深夜のコンビニには、決まった静けさがある。
心霊スポットを巡った帰り道、私はよく国道沿いのコンビニへ寄る。
その晩は、県境に近い山あいの廃トンネルを夜どおし撮ってきた帰りだった。明け方近くまでカメラを回していたせいで、体の芯まで冷えきっていた。
国道はひたすらまっすぐで、すれ違う車のライトひとつ見かけない。
スーパーカブで何時間も冷たい夜道を走ったあとに、温かい缶コーヒーを一本だけ買う。それが何年も続けてきた、私なりの帰り道の区切りになっていた。
蛍光灯の白い光と、レジに立つ店員の眠そうな顔。誰もいない撮影現場のあとで、人の気配のある明るい場所にほっとするのだと思う。

その晩に寄ったのも、いつもと変わらない店だった。
駐車場にほかの車もバイクもなく、停まっているのは私のカブだけだ。
自動ドアが間延びした電子音で開いて、若い男の店員が顔も上げずに「いらっしゃいませ」と言った。
客は私ひとり。
雑誌の棚と飲み物の冷蔵庫のあいだを、いつものようにゆっくり歩いてまわる。冷えた指先を温めようと、ホットの缶を探して棚をのぞきこんでいた。
背中では、聞き慣れた店内放送の音楽が低く流れている。
ぽーんと入店を知らせる電子音が鳴った。

誰か入ってきたのだろう。店員がもう一度「いらっしゃいませ」と言う。
私は冷蔵庫の前から、入口のほうを何気なく振り返った。
自動ドアは固く閉じたままで、外の駐車場には相変わらず私のカブが一台あるきりだ。入ってきたはずの客の姿は、店内のどこを探しても見当たらない。
マットの上にも、レジの前にも、人の影ひとつない。
気のせいだと思うことにした。
ドアのセンサーが、虫か何かに反応したのだろう。そういう誤作動は、古い自動ドアならときどきある。
私はホットの缶を一本選んで、レジのほうへ足を向けた。歩いているあいだにも、ぽーんとまた音が鳴る。

店員はレジの内側で、開いてもいない入口へ向けて「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
ドアはやはりぴたりと閉じたままだった。
棚の上には、防犯用の丸い鏡がついている。
何気なくそれを見上げて、私は足を止めた。
鏡のなかの自動ドアの前では、何人もの人影が次々と頭を下げていた。入っては礼をし、また入っては礼をする、灰色の影の長い列。
その数は見ているあいだにもひとりまたひとりと増えていく。その列は店の奥のほうまで、暗いガラスに映りこんで延々と続いていた。

ガラスに映る列はゆっくりと、こちらへ近づいてくるように見えた。
鏡から目を離して直に入口を見ると、そこにはやはり誰の姿もない。閉じたドアと、白く濡れたようなマットがあるだけだった。
レジに着くまでのあいだに、その音は七度鳴った。
店員はそのたびに寸分たがわぬ調子で「いらっしゃいませ」を繰り返す。声には抑揚というものがなく、機械が読み上げているかのようだった。
私が缶をカウンターに置いても、彼はこちらを見ようとしない。
入口へ顔を向けたまま、誰もいない自動ドアへ向かって、律儀に頭を下げ続けている。下げるたびに、首の動きがほんの少しずつ遅れていくように見えた。
「あの」と声をかける。

店員はようやくこちらを向いた。目の下に濃い隈が刻まれていて、何日も眠っていないような顔をしている。
彼は私の缶コーヒーを手に取り、バーコードを短く鳴らした。百三十円ですと告げる声は、さっきまでのかけ声とは別人のように生気がなかった。
小銭を財布から探しているあいだも、入店の音は一定の間隔を保ったまま途切れずに鳴り続けている。缶を握る私の指先から、温もりが急に逃げていくのを感じた。
カウンターの奥には、防犯カメラの小さなモニターが置いてある。
画面のなかの入口は、頭を垂れた人影でびっしりと埋まっていた。灰色の背中が幾重にも折り重なって、絶え間なく上下に揺れている。
一礼するたびに頭の数が増えて、やがて画面は灰色一色に塗りつぶされていく。モニターの隅では、入店を知らせる数字だけが休みなく回り続けていた。
目の前の現実の入口には、あいかわらず誰ひとりいないというのに。

「ほかにも、お客さん来てます?」
そう尋ねると、店員はわずかに口の端を持ち上げた。
来てますよ、さっきからずっと。
そう答える彼の視線は、私ではなくたえず入口のほうへ向けられている。私はつられて振り返ったものの、やはりそこには誰もいなかった。
店員はもう何も言わず、入口へ向かって頭を下げ続けるばかりだ。
数えるつもりなど、はじめはなかった。
それなのに耳がかってに響く音の数を拾ってしまう。

ぽーん。いらっしゃいませ。ぽーん。いらっしゃいませ。
私がこの店に足を踏み入れてから、あとに続いて入ってきた客はひとりもいない。それなのにかけ声だけが十回をこえても鳴りやまない。
二十をこえたあたりで、私は数えるのをやめた。明るい店内にいるのは、私と疲れきった店員のふたりきりだった。
「夜は、いつもこんなに混むんですか」
我ながら間の抜けたことを口にする。店員は釣り銭を私の手のひらにのせながら、曖昧にうなずく。
それから声を落としてこうつけ加えた。

最初はひとりかふたりだったんですけどね、だんだん増えていくんですよ。
彼の表情はまるで動かず、私はその先を尋ねるのがためらわれた。
袋はいりませんと告げて、缶を上着のポケットにしまう。
出口へ向かって歩きだすと、自動ドアが間延びした音で開いた。後ろから「ありがとうございました」と店員の声が追いかけてくる。
その声にいくつもの別の声が折り重なっていた。男とも女ともつかない、低くかすれた声の束。
声はひとつ、またひとつと増えて、いつのまにか合唱のように店内を満たしていく。
何人もの礼がひとつに溶け合いながら、私の背中をうしろから押してくる。

振り返らずに外へ出た。
夜気はすっかり冷えていて、駐車場には私のカブだけが停まっている。エンジンに鍵を差しながら、ガラス越しにもう一度だけ店内をうかがった。
店員は相変わらずレジの内側に立って、誰もいない入口へ向かって頭を下げ続けている。
客のいないはずの店内を、ぽーんという音だけがガラスの外までかすかに満たしていた。アクセルをひねって走り出してからも、あの合唱はしばらく耳の奥に残って離れなかった。
それから、あの店には一度も寄っていない。
深夜の国道を走っていると、似たようなコンビニの明かりがいくつも後ろへ流れていく。家々の窓も街灯もまばらな道に、その白い光だけが点々と灯っている。
どの店の自動ドアも、私が前を通り過ぎるたびに、ぽーんと小さく鳴る気がしてならない。

客が入るわけではないのに、白い光の奥で誰かが律儀に頭を下げている。その背中がいつかのあの店員のものに見えて、しかたがない。
私はもう、深夜のコンビニには寄らない。
走り続けたまま、まっすぐ家まで帰る。温かいコーヒーは、いまは自分の台所でいれている。
ときおり夜更けにふと、玄関のほうでぽーんと鳴った気がして、缶を持つ手が止まる。その時間に玄関を見にいくことは、もうしない。
台所の灯りは、夜のあいだつけたままにしている。
入ってくる者などいない、はずの玄関で。


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