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魚拓の水

祖父の魚拓を、敬老会へ貸すことになった。祖父が自分で貸すと言ってきたらしい。公民館の担当から、写真ではなく現物をお願いしますと電話があり、私は日曜日に額を下ろしに行った。祖父は脚立を押さえながら、尻尾の先を折るなよ、と何度も言った。ガラスの入った額の中で折れようがなかった。

一メートル近い鯉の魚拓だった。黒く厚い胴と、細かな鱗の跡が和紙に残っていた。祖父が若いころ、隣町の川で釣ったものだという。どうやって引き上げたかを、私は何十回も聞いていた。糸が切れかけ、仲間が川へ入ろうとし、祖父がそれを止めた。最後は一人で岸へ引きずり上げたのだと。

その話を聞きたがったのは幼いころの私だった。大きくなってからは適当に相槌を打ち、祖父が身振りを始めると茶を取りに立った。敬老会で好きなだけ話せるのなら結構だと思った。私は額を軽自動車へ積むため、古い留め具を外してガラスを抜くことにした。ひびがあり、運んで割れるのが怖かった。

ガラスを外すと、紙が少し湿っていた。台所に長く掛けてあったからだろう。下の縁に茶色い染みが出ていた。私が、汚れは隠したほうがいいかなと言うと、祖父は濡れ布巾を持ってきた。私は慌てて止めた。紙を拭けば破れる。祖父は、大丈夫だ、何度もやった、と言った。

何度も、の意味を聞く前に、祖父は魚の腹を一度拭いた。墨は落ちなかった。代わりに、紙の表面に細かな水の粒が浮いた。水道の水にしては茶色かった。布巾を絞ったのかと手元を見ると、祖父の布巾はほとんど乾いていた。魚の腹のあたりで、水が横へ流れた。

「裏まで染みちゃうよ」
私は紙を浮かせた。台紙は乾いていた。和紙の表だけが、浅い水路のように動いていた。鱗の黒いところを避け、小さな渦ができている。私は傾けたが、水は下へ落ちなかった。紙の真ん中を流れたまま、魚の口から尾へ進んだ。祖父は座ったまま、それを見ていた。

水の中を、小さな緑色のものが流れた。藻だと思った。よく見ると、ガラス瓶の口だった。茶色いものは木の枝、白いものは発泡スチロールの欠片に見えた。魚の長さに対して不釣り合いなほど小さかった。私は眼鏡を取り、鼻を近づけた。湿った土と油の匂いがした。

「その川、こんなに汚かったの」
祖父は、そりゃ今と違う、と言った。釣りの話をするときの声ではなかった。私は携帯で動画を撮ろうとした。画面を向けると、魚の黒い胴が普通に映る。目を離しても水音はした。祖父は、撮ってもしょうがない、と言った。試したことがあるのかもしれなかった。

魚拓の下の文字を見た。体長と重さ、祖父の名、釣った日付がある。日付の最後の一字が滲んでいた。私は、その日、雨だった、と聞いた。祖父は、上がってた、と答えた。初めて聞いた。何十回も聞いた話に、雨の話は出てこなかった。いつも夏のよく晴れた日だった。

公民館へ電話して、今日は持っていけないと伝えた。古い紙なので少し手入れが要る、と言った。担当は祖父の席を空けておくと言った。祖父は受話器の声が聞こえていたらしく、別に俺は行かんでいい、と立ち上がった。魚拓を貸すと自分から言った人が、湯呑みを洗い始めた。

私は和紙を元へ戻し、台所の床へ平らに置いた。流れは止まらなかった。床が濡れるわけではない。だが魚の口の下で、小さく泡が上がった。墨で描かれた丸い目が、つやを持った。私は立ち上がり、祖父へ近づかないように言った。祖父は流しから、口を触るな、と返した。

祖父はこの水を知っている。私はそのことに腹が立った。分かっているなら先に言えばいい。祖父は布巾を畳み、昔からこうだったと言った。額へ入れておけば出ない。ときどき汚れを拭けば落ち着く。誰に教わったのか聞くと、誰も、と答えた。それだけは嘘に聞こえなかった。

私が覚えている限り、祖父は夕食のあとで額を見上げていた。祖母が茶碗を洗っているあいだ、椅子に深く座り、魚を眺めていた。大きな獲物を釣った自慢の時間だと思っていた。祖母が死んでからも同じことを続けていたのだろう。私はその部屋で一緒に夕食を食べなくなっていた。

流れてくる物の数が増えた。川へ捨てられたごみのようだった。欠けた椀、板、ひもで縛った雑誌。魚の黒い輪郭の中へ入るとどれも消えた。鯉が食べているとは思えなかった。胴の中に、川のもっと深い部分がある。私は棒の先で輪郭をなぞろうとした。祖父が私の手をつかんだ。

棒の先が見えなくなっていた。紙へ触れたのは二センチほどなのに、引くとずっと長く濡れていた。棒を立てると雫が落ちた。ようやく床が濡れた。祖父は布巾で押さえた。私は棒を流しへ置いた。指先に泥の臭いが残り、水道で洗っても取れなかった。

魚拓の縁から、黒い水が一筋だけ床へ出た。布巾で吸うと、祖父の手が震えた。私は濡れた布を取ろうとした。中に硬いものがあり、重かった。布を開くと、古い家の門が見えた。小さな写真が付いていたのではない。布の繊維の向こうに、半分水につかった格子戸があった。

祖父が布巾を閉じた。私へ、見たことあるか、と聞いた。私は首を振った。「俺もない」。それから彼は、鯉の腹を捌いたときのことを話した。自分が食べたのかと聞くと、近所へ分けたと言った。腹の中には、魚が飲みこめるはずのない物があった。小さな鍵だったそうだ。

鍵は、祖父の家の勝手口に合った。試そうと思った理由を聞くと、持って帰ったらそこへあったから、と答えた。誰が置いたかという話にはならなかった。祖父は鍵を投げ捨て、魚を釣った場所へ戻った。川にはさっき引き上げた魚と同じくらいの黒い影が、何匹も重なっていたという。

私が聞いてきた自慢話では、そのあたりで仲間が拍手をしていた。竿を担いで写真も撮ったはずだ。そんな写真を見せてもらった覚えがない。「一人だったのか」と聞くと、祖父は頷いた。皆いたと思ったけど、帰りには誰もいなかった、と言った。

魚拓の尾が動いた。紙が波打っただけかと思ったが、尾の輪郭が床の縁へ寄っていた。白い余白の上に、見知らぬ窓が並んでいた。どれも水の下から見上げる形だった。窓の向こうで、男が食卓へ肘をついていた。祖父と同じ姿勢だったが、顔は違う。私が近づくと、男は立った。

祖父が魚拓の上へガラスを戻そうとした。ひびに沿って水が上がり、ガラスが急に重くなった。私は反対の端を持った。割れた部分が開き、黒いものが挟まった。魚の鰭に見えた。透明な面の向こうで、親指のある手がゆっくり開いた。私は声を出したが、ガラスは離さなかった。

手は祖父の側へ向いた。祖父が額をのぞきこむと、濡れた指が彼の顎へ届いた。祖父は口を開けた。何かを飲みこんだ音がした。私はガラスを横へ滑らせた。祖父の手首が引かれ、二人で膝をついた。指が顎から離れたあと、祖父の唇に緑色のものが残った。藻のように見えた。

救急車を呼ぼうと携帯を取った。祖父は首を振ったが、私は番号を押した。つながる前に、祖父が吐いた。水だけだった。台所の床へ、小魚が一匹落ちた。銀色に跳ね、魚拓の口へ飛びこんだ。祖父は荒く息をついた。電話には、むせて倒れたが今は呼吸している、と伝えた。

待つあいだ、私はガラスを壁へ立てかけた。魚拓は床の上だった。祖父が水を吐くたび、輪郭の内側で水位が上がった。魚を乾かしてはいけないと思った。何の根拠もない。乾いた尾の先が、祖父の指と同じ色になりかけていた。私は洗面器に水を汲み、布巾で余白を濡らした。

祖父は止めなかった。私の手元を見て、もっと口のほう、と言った。私は、釣ったときもそうしたのか、と聞いた。祖父は、そうだ、と答えた。陸へ上げたあとも、魚はずっと口を開いていた。水をかけると、その口から誰かが息を吐いた。祖父は、そのとき初めて逃げたくなったという。

隊員が来る前に、祖父は普通に話せるようになった。私が状態を説明すると、受診しましょうと言われた。祖父も従った。魚拓の上には新聞をかけず、濡れた布巾を隅へ置いた。家を空けるのが嫌だったが、祖父を一人で行かせたくなかった。玄関を閉める直前、台所で水が引く音がした。

その夜、検査から帰った祖父と私は、別の部屋に布団を敷いた。台所の魚拓は動かず、紙は濡れていた。私は公民館への話を断ると言った。祖父はうなずいた。大きいのを釣った話もやめたほうがいい、と言いかけ、やめた。祖父は自分で、あれを魚だとみんなに言うのは、もうやめる、と言った。

夜中、廊下を水が流れた。見に行く勇気は出なかった。祖父が私の布団へ手を伸ばし、肩を一度叩いた。起きていると分かるだけで少し安心した。玄関の土間へ降りる音がいくつも続いた。水の中を歩いているのに、足音は靴を履いているように硬かった。

朝、玄関の内鍵は閉まっていた。魚拓の余白には何も映らなくなっていた。黒い魚の腹だけが、まだゆっくり流れていた。私は和紙を台紙から外し、浅いトレーへ置いた。骨董の値打ちも紙の保存も、この時にはどうでもよかった。乾きかけた端へ、少しだけ水を足した。

祖父は新しい魚拓を取らない。釣り竿は残したが、人に貸すこともなくなった。月に二度、私は水を足しに行く。祖父が自分でやってもいいはずなのに、私が来る日は待っている。トレーを覗きこむ私のそばで、いまの川はきれいになったな、と話す。その川へ二人で行くことはない。

一度だけ、紙の中の水に、私の家の洗面所が映った。私は水を足す手を止めた。蛇口の下で、誰かが手を洗っていた。袖も指も私のものではなかった。祖父へ言うと、魚の向きを少し変えた。見知らぬ手は流れていき、黒い鱗の間へ消えた。

祖父はそのあと、体長の文字を布で拭いた。墨はやはり落ちなかった。私も手伝おうとしたが、彼は、それは俺が書いたから、と布を渡さなかった。数字の一番端が濡れ、また乾きかけた。私たちは水を汲み足した。魚が何を飲みこんだのか、もう二人とも覗かないようにしていた。

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