修理できません、と言えばよかったのだと思う。
それを言わずに預かったのは、蓋が開くだけで八万円になる仕事だったからだ。古い家具を直していると、丸二日かけて引き出しを削り、それでも一万円しか請求できないことがある。箱一つに八万円と言われ、私は依頼人より先に笑ってしまった。
箱は掌に載るほどの大きさだった。表面が黒く、木目は見えなかった。漆を塗った品物に見えたが、指で叩くと石のように重い音がした。四隅に継ぎ目がなく、蓋と本体の境も爪が入らない。底には丸く削った跡があり、その一か所だけ、薄い琥珀色に透けていた。
依頼人の矢島さんは、近所で不動産業をしていた。父親から受け継いだ蔵を片付け、売れそうな品を選んでいるのだと言う。箱の中に何があるかは知らないが、振ると音がする。壊して取り出すことは考えていない。八万円は、中身を傷めず開けられた場合の工賃だった。
「開かなかったら?」
「一万円、お渡しします」
それでも十分だと思い、引き受けた。
最初の二日は何も進まなかった。温度を上げるのは怖かったので、日陰の仕事台に置いて様子を見た。湿気で膨らんだ蓋なら少しは変わるはずだったが、重さも隙間も変わらなかった。
三日目、箱の周りに蟻が集まっていた。作業場では時々見かける。砂糖も菓子も置いていないのに、木屑の中を列になって横切っていく。私は箒で払おうとした。蟻は箱を避けていた。四辺から三センチほど離れ、頭を箱に向けて、円のように並んでいた。一匹だけ近づくと、ほかの蟻が一斉に後退した。
近づいた蟻は、箱の下へ潜った。しばらくして、底から出てきた。大きさは同じだった。脚が多かった。細い脚を何本も動かして机を横切り、壁の穴へ消えた。私は箱を持ち上げた。琥珀色の丸い部分に、蟻がいた。石か樹脂の中に封じられた虫のように見えた。先ほどまでは、そこに何もなかったはずだった。光に透かすと、腹がゆっくり動いた。
私は箱を棚の上へ移した。
翌日、矢島さんが様子を見に来た。蟻の話はしなかった。余計なことを言うと、品物を傷めた言い訳に聞こえると思った。
「これ、どこから手に入ったものですか」
「父の持ち物なのでね。たぶん、付き合いのある骨董屋でしょう」
矢島さんは箱を耳に当てた。
中で、何か硬いものが転がった。
「小さな玉でも入ってるんでしょうか」
私が言うと、矢島さんは箱を耳から離した。
「椅子です」
笑顔のままだった。私は返事をしなかった。
「今、椅子を引いたでしょう」
箱を渡され、耳に当てた。女の人が咳をした。
その後に、茶碗を机へ置く音がした。私は箱を離し、矢島さんを見た。彼は私の顔を面白がっていた。初めて聞いた音を二人で驚いている顔ではなかった。
「開けられたら八万円ですよ」
その日、私は仕事を断る電話をした。矢島さんは、もう少しだけ、と言った。こちらから工賃を返すと言っても、そういう問題ではないと言った。私は箱を包み、取りに来てください、と伝えた。夜、家へ戻る前に棚を見上げると、包み紙の上に、薄い白いものが並んでいた。
蟻の翅かと思った。指で摘まむと、爪だった。小さな、人の足の爪に見えた。透き通るほど薄く、先が丸く擦れていた。十枚より多かった。箱から、爪を切る音がした。私は包みを解いた。蓋が少し浮いていた。一センチもない隙間から、黄色い明かりが漏れていた。そこへ目を近づけたことだけは、今でも自分の判断だったと思う。仕事でも、確認でもなかった。見たかったのだ。
中には部屋があった。四畳半くらいの、畳の部屋。座卓と、低い箪笥。窓の外は暗く、赤いカーテンが半分だけ閉まっていた。女が一人、座卓で爪を切っていた。横顔しか見えなかった。髪を後ろで束ね、白い肌着の肩が少しずれていた。年齢は分からなかった。
私が息を止めると、女は顔を上げた。蓋の隙間を見た。女の頭の上に、天井はなかった。私は自分の作業場を見回した。梁も蛍光灯も、いつも通りだった。もう一度覗くと、女は立っていた。窓を閉め、カーテンを引き、箪笥から何かを出していた。箱の中から畳を踏む音がした。現実の部屋と変わらない音量だった。
「すみません」
女が言った。私は箱から離れた。
「閉めてもらえますか」
声は小さかったが、こちらに向けていることははっきり分かった。私は蓋を押した。閉まらなかった。隙間に何かが挟まっていた。白い爪だった。一枚ではない。蓋の裏に、細い指がびっしり生えていた。その指先が、箱の縁を押さえていた。
私は手を離した。女が、座卓をひっくり返した。その下へ潜った。両膝を折り、頭を抱えた。蓋がまた少し開いた。女の部屋へ、白い脚が下りた。虫の脚のように細かったが、先に人の手が付いていた。畳を探り、座卓の脚を一つずつ掴んでいた。
私は箱の上に、厚い木板を載せた。その上へ道具箱を置いた。蓋が戻り、女の声が途切れた。作業場の入口で、自転車のベルが鳴った。矢島さんだった。
「開きましたか」
私は入口から彼を押し出した。
「中に人がいます」
声を抑えることができなかった。
矢島さんは、私の肩越しに箱を見た。
「やっぱり、そうでしたか」
彼は驚かなかった。父親の蔵にあった物だという話は嘘ではなかった。だが、父親が毎月、箱の前に椅子を置いていたことを彼は知っていた。箱に向かって家賃の話をしていたのだという。
「冗談だと思ってました。商売ばかりしてた人なので」
「誰なんです、あの人は」
「さあ。父の女かなと思ったことはありますけど」
私は矢島さんを殴りかけた。彼は顔を庇った。その仕草で、自分の手が上がっていることに気づいた。
「金を取るんですか。あんなところにいる人から」
「取れたかどうかは知りませんよ」
矢島さんは、苛立った顔で言った。
「だから、開けてほしかったんじゃないですか」
私たちは、しばらく睨み合った。
箱の上で、道具箱が動いた。金属の留め金が震え、上に載せた鉋が床へ落ちた。私は駆け寄って木板を押さえた。矢島さんがその隣へ手を置いた。箱の中で、女が叫んだ。
「上じゃない。下を」
私は底を思い出した。あの琥珀色の丸い部分が、女の部屋のどこかにあるのかもしれなかった。矢島さんに上を押さえさせ、箱を少し傾けた。
女の悲鳴がした。底の丸い部分に、私の作業場が映っていた。小さな机と、棚と、二人の男。片方は箱を持ち上げ、もう片方は木板を押していた。天井がなかった。上から、何本もの細い脚が下りてきていた。私は箱を机へ戻した。頭の上で、蛍光灯が一度だけ暗くなった。
見上げなかった。矢島さんも同じものを見たらしく、白い顔で私の腕を掴んだ。
「どうすれば」
「分からない」
作業場の隅で、木屑を踏む音がした。一歩ではなかった。幾つもの軽いものが、同時に床へ触れた音だった。私は箱から離れず、仕事台の下の板を引き出した。薄い合板だった。矢島さんに箱を持ち上げさせ、底の丸い部分を隠すように板へ載せた。
音が止んだ。上の木板の重さも、手に戻ってきた。女が泣いていた。矢島さんは息を切らしながら床へ座った。私は箱を二枚の板で挟み、締め具で固定した。力を掛けすぎれば割れるかもしれない。普段、割れた板を接ぐ時より慎重に、少しずつねじを回した。
上の隙間が閉じた。女の声は、まだ聞こえていた。泣き声が、やがて鼻を啜る音になった。茶碗を置き直す音がして、私は初めて手を離した。八万円は受け取らなかった。矢島さんは箱を返してほしいと言わなかった。私は作業場の鍵を替え、窓の内側に板を張った。建物の屋根も調べてもらった。職人は、穴はどこにもありません、と言った。
それでも箱を外へ出せなかった。どこまでがあの部屋の上で、どこからが私の部屋なのか、一度見てしまうと分けられなくなった。
翌月、矢島さんが封筒を持ってきた。
「保管料です」
私は受け取らなかった。彼は入口に置き、帰っていった。開けると一万円が入っていた。
その夜、箱から硬いものが滑り出た。蓋と底を塞いでいるのに、側面から出てきた。小さな白い玉だった。真珠に似ていたが、表面に歯の噛み合わせのような窪みがあった。女が言った。
「今月は、それで」
私は玉を箱へ押し返そうとした。側面は硬く、どこにも穴がなかった。
「お金はいりません」
返事はなかった。
それから箱の中の女は、月に一度、白い玉を出す。爪ほどのものから、小指の先くらいのものまである。私は売らずに瓶へ入れている。瓶の中の玉は、夜になると互いに擦れる。作業場を引っ越す話は断った。屋根のある場所から運び出すのが怖い。断れば家賃はまた上がると分かっていたが、店主に事情を話せるはずもなかった。
昨日、矢島さんから、箱を買いたい人がいると電話があった。私は怒鳴って切った。箱の中で、女が座卓を引いた。
その音を聞きながら、私は机に広げた請求書を裏返した。瓶の白い玉を、一つだけ掌に出した。作業灯を当てても、そこには何も映らなかった。
映らないことを、私はもう、安心する理由に使い始めていた。


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