眠れない夜には、近所を少しだけ歩くことにしている。
心霊スポットを巡って深夜に帰り着いても、頭の芯はしばらく冴えたまま眠気がやってこない。
その晩も明け方近くまで山あいの廃集落でカメラを回してきた帰りだった。冷えきった体と鎮まらない頭を持てあまして、私はカブを軒下に止めると人気のない夜の住宅街へ出た。
街灯のあいだを縫うようにして歩いていくうちに、昂ぶった気持ちは少しずつほどけていく。そういう夜歩きの習慣を、私はもう何年も続けている。
通る道はいつも決まっている。
古い庭木の張り出した角を曲がって暗い児童公園の脇を抜け、川沿いの細い路地へ入っていく。

夜の住宅街には昼とは違う湿った匂いがこもっていて、どの家も灯りを落として底に沈んだように静まりかえっている。遠くの国道を走る車の音さえ、その夜にかぎって一台ぶんも届いてはこなかった。
自分の足音だけが規則正しく闇に吸われては消えていく。歩いているのはこの世にただ一人だけのような心地がした。
背後で足音がしたのは、ちょうど折り返しの三叉路を過ぎたあたりだった。
ぺたぺたと裸足に近いような湿った足音が、私の数歩うしろからついてくる。
立ち止まって振り返ってみても、街灯に照らされた夜道がまっすぐ伸びているだけだ。人の姿はどこにもなく、揺れる影ひとつ落ちてはいない。
それなのにその足音だけは、妙にはっきりと耳の奥に残っていた。濡れた布を地面に打ちつけるような、粘りつく音だった。

気のせいだろうと自分に言い聞かせて、私はまた前を向いて歩きだす。
すると足音も何ごともなかったように私のうしろで鳴りはじめた。
それからというもの、夜歩きに出るたびに、その足音はかならずついてくるようになった。
私が立ち止まれば、うしろの足音もぴたりと止まる。歩きだせば、足音もまた律儀に歩きだす。
ためしに歩く速さを上げてみると、うしろの足音もすぐに同じだけ速くなる。わざと歩幅を縮めて歩いても、足音はきちんと同じだけ縮めてついてくる。
私のすることをひとつ残らず写し取っているようで、歩幅も速さもいつのまにか私のものと寸分たがわず重なっている。
何度振り返っても、そこにあるのは生ぬるい夜気と、自分の影が長く伸びた路面だけだった。

ある晩、私はためしにその足音の数を数えてみることにした。
三叉路を過ぎてから家の門までの歩数は、子供のころからずっと同じで、その数を私はそらで覚えている。
口のなかでかぞえながら、うしろの足音とひとつずつ突き合わせていった。
門までは、いつも二百三十八歩。何度かぞえても、私の足はそこで尽きる。
それなのにうしろの足音だけは、決まって二百三十九で地面を離れた。
私の歩数よりも、うしろの足音のほうが、きまって一歩だけ多い。何度くりかえして数えても、その答えが変わることはなかった。

数えなければよかったといまでは思う。一度かぞえてしまったその数が頭の奥にこびりついて離れてくれない。
うしろの一歩が私より多くなりはじめるのは、いつも決まった一点だ。
三叉路の角にひびの入った古いマンホールの蓋がある。その蓋を踏み越えたところから、背後の一歩は静かに増えはじめる。
蓋の表面には誰が描いたものか、白いチョークの丸が薄く残っていた。雨に流されかけてはまた誰かが上からなぞり直しているような、消えそうで消えない丸だった。
一度だけ、靴の先でこすって消してみたことがある。次の晩には、まったく同じ大きさの丸が同じ場所に戻っていた。
その丸が何のしるしなのか、私にはいまも見当がつかない。その丸を踏み越えた夜にかぎってうしろの一歩は決まって増えはじめた。

一度だけ、夜歩きの途中で人とすれ違ったことがある。
杖をついた年配の男が、私と同じくらいの速さで暗い道をゆっくり歩いていた。
すれ違いざま、男はこちらに目を向けることもなく、ひとりごとのように口を開いた。
あんたにもついてきてるね。
私が思わず足を止めると、男はそのまま行き過ぎながら低い声で言葉をつないだ。
昔からこの道は数が合わないんだよ。
男がいったい何の数のことを言っているのか、私には尋ね返すことができなかった。ふり返ったときには、男の背中はもう闇に溶けている。

あの男が毎晩この道を歩いていたのか、近所の誰に訊いても知る者はいなかった。
あの一言だけは夜道を歩くたびに耳の底でよみがえった。数が合わない。何の数なのかはいまもって分からないままだ。
その夜を境に、うしろの一歩は少しずつ私との距離を詰めてきた。
はじめは数メートルうしろにあったはずの足音が、しだいに肩のあたりにまで迫ってくる。
街灯の真下を通るとき、足もとに伸びた自分の影が一瞬だけふたつに割れて見えた。
ひとつは私の影で、もうひとつは私のうしろにぴたりと立つ、頭ひとつ分だけ高い影だった。

目をこらしたときには、影はまた一本に戻っている。次の街灯を過ぎても、そのまた次を過ぎても、影は決まって同じ場所で二本に分かれた。
二本目の影には私にはない癖がある。歩くたびにほんのわずかだけ足を引きずるように揺れていた。
家の門をくぐり、玄関の鍵を鍵穴に差しこむころには、足音はもうすぐ背中の真うしろにあった。
鍵を回す。
その金属のかすかな音にかぶせるように、背後からもぺたりと濡れた一歩が地面を打つ。
私が玄関に逃げこんで戸を閉めても、その最後の一歩だけは、いつも戸の外に置き去りにされていた。

晴れた翌朝のことだ。玄関の外のコンクリートに、濡れた足あとがいくつも残っていた。
雨など一滴も降っていない、よく乾いた朝だというのに。
足あとは三叉路のほうから点々と続いて、私の家の戸口でぴたりと途切れていた。
ある晩、私は立ち止まって、それをやり過ごしてしまおうと思いついた。
道の端にそっと寄って、足音を先に行かせようと息をひそめて身をかたくする。
それなのに足音は止まらない。
ぺたぺたと湿った音をたてながら、私のすぐ横をすり抜けて玄関のある方へ歩いていく。

慌てて追いかけると、誰もいないはずの玄関先でかちりと鍵の回る音がした。私の手のなかの鍵は、まだポケットの底にしまったままだというのに。
それなのに玄関の戸が内側からゆっくりと細く開いていく。
暗い三和土には誰の姿もなく、濡れた一歩ぶんのあとだけが上がり框の手前で途切れていた。そこから先の床にはもう何のあとも残ってはいない。家の奥はいつもどおりひっそりと暗かった。
それからというもの、夜に外を歩くのはやめてしまった。
眠れない夜は、ただ天井を見つめたまま白んでくる朝を待つ。
あの足音も、ぺたぺたという湿った響きも、もう私のあとを追ってはこない。家の中まで入りこんでくることだけは、最後までなかった。

ただ、ひとつだけ、いまも腑に落ちないことが残っている。
ある昼、明るい道を歩きながら何の気なしに家までの歩数をまた数えてみた。
三叉路の角から門までの、子供のころから変わらないはずのその数が、いつのまにか以前より一歩だけ少なくなっている。何度かぞえ直しても、足りない一歩はもう戻ってはこない。
私の一歩を、あの夜どこかで誰かが持ち去ってしまったのか。
それとも、はじめからずっと数えられていたのは、私のほうだったのか。
三叉路のマンホールの蓋には、今夜もまた、白い丸が誰かの手でなぞり直されている。


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