父が米を売っているところを、私は外から見た。店の硝子戸越しに、いつもの客へ袋を渡していた。父は笑っていた。客も笑っていた。父の足元で、誰かが四つん這いになり、こぼれた米を拾っているのが見えた。
その人が母なのかと思った。母は二年前に死んでいたが、店へ戻ると、ときどき台所にいる気がした。戸を開けると、床には誰もいなかった。父は袋を渡し終え、私へ、遅かったな、と言った。
父が腰を痛め、私が配達を手伝うようになって一月になる。昼は別の会社で働き、夕方から車を出した。米屋を継ぐ話はしていない。父も言わなかった。言わないまま、私の休みに合わせて配達の注文を受けていた。
その週、納品が足りなかった。注文した米の一部が届かず、仕入先へ電話しても翌週になるという。父は困っているはずだった。けれど倉庫には、口を縛った袋がきちんと並んでいた。新しい紙袋には、父の筆で五キロと書いてあった。
何を詰めたのかと聞くと、奥にあった分だと言う。私は全部の在庫を把握していなかったので、それ以上尋ねなかった。米は白く、小粒だった。手に取っても変な匂いはしない。父は、昔の客にはこれがいい、と言った。
夕方、袋を運ぶ車の中で、無性に豆飯が食べたくなった。柔らかい豆を混ぜたものではない。歯に当たるほど硬い豆と、ぽろぽろした飯だった。食べた覚えのないものを、私ははっきり思い浮かべていた。
最後の配達先で、お婆さんが御飯を食べていた。玄関から台所が見えた。いつも椅子に座っている人なのに、低い台の前に正座していた。皿は一枚で、色のない漬物が少し載っていた。
米を届けると、お婆さんはよかった、と言って袋を抱えた。代金は月末にもらうことになっている。その日は十円玉を三枚、私の手へ握らせた。違うと言って戻すと、これだけしかない、と泣きそうな顔になった。
家へ帰り、父にそのことを話した。父は炊飯器の蓋を開けていた。湯気が上がらなかった。中の飯は炊けていて、黄色い豆が混じっていた。昼からずっと食べたかったものだった。
「お前の分もある」
茶碗を出された。私は断る理由がなく、一口だけ食べた。米は硬く、噛むと甘かった。飲み込んだ途端、もっと欲しくなった。茶碗の縁に唇を付け、箸で口へ押し込もうとして、父に手首をつかまれた。
「座れ」
私は立っていた。片手に茶碗を持ったまま、流しの陰へ入りかけていた。誰かに取られないよう、隠れて食べたかった。父の手をほどき、椅子へ座ると、食卓の木の色が違って見えた。
表面の塗装が剥げ、傷だらけになっていた。母が買ったのは白い食卓だったはずだ。膝の下で何かが動いた。私が足を引くと、小さな手が床を探った。父は見えていないのか、黙って自分の飯を食べていた。
翌朝、配達先のお婆さんの息子から電話が来た。母親が夜中も米を食べたがるという。米に問題があるとは言われなかった。ただ、あの米はもう届けないでほしい、と頼まれた。私は父に代わると答え、すぐには受話器を渡せなかった。
奥で父がしゃがんでいた。肩と頭だけが倉庫の戸口から見えた。誰かに話しかけていると思い、耳を澄ました。声はなかった。父は口の中へ指を入れ、歯の間に詰まった何かを取っていた。
倉庫へ入ると、電球が外してあった。点けると虫が来る、と父は言った。入口の明るさで作業できるほど狭い場所だったが、奥の角だけが妙に暗い。昔使った木の大きな米櫃が置いてあった。
父はその櫃から米をすくい、紙袋へ入れていた。底に残っている量は少なかった。一度すくえば終わるように見えたのに、次の袋にも同じだけ入った。私は袋を持ち、父の手を見ていた。木の底の節目を避けて、柄杓が何度も動いた。
「減ってないだろう」
自分でも間の抜けた声だった。父は、そうだな、と答えた。何も隠そうとしない。そのことがいちばん嫌だった。私は柄杓を取り、櫃の底を掻いた。米粒の下に、指の爪があった。
手を入れた人の爪ではなかった。爪だけが、底板からいくつも生えていた。柄杓が当たると曲がり、また戻る。父は私の手から道具を取り返し、そこは触るな、と叱った。
櫃は祖父が使っていたものだった。店が今の場所へ移る前からあり、長いこと空だった。父が中を掃いた翌日、米が少しだけ溜まっていたという。それを量ったあとから、すくってもすくっても減らなくなった。
父は、昔もこうだった、と言った。私は祖父が何か知っていたのかと思った。けれど父が話したのは、冬の配達のことだった。祖父が米を届けると、相手が袋へ頭を下げた。子供の父は、それが嫌で手伝わなくなった。
「米へ頭を下げるんだ。うちの爺さんじゃなく」
父は空の袋を広げた。
「今、俺がそうしてる」
私は父の顔を見た。口の脇に白い粉が付いていた。生米を噛んでいるのかと思ったが、父は何も言わなかった。
店を続ける金が足りないことは知っていた。私は配達だけ手伝えば、それ以上の話をしなくて済んだ。父も仕入代のことを私へ言わなかった。売れる米があると分かったとき、どれほど安心したか。それは聞かなくても分かった。
それでも、客へ渡した分は取り戻さなければならなかった。私は電話をかけ、米に気になる点があったと説明した。残っている分は引き取り、代金を返すと伝えた。怒る客もいたが、早く来てくれと言う人のほうが多かった。
二軒目の家では、居間の電気が消えていた。客の男は、点けても暗いと言った。明かりは点いていた。電球の真下だけが薄暗く、食卓の下に大きな鍋があった。男は、さっきから家内が入っている、と声を落とした。
私は奥さんの名を呼んだ。鍋の向こうから、今出ます、と返事が来た。男が私の肘をつかんだ。
「家内は、買物に行った」
二人で黙った。台所の隅で米袋が倒れ、口から一粒ずつ米が出てきた。誰かが内側から押していた。
袋を抱えて玄関へ出ると、男も付いてきた。私は、お帰りになるまで外で待って、と言った。鍋の奥の声は、それに怒ったようだった。玄関の敷居を、木の椀が一つ転がってきた。縁に、乾いて白くなった指が掛かっていた。
取り戻した米を、私は店の明るい土間へ並べた。父は倉庫の戸を閉めていた。こちらで量り直すと、袋はどれも軽かった。買った人が食べた分だけではなかった。持ち上げている間にも、掌へかかる重さが少しずつ抜けた。
倉庫で、櫃を叩く音が始まった。父は無視していたが、私は戸を開けた。中に何人もの背中があった。櫃へ顔を寄せ、膝を立てて座っている。腕は細く、肘の骨ばかりが入口の光に白く浮かんだ。
私は戸口から、出てください、と言った。一人が振り向いた。顔の下半分が、木の柄杓の形にへこんでいた。口がある場所には、白い米が固く詰まっている。もう一人が顔を上げると、その目の奥にも米が見えた。
父は私を引き戻し、戸を押さえた。中から大勢が押すかと思ったが、押してはこなかった。米を噛む小さな音が続いた。その静かさで、私は祖父の店に誰が米を買いに来ていたのか分からなくなった。
父と二人で櫃を外へ出すことにした。燃やすとか壊すとか、そんな話はしなかった。取り戻した米が明るい所で軽くなるなら、櫃もそうなるかもしれない。父は台車を運び、私は倉庫の戸を外した。
中へ入ると背中は見えなかった。代わりに、床いっぱいに茶碗があった。どれも欠けていて、持ち上げると底が抜けた。踏まないように片づけたかったが、父が櫃の端を持ったので、私は反対側へ回った。
持ち上げると、底から何本も細い腕が垂れた。私の膝に巻きつき、父の足へ伸びた。櫃の中では米がさらさら落ちる音がした。こんなにたくさん入っていたのかと思うほど、音が止まらなかった。
台車へ載せると、父が手を離した。櫃は私の側へ傾いた。怒鳴りかけたが、父は胸を押さえていた。腹が減って力が入らない、と言った。私は倉庫の外から袋入りのパンを持ってきた。父は噛むたび、目を閉じた。
父が食べ終えるのを待った。焦って一人で動かすことはできなかった。櫃から垂れた腕も動かなかった。やがて父はパンの袋を畳み、もう一度持ち手を握った。二人で台車を押し、店の表へ出た。
道路まで届く夏の日が、櫃の縁へ当たった。細い腕は底へ引っ込んだ。米の落ちる音が弱まり、最後には床板を爪で擦る音だけになった。私は蓋を開けた。中に紙袋が一つ、口を折って置いてあった。
父はそれを持ち上げようとして、持ち上げられなかった。私も手を掛けた。袋は机に糊付けしたように動かなかった。祖父の字で、足りない分、と書いてあった。誰の、何の不足かは書いていなかった。
父が古い売掛の帳面を持ってきた。祖父の代のものだった。取り立てるつもりで残していたのかと聞くと、父は、払いたい人が来ると思ってた、と答えた。私は袋の字と帳面の字を見比べた。同じように、最後の線が長かった。
二人とも帳面を開かなかった。父が袋の横へ置くと、紙の端が内側へ曲がった。袋を抱くように丸まり、やがて櫃の底へ伏せた。私は日が陰るまで待った。父は店から椅子を二脚出し、片方を私へ寄せた。
夕方、袋が持ち上がった。中には何もなかった。底に指を入れて確かめると、固い米粒が一つ引っかかった。私はその一粒を櫃へ返した。父が言ったからではない。掌で温まり始めたそれを、家へ持って入りたくなかった。
店は品物を減らして続けている。あの米を受け取った客には、父が一軒ずつ謝りに行った。台所がどうなったか尋ねると、皆、御飯の話をしたがらなかった。木の櫃は空のまま、明るい店先に置いてある。
私は配達に来ると、父と先にパンを食べる。米の匂いを嗅いでからでは間に合わない気がする。父は食べ終えるまで倉庫へ行かない。母が買った白い食卓の裏には、今も細い箸が二本、下から差し込まれている。


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