宮内さんは風の強い日に、外で網を繕った。晴れて凪いだ日は家にいて、テレビを大きな音でつけていた。漁師の仕事というのは、私には最後までよく分からなかった。
私の店と宮内さんの家は、幅が一メートルもない路地を挟んでいた。店は制服や作業着の直しを引き受ける小さな仕立て屋で、父が入院したあいだ、私が留守番をしていた。自分の仕事は休職した。父に頼まれたというより、入院費を払うため、店を閉めたくなかった。
来るのは裾上げとファスナー交換ばかりだった。ミシンは使えたが父ほど早くはなく、客に急がれると、頼まれてもいない掃除を始めてしまった。宮内さんはそんな私を、路地の向こうから時々呼んだ。
「そっち、貸してくれないか」
針の太いものや糸切りばさみを貸す。返すときに、干した魚や、どこかでもらった饅頭を添えてくれた。
最初に変だと思ったのは、風が止んでも網が動いていたことだった。店の前の暖簾は垂れているのに、宮内さんの膝の上だけで、網の端が小さく膨らんだり戻ったりしていた。網には目がある。袋みたいに空気が溜まるはずはない。
宮内さんは、私が見ていることに気づくと、空いた椅子を足で押し出した。
「端、持って」
言われた通り、網の縁を持った。ざらざらした細い綱が、指に食いこんだ。宮内さんが網針を通すたび、私の手元へ引っ張られた。力を抜けばいいのかと緩めると、違う違う、と笑った。
「人を引くんじゃないんだから。まっすぐに」
その言い方を覚えている。網の先に人がいるなど、そのときは考えもしなかった。
半日手伝ったお礼に、宮内さんは店の裏の雨戸を直してくれた。戸車が壊れて、私の力では閉まらなかった。父は何年も放っておいたところだった。宮内さんは道具を持ってきて、暗くなる前に終わらせた。
「晩は閉めときなよ。風、入るから」
私はそうした。潮でべたついた雨戸を、毎晩、両手で引いた。
その夜、裏口で父が咳をした。私は帳簿をつけていた。いつもの、喉の奥を一度鳴らす咳だった。退院はまだ先のはずなのにと立ち上がり、戸の内側から「お父さん?」と呼んだ。
返事はなかった。代わりに、戸を引く音がした。私は内鍵を外そうとして、手を止めた。
雨戸を直したばかりだった。以前の父なら引いても動かないと分かっていたし、表の玄関から入る。そもそも裏口へ回るには、狭い路地を通らなければならない。腰の悪い父は、ずっと前からそこを避けていた。
携帯で病院へ電話をした。夜の電話は迷惑だろうとためらったが、父が病室にいることは確かめてもらえた。私は礼を言って切り、裏口の前に椅子を置いた。戸はもう鳴らなかった。隣の家で、テレビの笑い声がしていた。
翌朝、宮内さんに話すと、驚いた様子はなかった。
「咳はするな。よく」
「誰がですか」
「風が」
宮内さんは私の顔を見て、冗談だと思わないのか、と言った。
私は笑えなかった。
「お父さんの具合、どう」
訊かれて、また病院の話になった。
宮内さんは父の病気をよく知っていた。検査の日も、私が面会に行く曜日も。隣同士なのだから父が話したのだろう。私が客の前で言ったこともあったかもしれない。それでも、手術の前に父が私へ言った、店は売るなよ、という言葉を宮内さんの口から聞いたときには、嫌な感じがした。
「電話で聞いたんですか」
「聞こえたんだろうな」
宮内さんは言って、網針を口にくわえた。
午後から風が強くなる日だった。私は裾上げを終わらせ、宮内さんのところへ行った。黙って疑っているより、何か話したかった。宮内さんは前と同じ網を広げていた。修理しても修理しても、同じところがほつれているように見えた。
「これ、船で使うんですか」
「もう使わない」
「じゃあ、何で」
宮内さんは網の結び目を持ち上げた。
「ここ、ほどけるかね」
切れば早いと思ったが、ほどくというので、目打ちを借りた。糸が何本も硬く締まり、先が入らなかった。唾で濡らそうとすると、宮内さんに手首をつかまれた。
「口に入れない」
強い声だった。すぐに水を持ってきて、これで、と渡された。私は小さくうなずいた。
糸が少し緩んだとき、背後で戸が開く音がした。店の裏口だった。振り返ると、雨戸は閉まっていた。
「そのまま」
宮内さんが言った。
私は結び目を押さえた。指の間から、温かい息のようなものが抜けた。耳のすぐそばで、男が低く「ああ」と言った。疲れて椅子に腰を下ろすときの声だった。
私は網を放した。宮内さんが端を拾い、膝の上へ集めた。糸はただの糸になっていた。水で濡らしたところが、指に冷たかった。
「今、誰か」
宮内さんは網を畳んでいた。
「今日はここまでだね」
その晩から、店の中で物音がするようになった。足音ではなかった。父がミシンの糸を通すときに引く音、はさみを台に置く音、椅子の背へ上着をかける音。見に行くと、何も動いていなかった。私は二階へ布団を上げ、耳栓をして寝た。
父は見舞いに行くと、店のことを聞いた。私は客の話をした。裏口の咳は言わなかった。
「宮内さん、毎日網を直してるよ」
そう言うと、父はベッドを少し起こしてくれと言った。背を支えると、私の顔を近くで見た。
「お前、手伝ったのか」
私はうなずいた。父は口を結んだ。
「悪いことじゃないんだろうけどな」
父はそれだけ言って、水を飲んだ。私は続きを待ったが、売った店の噂や、入院している別の知り合いの話になった。帰り際に、裏の戸は開けるなよ、と言われた。
「直してもらったの」
「だからだよ」
父は窓のほうを向いた。
私は宮内さんに、もう網は手伝えないと言った。仕事が溜まっていることにした。宮内さんは、そりゃそうだ、と笑い、貸したはさみを返した。柄に貼った私の名前のシールが、きれいに剥がされていた。べたつくから洗ったと言われた。感謝すべきところなのに、私は礼を言うのが遅れた。
台風が近づいた日、宮内さんは朝から網を路地いっぱいに広げていた。青い糸が、両方の家の壁に触れていた。私は店を早く閉め、病院へ行くつもりでいた。父が翌日に退院することになり、書類を受け取らなければならなかった。
「お父さん、帰るんだってね」
宮内さんが言った。
私は戸締まりの手を止めた。
「明日です」
「ああ、明日か」
網の中で、いくつかの結び目が動いた。風が強く、街路樹も電線も揺れていた。網が動くこと自体は不思議ではなかった。それでも私は、路地を見ないようにして表へ回った。
病院を出るのが遅くなった。雨の中を車で戻ると、店の二階に灯りがついていた。消し忘れたのだろうと思った。表の戸を開け、階段の下から声をかけそうになった。
二階に父がいる気がした。
靴を脱がずに、その場で電話をかけた。病棟の看護師に、またですか、とは言われなかった。ただ、父に直接代わってもらうことはできなかった。もう休んでいるという。私は携帯を耳に当てたまま、階段を見上げていた。
二階で布団を引きずる音がした。父の寝室は一階で、二階は長く物置だった。私が布団を運び上げたことを父は知らない。雨戸を叩く音が大きくなり、階段の上に、濡れた裾が少しだけ見えた。
私は玄関から出た。路地を回り、宮内さんの戸を叩いた。隣はテレビが消えていた。耳を澄ますと、中で誰かが食器を洗っていた。
「宮内さん」
二度目に呼ぶと、女の人が「はい」と答えた。
女の人は、宮内さんが今、手を離せないと言った。私は、奥さんはいたのだろうか、と場違いなことを考えた。戸口のすぐ向こうに、その人が来た気配がした。
「うちで待ってたら」
鍵が外れる音がした。
私は一歩下がった。雨が顔に吹きつけた。戸の隙間から、店の裁ち台が見えた。父のミシンが、その向こうにあった。私の店と同じ道具があるのではない。裁ち台の角に今朝つけたばかりの鉛筆の線まで見えた。
女の人が、もう少し戸を開いた。
「濡れるから、早く」
私は路地を戻ろうとした。そこに網があった。両方の家の間を塞ぎ、青い糸が胸の高さまで浮き上がっていた。向こう側に、宮内さんが立っていた。
「引っ張るな」
私に向かって言った。
「結び目を、一つずつ」
宮内さんは風に上着を膨らませながら、網を押さえていた。私は目の前の結び目をつかんだ。濡れていて滑った。爪を立てると、背後の女の人が舌打ちした。私は後ろを見ず、糸の輪に指を入れた。
ほどけるたび、何かが通った。髪を引かれる感じや、肩に額を押し当てられる感じがした。誰かが息を吐き、誰かが途中まで名前を言った。宮内さんはずっと、そこじゃない、次、と言い続けていた。私は返事をしなかった。口を開けると、声の代わりに別のものが出ていきそうだった。
最後までほどいたわけではない。足元に隙間ができ、宮内さんが私の腕を引いた。路地の表側へ倒れこむと、背後で戸が閉まった。
宮内さんが私の靴を拾った。片方が脱げていた。私は気づいていなかった。
「入らなかった?」
宮内さんに聞かれ、首を振った。
「よかった」
その言葉に腹が立った。私は宮内さんの袖をつかみ、何をしているんですか、と言った。助けてもらった直後なのに、手が離れなかった。
宮内さんは、店の裏口を見た。
「あの人も、最初は入らなかったんだ」
私の父のことかと思った。違った。
「帰ってきたから、開けただけだったんだよ」
誰が帰ってきたのかは聞かなかった。宮内さんの家の中で、さっきの女の人が笑った。遠くから、別の人も笑った。家の大きさに合わないほど、奥から聞こえた。
私はその晩、車の中で寝た。朝になって父を迎えに行った。店へ戻ると二階の灯りは消え、布団は私が畳んだままだった。父は裏口を見て、雨戸が直ったことには何も言わなかった。
店を畳むまで、さらに一年かかった。父は自分の手で道具を片づけた。宮内さんは手伝いに来ず、最後の日に魚を持ってきた。私たちは表の玄関で受け取った。父と宮内さんは、よくある引っ越しの挨拶をした。二人とも、相手の顔を長く見なかった。
店のあったところは、今は駐車場になっている。私は父を乗せて、ときどき前を通る。宮内さんの家は残っている。隣の建物がなくなったので、昔は路地の奥だった戸口が、道路からよく見える。
風の強い日には、宮内さんがそこに座っている。網の端を一人で持つのは難しいらしく、空いた椅子に重い石を載せている。
その石が、ときどき椅子の上で動く。
父はそれを見ると、窓を閉める。私は車の速度を落とさない。宮内さんの声が聞こえる前に、あの角を曲がるようにしている。


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