友人の話から始める。
そいつは千葉県房総半島のある内陸の町で育った。
田んぼと雑木林ばかりの、駅から遠い土地だという。
中学のころ夕方になると、琴の音が聞こえる一角があった。
家もない。
ただの更地だ。
弦をはじく音が風に乗って、切れぎれに届いたらしい。
近づくと止む。
離れるとまた鳴る。
子供らはその空き地を避けて、遠回りで帰った。
誰かが鳴らしているわけではない。
弾き手の姿は一度も見えなかった、と聞いた。
何年も経って、大人になってから一度だけ寄ってみたという。
昼間だったのに奥のほうで、ぽーんと一つ鳴った。
それきり二度と近づいていない。
「あれ、たぶんまだ鳴ってると思うよ」

電話の向こうでそいつは笑った。
笑いの語尾が少しだけ平らだった。
私は心霊スポットの撮影を続けている。
十六のころから三千を超える場所を回ってきた。
カブ百十で行ける範囲はだいたい潰したと思っていた。
その更地も辿り着いた一つにすぎない。
日が暮れてから家を出た。
昼間に行く場所ではない。
そういう撮り方をずっとしてきた。
高速に乗れない車体だから、下道で半日かけて向かう。
国道をそれて県道をそれて、田んぼの中の一本道に入る。
一本道に入ってから、すれ違う車は一台もなかった。
対向のライトがないと、夜はここまで濃くなる。
途中で明かりのある店も自販機もなくなった。
地図の表示はいつのまにか、道のない場所を指していた。
街灯が一本おきに切れていく。
やがてそれも尽きた。

ヘッドライトの届く先だけが世界の全部になる。
着いたのは日付の変わるころ。
旧家を壊したあとの平らな土地が、最後の街灯の端で白んでいた。
雑草が膝のあたりまで伸びている。
その中に苔をかぶった礎石だけが、点々と残っていた。
石の並びで家の輪郭がそのまま読み取れる。
ずいぶん大きな構えの屋敷だったとわかる。
礎石をひとつずつ辿って、座敷のあった見当をつけた。
玄関の沓脱ぎらしい平たい石が、入り口の正面に残っている。
そこから奥へ部屋の数だけ石が並ぶ。
いちばん奥の四隅に、ひときわ大きな礎石があった。
床の間のある座敷だったのだろう。
奥には井戸を埋めたらしい、円い窪みもあった。
カブのエンジンを切ると、耳の奥がしんと鳴った。
少し遅れて虫の声が戻ってくる。
土と草いきれの匂いに、湿った水の匂いが混じる。

草を踏むと足首のあたりだけ、空気が冷たい。
しゃがんで手をかざしても、その冷たさは動かない。
地面から細く上がってくる、その種類の冷えだった。
しばらくは何ごともなかった。
風の通る音と遠くを走る車の音。
それだけのはずだった。
弦の音に気づいたのは、礎石の縁に腰を下ろしてからだ。
ぽーんと一つ。
間をおいてまた一つ。
調律の狂った琴を誰かが指先で確かめているような鳴り方。
方角は更地の奥。
家の輪郭でいえば、いちばん奥まった座敷にあたる場所だ。
立ち上がってそちらへ歩いた。
音がふっと消える。
足を止めて待ってみる。
鳴らない。
数歩さがるとぽーんと戻ってきた。

近づくと音は黙る。
離れると鳴る。
友人の言ったとおりだ。
何度か近づいては離れてを繰り返した。
そのたびに音は同じ場所で待っている。
腕に夜の湿った空気がまとわりつく。
スマホを構えてその方角を録ろうとした。
画面の中の更地はただ黒く沈んでいる。
録れた映像をその場で再生してみた。
虫の声はちゃんと入っている。
弦の音だけがどこにも入っていない。
耳を澄ますと音はやはり奥から来る。
録れないものがそこで鳴り続けていた。
もう一度今度は音のほうへカメラを向けて録った。
再生しても入っているのは虫の声だけ。
画面の隅に白い縦の筋が一本だけ走っていた。
弦のように細い線。

その町の古い人から、あとで少しだけ話を聞いた。
「あの土地のことかい」
そう言ってその人はしばらく黙った。
「鳴るのは本当だよ」
「弾く人はもういないのにねえ」
更地になった家には、長く一人で暮らした女がいたという。
若いころに嫁入りの話があって、それが流れた。
嫁ぐ日も決まっていた。
琴は新しく誂え、相手の家へ運ぶばかり。
その矢先に先方の不幸が報せられる。
相手が病で先に逝った。
その人はそこで言葉を濁す。
女は嫁がないまま、琴も鳴らされずに残った。
持参するはずだった琴だけが、座敷にそのまま残された。
弾かれることもなく、布をかけたまま置かれていたらしい。
女が亡くなったあとも、家はしばらくそのままだった。

晩年はめったに人と話さなかったらしい。
夕方になると縁側に出て、奥のほうをじっと見ていたという。
ここから先は私の推測になる。
弾かれずに終わった音を、土地のほうが覚えていたのかもしれない。
未練というものに形があるなら、あんな鳴り方をするのだろう。
撮影を切り上げようと、カブに足を向けた。
そのときだ。
音が変わる。
一つずつ確かめる鳴らし方ではもうない。
弦の上を指がなめらかに滑っていく。
切れぎれだった音が旋律になりかけている。
更地のいちばん奥。
座敷だった場所だ。
膝までの雑草が一か所だけ円く伏せていた。
風はない。
伏せた草のちょうど真ん中。
そこがゆっくりとへこんでいく。

誰かが正座する重みのかたちで。
草の伏せかたが衣の裾を広げた形に見えた。
膝をそろえて座る、その輪郭。
古い調べがひと節ぶん流れた。
聞き覚えのない低い旋律。
カブにまたがってエンジンをかけた。
排気の音で弦の音はもう聞こえない。
奥の座敷のほうは見ないことにした。
ミラーにも目をやらなかった。
更地が背中の後ろで、また静かになっていく。
家に帰り着いたのは明け方だった。
庭にカブを入れて母屋に上がる。
固定電話の留守番ランプは点いていない。
その晩はそれで終わった。
例の友人に電話をしたのは、その週のうちだ。
更地で何があったかを話した。
電話の向こうがしばらく無音になる。

「録れなかったろ、音だけ」
言われて背中の真ん中が冷えた。
「あそこは録ると音が消えるんだ。昔からそう」
そいつはそれ以上、何も言わなかった。
昔からそうという言い方が、耳に残った。
あの音を知っている人間が、ほかにもいる。
おかしくなったのは、その次の晩からだ。
夜中に細い音で目が覚めた。
ぽーんと一つ。
間をおいてまた一つ。
布団の中でしばらく動けずにいた。
音は庭のほうから届いている。
窓を開けて暗がりに目を凝らした。
物干しのワイヤーが、街灯のこぼれ光を弾いていた。
洗濯物は夕方のうちに取り込んである。
張られたワイヤーだけが、夜気の中で光っている。

風はない。
なのにワイヤーはたわんで、はじかれて鳴っていた。
ぽーんと。
あの更地で聞いた、調律の狂った音で。
ワイヤーの片端は、家の壁の金具に留めてある。
もう片端は物干し竿の支柱。
どちらも揺らすものは、何もない。
何日かはそれだけだった。
一つ鳴って間があってまた一つ。
翌晩もその次の晩も鳴る。
こちらが寝返りを打つと、音が一つ増える。
布団の上で身を起こすと、また増える。
私の動きに奥の誰かが応えている。
息を止めて動かずにいた。
長い間のあとまた一つだけ鳴る。
待たれている。
ある晩、単音がつながりはじめた。

弦の上を指が滑っていく。
更地の奥で聞いた、あの旋律。
それが庭のワイヤーから流れてくる。
窓を閉めて、明かりを点けたまま朝を待った。
その日のうちに、ワイヤーを外して物置にしまった。
今は日が落ちてから洗濯物を干さない。
ワイヤーは使わない晩には外しておく。
一度だけ物置の戸を開けてみた。
外したワイヤーは束ねたまま動かない。
音はその束の真ん中から鳴っていた。
戸を閉めても出どころは束のまま動かない。
近づけば止む。
離れればまた。
ひと月に一度くらい、その晩は来る。
弦の調律の狂った音。
いちばん奥の座敷に、まだ誰かが座っている。
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