標本箱に戻すときだけ、武井さんは虫を裏返した。
ふだんは翅の表が見える向きに並べている。ところが、その午後、机の上へこぼれた虫を拾うときには、一匹ずつ腹を上にして置いた。折れた触角を探していた私に、そこまでしなくていいよ、と言った。
武井さんとは月に一度、公民館で会っていた。昆虫が好きな人たちの小さな集まりだった。私は採集よりも写真を撮るほうが好きで、標本はまだ二箱しか持っていなかった。何も持たずに見に来る人もいれば、毎回同じ箱を開けて、同じ虫の話をする人もいた。武井さんはそのどちらにも嫌な顔をしなかった。
一度、私が翅を破ってしまった蝶を持っていったことがある。右の翅の端が、三角に欠けていた。捨てようと思うと言うと、武井さんは、それなら僕にちょうだい、と受け取った。次に会ったとき、蝶は欠けたまま箱へ入っていた。ああいうのも残すんですね、と言ったら、そういう虫だったんだから、と笑った。
だから私は、武井さんが虫を大事にする人だと思っていた。自分にはない根気もあった。脚を一本整えるだけで十分もかけていて、若い会員が先へ進みたがっても、急がなくていいと繰り返した。
その日は集まりのない土曜だった。武井さんが自宅の物置を直していて、箱を移す間だけ手を貸してほしいという。重い物はないが数がある、と言われ、昼過ぎに行った。庭の物置では大工さんが床を外していた。箱はそこではなく、家の二階の部屋にあった。
私は階段を上りながら、虫の箱は全部ここですか、と訊いた。
「だいたいね。持っていくのは、よく見せるやつだけ」
武井さんは廊下の突き当たりを開けた。日除けの下がった六畳の部屋で、壁沿いの棚が天井近くまであった。机の上だけが空いていた。椅子は一脚しかなく、武井さんは私に座るよう言って、自分は畳へ膝をついた。
棚の下のほうには、菓子箱もあった。透明な蓋の箱と違って中が見えない。私はそういう箱を先に廊下へ出した。軽くて、持ち上げても音がしなかった。四つ目の箱の蓋が浮いたとき、底を片手で持ったまま押さえようとして、傾けてしまった。
茶色や黒い虫が、十匹ほど机へ滑った。
乾いた細い音がして、私はすみません、と箱を置いた。脚が折れたと思った。拾おうとしたら、武井さんが、いいから、と私の手首をつかんだ。怒った声ではなかった。それでも指の力が強く、手が机へ届かなかった。
虫は針で留められていなかった。大きな蛾や甲虫に混じって、小さな蜂に似たものもいた。武井さんは薄い紙を一枚取り、一匹ずつすくった。翅のない虫までいた。そういう傷んだものを入れる箱なのだろうと考え、私は落ちた触角だけでも見つけようと机へ顔を近づけた。
そこで一匹が歩いた。
黒い甲虫だった。脚が左右に三本ずつあって、そのうち二本が途中でなくなっていた。残った脚を使って、机の木目をまたいだ。音はしなかったが、爪が引っかかるたび、身体が小さく持ち上がった。
「生きてますよ」
私は言った。武井さんはその虫の背へ紙を載せ、紙ごと裏返した。脚はゆっくり動いていた。机を探すように何度も伸び、そのまま止まった。
「これには触らなくていい」
武井さんは虫を菓子箱へ移した。
私は部屋の隅を見た。飼っている虫が紛れたのかと思ったが、飼育箱らしい物はなかった。公民館で見せてもらった、乾燥した標本と同じ匂いがした。
「死んでなかったんですね」
「死んでるよ」
武井さんは紙を机へ戻した。
「脚の動くの、見えましたけど」
「それは、見えるね」
冗談を言っている顔ではなかった。私は口を閉じた。知ったようなことを言ってしまったのだろうと思い、次に運ぶ箱へ手をかけた。
今度は、翅のない蛾が動いた。頭の先を机へつけ、身体を起こそうとしていた。私は手を止めて見た。胸のあたりが割れている。乾いた内側に、薄い埃がついていた。そこから糸や小さな虫が出ているわけではなかった。脚は割れ目の両側から、ばらばらに動いた。
「なんで動くんですか」
武井さんは拾っていた紙を置いた。少し困った顔をした。
「分からない。ただ、こうしておくと大人しいんだ」
蛾を裏返し、私から離れた所へ置いた。脚が畳を掻くように空を掻いた。その動きは次第に細かくなり、やがて止まった。
私は椅子から立った。公民館でいつも訊いていたのは虫の名前や、うまく翅を広げる方法だった。分からない、と言われたことがなかったので、どう返せばいいのか思いつかなかった。
「古いのほど、こうなる?」
「古いのも新しいのもあるよ」
「ほかの人の箱でも?」
「それは知らない」
武井さんは少しずつ口数が減っていった。
机の端にいた小さな蜂が落ちた。私は反射的に手を出したが、取れず、畳へ膝をついた。蜂は翅を畳んだまま歩いていた。机の脚の陰へ入ったので、そこへ指を差し出して止めようとした。爪のある足が、指先に載った。ひやりとした。
蜂は私の爪の上まで登った。腹の先が欠け、中が空洞になっていた。指を曲げても飛ばず、関節の溝へ脚をかけた。腕を振って落とすことはできたと思う。けれど、武井さんの目の前でそうするのは、せっかく拾った物を投げ捨てるようで気が引けた。
「取ってもらえますか」
武井さんへ手を出した。その顔が見えたとき、私は自分で払えばよかったと思った。
武井さんは私の指ではなく、手首の先を見ていた。蜂が進もうとするほうを、少しずつ目で追っていた。
「そのままにしてみて」
そう言って机へ肘をつき、顔を近づけてきた。
蜂は手の甲を渡り、袖へ入った。私は腕を下げ、袖口を広げた。指二本を入れてつまもうとしたが、触れるものがなかった。肘を曲げると、内側を細い脚が掻いた。
「服、脱いでいいですか」
「うん。でも、潰さないで」
武井さんは床へ紙を広げた。私が脱いだシャツをそこへ置くと、袖の中を覗き、軽く叩いた。
蜂は出てこなかった。代わりに、私の肘でまだ足が動いた。
半袖の下着になっていた。腕には何もついていなかった。掻かれている所は見えているのに、そこを反対の手で押さえても、手と皮膚の間に何もなかった。引っかかる感じは肘から上へ、ゆっくり移っていった。
武井さんへ見せると、彼は私の腕を両手で持った。袖にいた虫がどこへ行ったか、訊いても答えなかった。指で皮膚を押し、私がそこじゃないと言うと、少し先を押した。
「痛い?」
「痛くはないです」
「なら、ちょっと待って」
私は腕を引いた。
そのとき、机の上で、甲虫が起き上がった。さっき裏返しておいたものだった。二本の欠けた脚の切り口を机へ当て、身体を高く持ち上げた。横の蛾も、片方の翅だけが残った蝶も動き始めた。菓子箱の中から、紙を擦る細かな音がした。
武井さんは箱へ蓋を載せた。蓋の端に虫の脚が挟まり、内側へ引かれた。彼は少し開けて、その脚を紙で押し込んだ。私は脇を締めた。腕の内側を登っていたものが、脇の下へ来ていた。皮膚の柔らかい所をつかまれ、一瞬だけ痺れた。
「これ、どうやって取るんですか」
武井さんは箱を押さえたまま、首を横へ振った。
「まだ、入ったところを見たのは初めてなんだ」
まだ、という言い方だった。
私は机から離れた。背中が棚へ当たり、上の箱がかすかに鳴った。中で硬い物が落ちる音がした。武井さんが私の肩を引いて、棚から遠ざけた。その手はさっきより強かった。
「下で休んで。お茶を入れるから」
私はシャツを取ろうとした。武井さんは紙ごと持ち上げて、もう少しここへ置いてほしいと言った。服を脱いだまま家から出るのは嫌だった。私はシャツをつかみ、返してください、と言った。武井さんはすぐ放した。
階段を下りていると、何かが肩甲骨の間を通った。汗が流れる速さに似ていたが、下へではなく上へ動いた。私は壁へ背中を押しつけた。すると、動きが止まった。ほっとして離れると、また歩き出した。
玄関でシャツを着る間、武井さんは二階から下りてこなかった。上で引き出しを開ける音がした。私は大工さんへ声をかけ、背中に虫がいないか見てほしいと頼んだ。
大工さんは眼鏡をかけ直し、襟の中まで見た。何もいないよ、と言った。私は礼を言い、門へ向かった。背中を指でなぞると、爪の当たる場所より内側で脚が止まった。
そこへ武井さんが追ってきた。小さな紙箱を持っていた。
「これも一緒に持っていってくれないかな」
中を見せようとしたので、私は蓋を押さえた。
「いりません」
「いや、残ったほうなんだ。さっきの蜂の」
彼は箱を少し傾けた。乾いた物が、一つだけ転がった。蜂の身体だと言った。袖から出たのかと訊くと、さっき机の下に残っていた、と答えた。
「じゃあ、今こっちにいるのは何なんですか」
武井さんは私の首を見ていた。
武井さんは蓋を開けた。紙の上に、小さな蜂が横たわっていた。私の指へ登ったものと同じように、腹の先が欠けていた。脚は丸まり、もう動いていなかった。
「これは持っていてもらったほうがいいと思う」
「どうして」
「どうしても、こっちへ戻ることがあるかもしれないから」
「戻ったの、見たことあるんですか」
武井さんは目を伏せた。
私は門柱へ肩を押しつけた。首の付け根で、細い脚が広がった。背中へ手を回しても届かなかった。武井さんは箱を持ったまま、それを見ていた。私が顔を上げると、急いで蜂のほうへ視線を戻した。
「これ、針で留めるんですか」
私は箱の中を指した。
「落ち着いたらね」
「今、やってくれたら、動かなくなるんですか」
武井さんはゆっくり首を振った。
「そういうことは、分からない」
私が何を怖がって訊いているのか、ようやく伝わったらしかった。彼は箱を自分の胸元へ引いた。
「病院へ一緒に来てください」
私は言った。
「それを持って。何を見たのか、話してください」
武井さんは庭の物置を見た。大工さんが板を運んでいた。家を留守にできないと言われるのかと思ったが、彼は、虫の話をしても困るんじゃないかな、と言った。
私は箱を取り上げた。武井さんが、落とさないで、と両手を出した。
落としてやろうと思った。こんなに小さい物を大事にして、私が自分の首を掻いているのは眺めている。箱を地面へ叩きつければ、この人にも少しは困ることが起きるのではないか。
けれど、箱を傾けて蜂が転がった途端、私は水平に戻した。
武井さんは箱の底へ手を添えた。私に持たせたまま、中の蜂を人差し指で裏返した。その指の腹には、黒い粉がついた。
首の脚は止まらなかった。鎖骨のほうへ、ゆっくり下りてきた。
私は武井さんの手を払った。
「その手で、触らないでください」
彼は指を見て、ズボンへ拭った。
「ごめん。服が汚れた?」
私は箱を返した。持っていけば助かるかもしれないと思っていたのに、あの指と同じように扱うことは、もうできなかった。
門の外へ出ると、武井さんは追ってこなかった。足元に何か落ちたらしく、しゃがんでいた。蜂の欠けた脚だった。彼は掌を開き、爪の先ほどの物を慎重に拾った。
私は首を押さえたまま待っていた。武井さんが立ったら、もう一度、一緒に来てほしいと言うつもりだった。
彼はまだ地面を見ていた。一本では足りないようだった。


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