水曜日だけ、隣の女の人の電話が聞こえた。
ほかの日より帰りが二時間ほど遅くなる。勤め先の薬局で水曜に棚を整理するためで、終わってから電車を乗り継ぐと十時を過ぎた。新しく借りた部屋は駅から近く、家賃も安かった。そのぶん壁は薄いのだろう。台所で湯を沸かしていると、隣の会話が近くに聞こえた。
「はい。少し待っていただけますか」
女は丁寧に言った。それから長く黙り、同じ言葉をもう一度繰り返した。仕事の電話なのかもしれない。私はやかんの火を弱め、会話が聞こえないように換気扇を回した。
廊下へ面したドアに、名前は出ていなかった。引っ越しの挨拶に行った日も応答がなく、二度目に菓子を持っていくのはやめた。私も一人暮らしの女なので、隣の住人だと言われても急に戸を開けるか分からない。
翌週、帰ってくると、隣の戸の前へ小さな緑の楔が落ちていた。ドアを開けておくための、柔らかいゴムのものだった。踏むと滑りそうだったので、壁へ寄せておいた。次の朝にはなくなっていた。
また水曜の夜になると、同じところへ出ていた。今度は戸の下へ半分入り、尖った先だけが廊下に出ていた。誰かが換気をしたのだと思った。私はまたいで自分の部屋へ入った。その晩も電話の声がした。
「こちらから、かけ直した方がいいですか」
言葉は聞き取れるのに、相手の声は聞こえない。息を吸うところで、女の喉が小さく鳴った。私より少し年上に感じられた。
会ったのは、引っ越して三度目の水曜日だった。
隣のドアが手の幅ほど開いていた。近づくと内側へ広がり、髪を一つに結んだ女が顔を出した。初めは枠へ頬を当て、体を斜めに預けているように見えた。目を閉じたまま口が開き、具合が悪いのかと足を止めた。私の靴音がすると、女は顔を起こした。廊下の照明が眩しいのか、目を細めていた。薄い灰色の長袖に、茶色いスリッパを履いている。部屋の奥は暗かった。
「お帰りなさい」
先に挨拶され、私も頭を下げた。引っ越してきた者ですと言うと、知ってます、と笑った。
「水曜は、遅いんですね」
見かけていたのだろう。棚卸しみたいな仕事があるんですと答えると、女は、そうですか、と頷いた。こちらも仕事なのか聞こうとして、やめた。まだ名前も知らない相手の生活へ踏み込みすぎる気がした。
女は戸の内側へ少し下がった。私が自分のドアの前へ行くのを待っているようだった。急いで鞄から鍵を取り出すと、指に引っかかって落ちた。女の足元へ転がった。部屋へ入ってしまう前に拾おうと屈んだが、彼女の方が早かった。片膝をつき、指で鍵の輪を引っかけてくれた。
「疲れてるんですね」
そう言われ、私は笑った。鍵を受け取るとき、女の指に触れた。冷たかったが、晩秋の夜ならおかしくなかった。女は立ち上がりながら、緑の楔をスリッパの先で戸へ寄せた。
「これ、邪魔でした?」
「一度、端へ寄せました」
「すみません」
私は、こちらこそ勝手に、と答えた。女は首を振った。
それだけの会話だった。部屋へ入ってから、菓子を持っていけばよかったと思った。隣の声を知らない人の気配として聞くのと、顔を知った人の電話として聞くのでは、ずいぶん違った。あの女が台所で誰かを待たせているのだと考えると、声は気にならなくなった。
ただ、電話の内容が毎週よく似ていた。
待ってもらい、電話を代わると言い、かけ直した方がいいか尋ねる。同じやり取りの途中で、時々笑いが混じった。相手が何か言ったのではなく、女が自分の言い間違いを笑っているようだった。ある晩には、そこはもう少しゆっくり、と男の声がした。
私は隣に人が増えたのかと思った。そのとき初めて、女の声の高さが急に変わることに気づいた。一つ前の返事より若く聞こえる。言葉を二人で交代しているのかもしれなかった。
ひどくうるさいわけではない。だが、寝る前の短い時間に、知らない仕事のやり取りを聞くのは落ち着かなかった。管理をしている不動産屋へ家賃を振り込んだついでに、音のことだけ訊いた。隣の人に直接苦情を言ったと思われたくなかったので、建物の音の通り方を知りたい、と回りくどい聞き方をした。
電話に出た男性は、少し待ってくださいと言った。その言い方まで隣と似て聞こえ、自分が気にしすぎていると分かった。
「二階の、台所ですね」
部屋番号を確かめた男性は、向かいからだと思います、と答えた。
建物の裏は、古い事務所と一メートルほどの隙間を挟んで向かい合っていた。私の台所の窓は曇りガラスで、普段は開けない。男性によると、窓の上の通風口がその隙間へ面している。隣室の改修で壁の内張りを外したため、向こうの音が通りやすくなっているらしかった。以前にも声について問い合わせがあったという。
向かいの二階は貸し教室だった。平日の夜には講座があり、水曜日は音読の練習に使っている。電話応対を教える講座なのかと私が聞くと、そこまでは知らない、と男性は答えた。窓を閉めてもらうよう連絡しますと言われ、私はお礼を言った。
翌週は、棚の整理が早く終わった。不動産屋の男性が夜なら教室の担当者もいるというので、帰りに建物の前で落ち合った。少し大げさにしてしまった気がしていた。男性は気にせず、実際にどんなふうに聞こえるか分かる方がよい、と言った。
教室では六人ほどが机を囲み、紙を持っていた。机の真ん中に古い黒電話が置いてある。つながってはいない。公民館の催しで短い朗読劇をするため、練習しているのだという。私が電話の台詞を言うと、講師の女性が、これですね、と紙を見せた。
待ってもらう台詞も、かけ直すか訊く台詞も、その通りに書いてあった。登場人物が電話を取り次ぎながら、相手を何度も間違える場面だった。一人ずつ読むので、同じ言葉が何度も繰り返される。私が仕事の電話だと思った部分を女性が読んでくれた。息を吸うところで、聞き覚えのある音がした。
おかしくて、私は声を出して笑った。女性も笑った。こんなに遠くまで聞こえちゃって、と窓を閉めてくれた。
確かめるため、私は自分の部屋へ戻った。不動産屋の男性は教室に残り、携帯で話しながら窓を開け閉めした。開けてもらうと、台所で紙を擦る音まで聞こえた。閉めると、電話の中の男性の声だけになった。頭では向こうからと分かっているのに、開いたときの声は隣の壁のすぐ裏にあった。
通風口の手前に立つと、さらに近かった。窓の位置のせいなのか、二つの建物に挟まれた狭い空間のせいなのか、私には説明できない。それでも、誰がどこで声を出しているのかは確かめられた。女性は最後に、夜は窓を閉めて使います、と電話の向こうから言った。
その晩、久しぶりにテレビを消して食事をした。音の小さい部屋だった。私は隣の女を疑ったことが恥ずかしくなった。疑うほどのこともしていないが、顔を見れば、つい電話の話をしてしまいそうだった。
月曜日、在宅で設備の点検を待っていると、廊下に作業員が来た。隣のドアが開いていたので、不動産屋の男性へ音が収まったと伝えた。男性は笑って、よかったです、と言った。
「隣の方にも、変な言い方しなくて済みました」
私が続けると、男性の顔が止まった。
隣はずっと空いている、という。
私は、知りませんでした、と答えた。誰も住んでいなくても、工事の関係者が出入りすることはあるだろう。部屋の持主か、手伝いに来た人かもしれない。
「女の人が、一度」
服装を話すと、男性は首を傾げた。私が会った日を尋ね、携帯の写真を開いた。
床を外した工事の記録だった。撮影日は、私が引っ越してくる前だった。隣室の入口から奥へ、床板がすっかり取り払われていた。下には一階の天井の裏側が見える。踏んでよい板は一本も渡していなかった。
男性が今の室内を見せた。写真と同じだった。緑の楔は作業用の箱にいくつも入っており、開けたドアの下へ挟んで使うという。
私は入口の敷居へ手を置いた。廊下と同じ高さに床があるのは、そこまでだった。
「いつ、あの人が」
聞きかけてやめた。男性は携帯を持ったまま、私の次の言葉を待っていた。
あの晩、鍵は敷居を越えて転がった。女は戸の内側に片膝をつき、私の鍵を拾ってくれた。あまりに普通の動作だったので、その先にも床があると、私は何も考えずに見ていた。
女が膝をついたところを、工事の写真でも探した。
その場所には、下の階の蛍光灯の背中が見えていた。


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