人の胴へ、自分で身体を寄せていた。相手が手を添えていないだけで、二人で踊る姿がひどく頼りなく見えた。
「先生は」
私は声をかけた。
「もう帰ったわ」
母は足元を見ずに答えた。
音楽が鳴っていなかった。母の靴が、床を擦っていた。右、左、と小さく言いながら、母が後ろへ進む。男が前へ出る。一歩の幅は同じだった。母の踵は床から上がるのに、男の靴底は一度も見えなかった。
二人の進む先に、鏡があった。壁いっぱいの鏡で、下の端には木の縁がついていた。母の背中がそこへ近づくと、彼女は右足を横へ出した。男は正面を向いたままだった。母がその人の肩を押した。男の胸が母の胸から離れ、上着が斜めに引き伸ばされたようになった。
「曲がりましょう」
母が言った。男は返事をしなかった。
母の踵が木の縁へ当たった。鏡が鳴った。私は走った。
母の腰を引く前に、灰色の上着に触れた。布の下が硬かった。身体をつかんだ感じではない。濡れた新聞紙を束にして、板へ押しつけたような硬さだった。上着の縫い目が指の腹に当たった。縫い目の内側からも、指の形が押し返してきた。
私は手を離した。男は母へ近づき続けていた。母は上体を反らし、顎を上げた。鏡に頭が当たりそうだった。私は母の脇の下へ腕を入れた。踊っている相手から引き剥がすつもりで、横へ引いた。
母が悲鳴を上げた。
「足、足が」
金色の靴の先が、男の黒い靴の下に入っていた。
男は母の足を踏んでいた。踏んだまま、一歩ずつ進んでいた。母が靴を抜こうとして膝を曲げると、その膝も、男の膝に押されて伸びた。上の身体だけを横へ動かしても、下は正面を向いたままだった。
私は床に膝をつき、母の靴の留め金を外した。指に汗がつき、細い金具がうまく回らなかった。
顔のすぐ前で、男のズボンが擦れた。その膝に折れ目はなかった。布がずっと張っていた。右脚が前に出ても、左脚の踵が上がらない。二本の脚が、同じ一枚の板の上を進んでいるようだった。私は顔を上げないようにしながら、金具を引いた。
母の片足が靴から抜けた。もう片方も、彼女が自分で踵を引いた。
二人で床へ倒れた。男は私たちの横を通り、鏡にぶつかった。肩と額の当たる、二つの低い音がした。大きな鏡がたわみ、床の木の縁から細かな埃が落ちた。男は止まらなかった。靴底を擦り、鏡の中へ足を出そうとしていた。
私は母を抱えて後ろへ這った。母のストッキングの爪先が破れていた。
「知ってる人なの」
母は男の背中を見ていた。
「知らない」
「教室の人じゃないの」
母は首を振った。踊っていると、ときどき部屋の端に立っていたという。ほかの人と組めないときに、母の前へ来た。母が両腕を上げてみせると、近づいてきた。
「最初は、ちゃんと回れたのよ」
母は目を擦った。睫毛の根元に白い粉が溜まっていた。
男の頭が、鏡から少し離れた。額の当たっていたところが白く曇っていた。鏡の中には、灰色の背中が見えた。私たちの側にも、同じ背中があった。母を抱え直しながらそのことに気づき、私は声が出なくなった。顔がどちらにもなかった。
母が小さく、すみません、と言った。
男の肩が動いた。振り向くのだと思った。私は母を引いた。男は足を動かさず、上の身体だけをこちらへ寄せた。頭と肩が、私たちのほうへゆっくり下がった。膝も腰も曲げずに、そのまま後ろへ倒れてきた。
逃げる場所はあった。私は母の身体を横へ転がした。男の肩が、今まで母の頭のあった床を打った。灰色の袖が大きく膨らみ、細い腕が何本も見えた。袖口から出たのではない。布地の織り目を押し広げ、指先だけをこちらへ向けていた。私は母を起こし、立って、と言った。
母は立ったが、歩かなかった。片方の靴だけが、男の身体の向こうに落ちていた。金色だった。私は拾わないと決めた。
「行くよ」
母の手を引いた。母は一歩だけ歩き、その場に屈んだ。
「もう片方、脱がないと」
片足にはまだ靴が残っていた。私は脱げたと思い込んでいた。留め金が閉じたまま、踵だけが靴から半分出ていた。
私はしゃがんで金具を外した。母は私の肩へ手を置いた。指に力が入っていた。後ろで、紙を何枚も同時に捲るような音がした。顔を向けずに靴を引いた。母の足が床へついた。
そこへ男が来た。立ち上がったのではなかった。仰向けに倒れた姿勢のまま、まっすぐ床を滑ってきた。平らな頭が、私の足首へ当たった。
私は母を突き飛ばした。自分も床へ手をつき、反対側へ避けた。男が二人の間を通った。甘い匂いがした。上着の裾がめくれ、内側にびっしりついた白い歯が見えた。歯の隙間に、金色の細い糸が絡まっていた。
男は一度もこちらへ首を向けず、入口のガラス戸まで行った。戸の下に額が当たっても、身体を押しつけていた。
私は壁際を通って母のところへ戻った。入口は男に塞がれていた。奥に勝手口があったはずだと、母が言った。受付の裏から、先生が段ボールを出していたことがある。
母に腕を貸し、二人で部屋の奥へ向かった。母が私を立ち止まらせた。スカートの裾が引かれていた。私が自分の靴の踵で踏んでいたのだと分かり、足をどかした。
受付の裏に戸があった。押すと、外の細い通路へ出られた。冷たい風で、ようやく甘い匂いが薄くなった。母は壁へ背をつけ、息を吐いた。裸足のままだった。
私は車から自分の履き替えを持ってきた。母には大きかったが、踵を踏めば歩けた。助手席に座るまで、母は一度も教室を振り返らなかった。
車を出す前に、先生へ電話した。母が誰と残っていたのか聞いた。今日は皆と同じ時間に出たはずだと言われた。鍵をかけずに帰ったことを先生は何度も謝った。入口にまだ人がいる、一人で戻らないでほしいと伝えると、先生は黙って聞いていた。母が隣で返事をするまで、電話を切らなかった。
母を家へ送った。上がっていけと言われ、玄関で靴を脱いだ。私は床に座る母を見て、痛いなら診てもらおうと言った。母は頷いた。それから、靴、まだあるかな、と聞いた。
「あそこには、もう行かないで」
自分の声が強くなった。母は膝の上で両手を重ねた。私が黙るのを待ってから、こちらを見た。
「私もそれは分かってる」
母は自分で電話をかけた。教室へではなかった。私が最初に見せた、駅前の教室だった。体験に参加したいと伝え、踊ったことはありますかと聞かれたらしい。少し、と答えた声が、ひどく小さかった。
電話を切ると、母は金色の靴の載った広告を膝へ置いた。同じ色を買うつもりだった。留め金の写真へ指を置き、これ、自分で外せるかしら、と言った。
私は隣へ座り直した。母のストッキングは、まだ破れたままだった。


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