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滑走路の端

長瀬は封筒を篠田の車の助手席へ置いた。
「先に払っとく。あとで要らんと言われても困るから」

篠田が機体を出している間に、長瀬は車を離れた。中を確かめるのも気が引けたが、金額を決めたのは自分だった。二万円。材料代にもならない。そう思う一方で、半年も買い手のつかなかった飛行機へ、長瀬がその額を出したことにほっとしていた。

翼をつけると、大人が両腕を広げたほどの幅がある。篠田が五年かけて作った模型だった。赤い塗装は少し褪せ、車輪の片方は何度も交換していた。長瀬と二人で機体を砂利道の上まで運び、入口脇の木の台へ載せた。尾翼へ巻いた古いタオルを取った。

「今日、飛ばすか」
「飛ばさん。もう電池も積んでない」
「こいつの話だよ。お前じゃなくて」
「こいつも飛ばさん」

長瀬は笑ったが、それ以上は言わなかった。篠田にはありがたかった。引っ越し先の部屋へ持っていけないから売るのだ、と説明していた。それも嘘ではない。ただ、細い部品を落とすと見つけられなくなり、一度しゃがめば立つのが面倒になっていた。失敗して壊す前にやめたかった。

町外れの丘を平らにしたこの土地を、同好会は二十年近く借りていた。長く続けた会員の半分が来なくなり、草を刈る者は四人しか残っていなかった。地主へ返すことが決まり、前の日曜に物置と柵の一部を片づけた。今日は篠田と長瀬で、滑走路に敷いた古い敷物を外せば終わる。

地主の吉井さんは昼前に来ると言っていた。篠田は印をつけた鍵をポケットに入れ、長瀬へ端のペグを抜くよう頼んだ。自分は入口の側から作業を始めた。

敷物は黒い帯になって、草地をまっすぐ横切っていた。元は工場で使っていたものを、会員の一人がもらってきた。何枚も縫い合わせてあり、巻けば泥を含んだ重い筒になる。篠田が端を少し持ち上げると、裏へ細い根が入り込んでいた。軍手でこそげると、湿った土の匂いがした。

「これ、外したらどこへ持ってく」
長瀬が敷物の端をつまんで訊いた。
「お前、軽トラを出すって言ってたろ」
「貸すとは言ったよ。運ぶ人は決まったのか」

篠田は手を止めた。会の連絡帳には、長瀬の名の横に「敷物引き取り」と書いておいた。誰も訂正しなかったので、決まったつもりでいた。長瀬は入口脇の台へ載せた機体を見た。
「飛行機は自分の車で持ってくよ。こっちは会の物だろ」
もっともだった。篠田が、あとで吉井さんにも訊いてみる、と答えると、長瀬は黙って敷物の先をめくった。土の色が帯状に濃く残った。途中に白っぽい石が一つ見えていた。

篠田は自分の側を巻き始めた。膝で押さえ、両手を入れ直す。一回転させるたび、端が斜めにずれる。長瀬を呼ぼうとして目を上げた時、草地の奥に男がいるのに気づいた。

雑木林の手前だった。灰色のズボンに、薄い茶色の上着。物置の跡へ残ったブロックに腰を掛け、こちらを見ていた。吉井さんの知り合いかもしれない。篠田は軍手をしたまま片手を上げた。男は、顎を少し引いた。

長瀬も男を見ていた。
「来てたのか」
「知ってる人か」
「知らん。先週も、あそこで見てた」

篠田は先週、一番最後に鍵を閉めた。その時まで奥に人はいなかった。けれど先に来た者なら、誰かが見かけてもおかしくはない。男は邪魔をせず座っている。挨拶をしたのだから、用があれば声を掛けるだろう。

巻いた敷物を立てようとすると、途中で引っかかった。まだペグが残っているのかと思い、篠田は横から下を覗いた。さっきの白い石が、すぐ脇にあった。爪のように丸く、端の一部が欠けている。

篠田はそこまで巻いていなかった。
長瀬が反対側から歩いてきた。白いものを見つけると、踵で軽く押した。

奥の男が、片足を引いた。

敷物の下で、土が膨らんだ。長瀬は押していた足をどけた。二人の間にあった白いものが、土をつけたまま、わずかに左へ向きを変えた。

「ペグじゃないな」

長瀬の声が低くなった。しゃがんで顔を寄せかけたので、篠田はその肩へ手を置いた。白いものの付け根から、短くて黒い毛が数本出ていた。篠田は肩へ置いた手に力を入れ、長瀬を立たせた。

「踏むなって」
長瀬が言った。篠田へ言ったのではなかった。奥を見ている。

男は片膝を抱えて座っていた。裸足だった。灰色の裾から出た足は、離れて見れば普通の大きさだった。その爪の一つに、欠けたところがある気がした。

篠田は男と白いものを見比べた。どちらもよく見える。間にはまだ外していない敷物と、刈った草が続いている。人の足が届く距離ではない。

「すみません。そこに、何か置いてありますか」
篠田が呼びかけた。男は膝を抱えたまま、少し待ってから答えた。

「そっちまで行ってる?」

会話になっていなかった。篠田はもう一度、何を、と訊きかけた。横で長瀬が敷物を放した。巻きかけの筒が戻り、黒い帯が地面に広がった。白いものは、その下へ隠れた。

男は膝から両手を離した。
長瀬が篠田の肩を押した。入口の方へ歩けということだった。篠田も道具を拾わずに歩いた。二人とも走らなかった。背を向けると、軍手の中で指の付け根が冷たくなった。

飛行機は入口脇の木の台に載せてあった。車までは、そこから細い砂利道を下ればよい。長瀬が胴体を抱えようとしたので、篠田は翼を外してからだと言った。長瀬の車では組んだまま運べない。二人で尾を押さえ、胴体の下の留め具を外す。

いつもなら指で回るねじが固かった。土のついた軍手を脱ぎ、親指を当て直した。なぜ今ここでこんなことをしているのか、篠田にも分からなくなった。車へ戻ればよかった。機体を置いても、誰も責めないはずだった。

「貸せ」
長瀬が手を出した。篠田はねじから指を離さなかった。

「あんまり捻ると、ここの板が割れる」
「分かってる」

長瀬が機体を傾けた時、草地の方で何かが倒れた。小さな金属音だった。篠田が振り向くと、さっきまで自分のいた場所に、熊手が横たわっていた。

男がそのすぐ脇に立っていた。

歩いてくるところは見なかった。土をつけた裸足は、熊手より少し小さく見えた。裾を片方だけまくり、脛を掻いている。近くなった顔には、ひげの剃り残しがあった。目が細く、眩しそうに鼻へ皺を寄せていた。

男が足を上げた。

黒い敷物の先が持ち上がり、巻きかけの筒が転がった。剥き出しになった地面に、指が並んでいた。土へ横たわる五本の太い指で、一番太い指には白い爪がついていた。篠田たちから見える男の足と、指の向きは同じだった。

地面の指が曲がった。草の根ごと、黒い帯が挟まれた。

篠田は長瀬の腕を叩いた。二人とも機体から手を離せずにいた。男は膝を少し折っただけだったが、足元の草が、雑木林まで長く沈んだ。そこに脚があるのだと考えた瞬間、篠田は自分の靴の下を見た。

指がどこで終わり、足首がどこへ続くのか、分からなかった。男が手を置いた膝は見えている。それを地面の指から辿ろうとすると、途中で草地を二度見てしまう。同じ枯れた草の束を見た。さっき自分が置いた軍手も、同じ場所にあった。目を離したり細めたりしても、間を埋められなかった。

「おい、車へ運ぶぞ」

長瀬が言った。持ち方を変え、翼の片端を自分の胸に寄せた。篠田は反対の端を持った。横にすれば砂利道を通れそうだった。

男は二人を見て、少し困った顔になった。

「まだ残ってるの」

篠田は何も答えなかった。借りた土地を片づけているだけだ。そう言えば済む話だったはずなのに、誰に何を返すのか、急に考えられなくなった。

二人は機体を縦気味に持って砂利道へ出た。長瀬が先に下り、篠田は翼が杭に触れないよう身をよじった。その足元で、細かい石が滑った。長瀬の靴へ当たり、道の端まで転がった。

道が高くなっていた。

上がっているのは入口の側だった。篠田が片足を下へ出しても、靴底が届かない。長瀬が振り返り、機体を下ろせ、と言った。声が聞こえる距離なのに、長瀬の顔を随分上から見ていた。

「下ろせって。俺も持てない」
篠田は地面へ機体を置こうとした。翼の先が砂利へ触れた。人の足の甲へ物を載せた時のように、その場所がゆっくり持ち上がった。長瀬が手を離した。赤い翼が篠田の顔の高さへ来た。

プロペラは回っていなかった。機体の腹の下に、土まみれの皮膚が見えた。爪の縁に砂利が一つ挟まっている。男の足の親指だった。それが飛行機を、裏から支えていた。

長瀬がもう一度機体へ手を伸ばした。
「触るな」
篠田は叫んだ。飛行機を上げているものの先を、長瀬が掴もうとしていた。翼ではない。翼の縁に沿って立った、人の指ほどの長さの皮を。

篠田は抱えていた端を押し出した。機体が傾き、男の足の上へ重なった。薄い木の割れる音がした。長瀬が目を閉じた。篠田は翼を放し、その手を長瀬へ伸ばした。

下りる時、膝をついた。砂利が掌に刺さった。長瀬に襟を掴まれ、機体の下から引きずり出された。道を転がるほどの高さではなかった。けれど立とうとしても足元が傾き、二人は車のタイヤに触れるまで腰を低くして歩いた。

長瀬は自分の車の戸を開け、篠田を押し込んだ。助手席の足元へ、草の種のついた靴が二つ収まった。そこを見て、篠田はようやく息を吐いた。

入口の上に、男の頭が見えた。裸足の男の頭より、飛行機の赤い尾翼の方が高かった。機体は動かず、男だけが、上着の裾を引いている。

長瀬は運転席へ回らなかった。開けた戸の脇に立ち、篠田の顔を見た。

「あれ、置いてくのか」
篠田は頷いた。長瀬の口元が動いた。何か言い返すのだと思ったら、唇についていた土を吐き出した。

「金、返すから」
そう言うと、長瀬は首を振った。篠田の車を指した。封筒は隣の車の助手席にあった。そこまで行って取り出せばよい。ほんの数歩だった。

長瀬はその数歩を歩き、封筒を持って戻ってきた。篠田の膝へ置いた。
「壊すとこまで、お前がやるんだな」
長瀬は笑おうとした。篠田は、謝ることができなかった。長瀬の掌は血で汚れていた。機体を放せと言われた時、篠田は割れる板の方を心配していた。長瀬がまだ買ったばかりだったことも、二人で作業していたことも、あの時は忘れていた。

入口で、赤い翼がゆっくり下がった。

機体の胴は折れていなかった。主翼だけが付け根から外れ、片方を下へ向けていた。その向こうで、男が地面へ腰を下ろした。足首を両手で持ち、片足を反対の膝へ載せようとしていた。

草地が、入口の方へ折れた。

土が崩れる音はしなかった。敷物の黒い帯も、熊手も、刈った草の束も、それぞれ地面についたまま持ち上がった。篠田は男の膝を見た。灰色のズボンの皺に、草地の奥の雑木林が小さく挟まっていた。

長瀬が助手席の戸を閉めた。
篠田は窓越しに、長瀬が車の前を回るのを見た。すぐそこの地面を、足を置くたびに確かめていた。車へ乗ってエンジンを掛けた。鍵から手を離さず、もう一度回そうとしてから止めた。

吉井さんへの電話は篠田がした。今日は全部を外せなかったと伝えるつもりだったが、最初に出たのは、来ないでください、という言葉だった。

電話の向こうで、車を止めるからちょっと待って、と言われた。篠田は待った。丘の上で男が足を下ろした。赤い翼が一度だけ起き上がり、砂利道を滑ってきた。長瀬は車を後ろへ下げた。

「どうしたの。怪我でもした?」
「門の先へ来ないでください。あとで電話します」
篠田はそう言い直し、通話を切った。丘の上では、敷物を外した所へ男が裸足を入れていた。指の間に黒い布が溜まった。左右を取り違えた靴へ足を押し込む人のように、男は何度も爪先を動かしていた。

篠田は自分の膝の封筒を掴んだ。
「長瀬。あれは、もういらんのだな」

長瀬は窓を見なかった。封筒を差し出す篠田の手を、そのまま膝へ押し戻した。
「俺が買ったんだから、俺に決めさせろ」

車は坂を下り始めた。長瀬は最後まで、取りに戻るとも、捨てるとも言わなかった。

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