二つの弁当を同時に温めないでほしい、と初めに言ったのは客のほうだった。片方だけ中が冷たいことがあるから、という理由だった。真知子は別々に温め、熱い容器を重ねないよう袋へ入れた。客は丁寧に礼を言った。
長谷さんという男だった。名前を知ったのは、娘の落とした手袋を預かったことがあるからだ。娘はもう中学生らしい。店へ来たときは小学生で、レジの前に背伸びして手袋を受け取った。長谷はその子の頭を撫でようとして、避けられていた。
店は駅裏の小さな食品店だった。弁当と惣菜を売り、夕方には近くの勤め人が来た。真知子は午後から閉店まで働いていた。夫と別れたあとに始めた仕事で、帰宅の遅い人の顔を見るうち、自分だけが一人で飯を食べているわけではないと思えるようになった。
長谷が二つ買うようになったのは、秋の初めだった。それまでは一つだった。唐揚げの日も煮魚の日も、必ず同じものを二つ取る。真知子は娘さんが戻ったのかと思ったが、家庭のことは聞かなかった。
「温まったほうから、渡してもらえますか」
真知子が袋を広げると、長谷は、袋に入れずに直接手渡してほしいと言った。妙な頼みだった。一つ目を持って待ち、二つ目を受け取ると自分で重ねる。両手で、落とさないように抱えて帰った。
その日、電子レンジの前が濡れた。真知子は容器から汁が漏れたのだと思った。雑巾で拭くと、水はひどく冷たかった。油も醤油の色もない。閉店後も、同じ所へ新しい水が溜まった。
翌日、同僚が小さな茶碗を見つけた。電子レンジの横に伏せてあった。白地に黄色の花の絵がある。店では弁当の容器しか使わず、茶碗は置いていない。客の忘れ物として、レジの下へ預かった。
夕方、長谷が来た。真知子が茶碗を見せると、彼は顔色を変えた。自分の家の物だという。朝、流しに置いてきたはずだと、底の欠けた部分へ指を当てた。指の関節が茶碗の内側へ入り、そのまま少し動かなかった。
「娘さんの?」
真知子が聞くと、長谷はうなずいた。今日は何を買うのか迷っていたのか、弁当の棚を何度も見た。それから二つ取った。真知子が別々に温めると、長谷は片方を先に受け取り、目を閉じた。
二つ目が温まるあいだ、彼の腕から冷気が出ていた。吐く息が白いわけではない。湯上がりの人へ近づくと温かいのと反対に、そばの空気だけが冷たかった。電子レンジが鳴ると、その冷たさが真知子の膝へ移った。
その晩、店の床にスリッパが二足現れた。片方は大人用、もう片方は小さな子供用だった。レジを閉めて振り返ると、さっきまで何もなかった所に揃えてあった。同僚は帰っていた。裏口にも表にも鍵が掛かっている。
真知子は店主へ電話した。店主は近くに住んでいて、見に来てくれた。スリッパを持ち上げると、足の温もりが残っていると言った。真知子が触ると氷のように冷たい。二人で顔を見合わせ、袋へ入れて倉庫に置いた。
次の夕方、長谷は弁当を手に取る前に、ここへ何か来ませんでしたか、と尋ねた。真知子は店主を呼んだ。茶碗に続いてスリッパも長谷の家の物だった。彼は袋を受け取らず、店の隅を見つめた。
「台所の物が、なくなるんです」
盗まれるのかと店主が聞いた。長谷は首を振った。夜になると、食卓の周りが何もない部屋へ変わるのだという。椅子も戸棚も消え、弁当を置いた場所だけが温かい。朝には元どおりになっていた。
娘は母親と別の町にいた。長谷が一人で住む家に戻ってくる予定はない。毎週電話はしているし、ときどき会ってもいる。喧嘩別れというほどではないから、なおさら一人分を買うのが寂しかった、と彼は言った。
「二つ買ったら、誰か帰る気がして」
店主は、娘さんも好きなものは変わるでしょう、と答えた。長谷は黙った。それから、最初は違うのを買っていたんです、と言った。片方を、娘の好きだった煮物にしていた。
初めのうち、余った弁当は翌日に食べた。ある晩、食べ終えた容器を洗って伏せ、その上に新しい二つの弁当を載せて願ったのだという。もう一度、家で二人で、温かいものを食べられますように。
真知子は、それがおまじないになるとは思わなかった。長谷も、そんなつもりはなかったと言った。ただ毎晩、同じことをした。やめると一人に戻る気がしたからだ。三週間ほどして、二つ目の弁当が朝には空になっていた。
「誰か来てるのか、見ましたか」
長谷は、娘がいた、と答えた。ただし中学生の娘ではない。寝巻きの小さな子が、机の向こうへ座っていた。顔を見ようとすると弁当の湯気が上がり、目から上が見えなくなった。
店主は娘さんへ連絡を取ろうと言った。長谷は迷ったが、電話をかけた。真知子たちには声を聞かせず、店の外で話した。戻ると、あの茶碗を知らないと言うんです、とこぼした。スリッパのことも、娘には覚えがなかった。
長谷は自分が買った場面を覚えていた。茶碗を選び、子供の足にスリッパを合わせた。その記憶は、写真よりもはっきりしているという。けれど、どの家で使っていたかを尋ねると答えられなかった。
「まだ、これからなのかもしれない」
彼は誰にも向けずに言った。真知子はその言葉が怖かった。娘が小さかったころへ戻っているのではない。まだ誰も食べたことのない食卓を、夜ごと先に温めているのかもしれなかった。
その日は弁当を温めずに渡した。長谷は代金を払い、冷たい二つを抱えて帰った。店の床は濡れなかった。真知子は安心しかけた。閉店後に倉庫の灯りを消そうとしたとき、戸棚のないはずの壁へ、取っ手が付いていた。
引くと、店の裏の壁が開いた。薄暗い台所があった。窓はなく、流しに水も溜まっていない。床の真ん中に長谷が座り、膝の上へ二つの弁当を載せていた。彼はこちらを見て、すみません、温めてもらえますか、と言った。
店主が真知子の肩をつかんだ。二人とも、壁に手をかけたまま止まった。長谷の向こうに人がいた。膝を折って座っているのに、首が天井へ届いていた。長谷が娘だと思ったものは、机に顔を置くときだけ子供の高さになるのだった。
「長谷さん、こっちへ」
店主が呼んだ。長谷は立とうとして立てなかった。弁当を抱える腕から、机の脚のような細い木が床へ伸びていた。容器を下ろせばいいのに、手が離れないと訴えた。
真知子は壁のこちらから、片方の容器へ手を掛けた。長谷も少し腕を伸ばした。弁当が境目を越えると、真知子の背中へ冷たい戸棚がぶつかった。倉庫にあった空箱が落ち、台所の棚が代わりに立っていた。
店主は棚を押しのけ、真知子の腰を支えた。真知子がもう一つの容器を受け取ると、長谷の腕から細い木が抜けた。彼は這って壁の外へ出た。膝に白い筋が二本残り、そこから木屑がこぼれた。
奥の人が、初めて顔を上げた。口と鼻はあった。目のところには、まだ何もできていなかった。眉毛の薄い線だけが、左右に一本ずつ引かれている。真知子は扉を閉め、取っ手から手を離した。
外へ逃げることはできた。三人で表へ出た。長谷は地面に座り、娘へ電話しようとして指を何度も間違えた。店主が救急へ連絡し、真知子は受け取った弁当を店先の椅子へ置いた。冷たいままだった。
長谷を乗せた車が行ったあと、店主は真知子に帰るよう言った。彼女は鞄を取りに店へ入った。倉庫の取っ手が、表側にも付いていた。開ける気はなかったが、向こうから小さく、お腹がすいた、と聞こえた。
真知子は立ち止まった。店主が後ろから名前を呼んだ。彼女は、帰れますかね、と言った。長谷の家へ戻すのか、ここへ置くのか。店主は、さっきの人を思い出したら戻せない、と答えた。
真知子は店の中に椅子を一脚置いた。店主の休憩用だった。自分も一脚を持ち出し、売場の端へ腰を掛けた。持ち帰る袋を外し、一つ目だけを電子レンジへ入れた。二つ目は手を付けず、閉じたまま床へ置いた。
温めると、足元が冷えた。真知子は途中で止め、弁当を取り出した。ちゃんと温かかった。椅子の前へ置き、割り箸を添えた。店主はレジの灯りを点けたまま、二人の椅子が見える所へ座った。
食卓を作るつもりはなかった。二人分を同時に揃えず、今ここで食べる一人分だけ置く。それで何が違うのか、真知子には説明できなかった。長谷が言った、家で二人で、という言葉を繰り返さないようにしていた。
倉庫の壁から、椅子を引く音がした。真知子は売場の空席を見た。背もたれの上に、長い指が四本載っていた。もう一本は下から伸び、割り箸を取った。箸は二つに割られず、そのまま容器の上へ置かれた。
「まだ、食べたことないんだ」
子供の声だった。真知子は、そう、と答えた。教える言葉が出なかった。箸を持って食べさせれば、それで誰かの親になってしまう気がした。彼女は自分の手を膝へ置き、待った。
店主がスプーンを持ってきた。皿に添えるようにして容器の脇へ置くと、手は少し考えるように止まった。やがて椅子の前へ下り、柄をつかんだ。三人分の手が店の灯りの下にあった。食べる顔は、誰も確かめなかった。
二つ目は温めなかった。容器の上でスプーンが動く音が止むと、足元にあった冷気も薄くなった。倉庫で戸が一度閉まり、取っ手が壁から落ちた。真知子は時計を見た。閉店時刻を二時間過ぎていた。
長谷は翌週、店へ来た。検査では膝を擦りむいた以外に怪我はなかったという。弁当は一つだけ買った。家の茶碗とスリッパは消え、娘の手袋は残っている、と彼は言った。真知子は、それは娘さんのですから、と答えた。
売場の椅子は撤去した。店主は取っ手を紙で包み、引出しへしまった。真知子はあの晩の二つ目の弁当を、とうとう開けなかった。容器を持つと空だった。食べた跡はなく、蓋の裏から、手を置いていたところへ体温が残っていた。


コメント