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朝顔をたたむ

理緒が朝顔の花をつまむと、窓の向こうで椅子が倒れた。声はしなかった。薄い紫の花びらを離すと、椅子は元に戻った。祖母の部屋に残っている家具は、もう座卓だけのはずだった。

理緒は指先を見た。花の汁が付いただけで、痛くはない。祖母は台所で水を汲んでいた。今の音を聞いたか尋ねると、聞いたよ、と答えた。いつもの、鍋が鳴ったときくらいの返事だった。

団地は秋に取り壊される。祖母の文代も、駅の向こうの小さな部屋へ移ることになっていた。理緒の仕事場からは近くなる。顔を出しやすい場所でよかったと言うと、文代は、そんなに来なくていい、と笑った。どちらも半分は本気だった。

引っ越しの車は前日のうちに出た。文代は片づけの残った部屋に一晩泊まり、理緒が迎えに来た。今朝は植木鉢と掃除道具を運べば終わるはずだった。理緒は昼からの仕事に間に合うよう、車へ空き箱を積んで来ていた。

ベランダには、朝顔の鉢が三つ並んでいた。古い網へ蔓を這わせ、手摺から上まで広げてある。毎年この場所にあったが、こんなに花がついた年を理緒は知らなかった。内側へ向いている花が多く、部屋を覗いているように見えた。

「種を取って、新しい所でまた植えれば」
理緒が言うと、文代は水差しを置いた。持っていくのは鉢だけ、と答えた。網は外し、蔓は片づけるつもりらしい。それなら水をやる必要があるのかと思ったが、最後だから、と考え直した。

花を閉じると、何かが変わる。もう一度試す気にはなれなかった。理緒は部屋へ入り、窓の前を確かめた。椅子はない。畳に四つの丸い跡があり、そこだけ色が薄かった。幼いころ、文代の足踏みミシンが置かれていた場所だった。

小学校へ上がる前、理緒は夏休みの間ここへ預けられていた。両親が早い時間から働いていたからだ。文代と朝顔へ水をやり、暑くなる前に買物へ行った。思い出すのは楽しいことばかりだが、朝、母を帰さないよう泣いたこともあったらしい。

文代は、その話をよくした。祖母ちゃんがずっとここにいてあげるから、と約束したのだという。理緒には、言ってもらった記憶がない。ただ、網の下で小さな水差しを持ち、母の車が見えなくなるまで待ったことは覚えていた。

窓へ戻ると、部屋の座卓が低く見えた。祖母が使っていた物より、さらに小さい。縁に赤い紙が貼られていた。昔、理緒が切って貼った折り紙だった。畳の上に子供の片膝が見え、その膝の向こうを、若い文代の足が通った。

理緒は窓から顔を離した。玄関側へ回り、部屋を見た。座卓は元の高さで、膝もなかった。ベランダの朝顔が、一つだけ大きく揺れていた。風はなかった。花の奥で、小さな子が、まだ行かないで、と言った。

文代が水差しを手に戻ってきた。理緒は子供の声を聞かせようとしたが、花は黙っていた。文代は鉢の土を触り、水を少しずつ注いだ。水は乾いた土へ染み、窓の向こうで、誰かが湯呑みを机へ置いた。

「ずいぶん長く、夏が残っちゃったね」
文代は言った。最初からこんなだったわけではない。何年か前、花の間に、昔のミシンが見えた。懐かしくて、その場所の花だけ残した。咲き終わるのを惜しんでいるうち、隣の花にも違う年の部屋が出たという。

理緒はその年にはもう成人していた。文代の所へ来る回数も減っていた。夏の家族旅行の写真を送ったことはあったが、祖母のベランダのことなど尋ねなかった。文代は、それを責める調子ではなかった。水差しの底を拭いている。

「夜には萎むんじゃないの」
「私も、そう思ってた」
文代は花に触れなかった。去年から、閉じない花が混じり始めた。鉢を動かしても花だけが同じ場所へ残り、蔓が長く伸びた。窓の内側へ入ってしまった花もあったそうだ。

理緒は網の上の方を見た。花がサッシを挟むように咲いていた。一輪は窓を閉めても潰れず、ガラスの向こうへ半分出ている。花びらの間に、細かい黒い線があった。虫の脚だと思ったが、揃えて脱いだ人の靴だった。

文代は蔓を切るための鋏を出した。理緒は受け取り、手摺に絡んだ一本を切った。花は落ちなかった。切った蔓の端が、理緒の手首を追って伸びた。理緒が身を引くと、網全体が前へ出てきた。部屋の中で、いくつもの椅子が一度に鳴った。

鋏を置いた。蔓は動きを止めたが、網は手摺から離れたままだった。花の間に、若い父の横顔が見えた。どの窓を通して見るより近かった。父は電話を耳へ当て、誰かへ謝っている。理緒が知らない夏の朝だった。

父は今も生きている。母と一緒に、遠くで暮らしている。理緒は、昨日も電話した相手の横顔を見て、ぞっとした。死んだ人に会う場所ではない。知らないうちに、ここへ置かれた自分たちの一日があった。

花が狭くなった。父の頬が薄くなり、鼻と耳が近づいた。けれど口は、同じ調子で動き続けている。理緒が花びらを広げると、父の顔は戻った。声だけが、潰されたままの高い音でしばらく残った。

「閉めていいの」
理緒が尋ねると、文代は、それが分からなくなった、と答えた。誰かが中にいると思うと、閉じられない。けれど一つ残すと、翌年には別の花が増えた。今朝は、自分の服まで窓の中へ出ていたらしい。

理緒は祖母を見た。着ている夏物のブラウスは、窓の向こうに掛かっている物と同じだった。文代が腕を上げると、向こうの袖も持ち上がった。ハンガーなど使っていない。誰も着ていない服が、祖母の動きを待っていた。

理緒は文代の手を取り、玄関へ向かった。文代も歩いた。ところが部屋の真ん中で、祖母の左袖だけがベランダへ戻った。腕は理緒の手の中にある。肩から手首までの布が細く伸び、窓枠へ挟まっていた。

引っ張ると、文代が痛いと言った。理緒はすぐに止まった。布をたぐると、袖の中から祖母の指が何本も出た。今握っている手とは別の、若く、丸い指だった。どれも爪の間に土が付いていた。

文代は自分で窓へ戻り、袖を元へ寄せた。余った指は布の中へ畳まれた。理緒はしゃがみ、祖母の腕へ触れた。骨も皮膚も普通だった。ただ、ブラウスの縫い目に、小さな白い花びらが一枚挟まっていた。

新しい部屋へ鉢を持っていけば、あの夏もついてくる。置いていけば、祖母がここに残される。理緒はそう考えて、文代へ言った。文代は、鉢は持っていくよ、と答えた。長く使った鉢だから、と。中に誰がいるかより、鉢の縁の欠けを気にしていた。

理緒は仕事先へ電話を入れた。迎えが長引いているので、出勤を遅らせてほしいと頼んだ。電話の間、花は静かだった。切ったあとで、窓の中に小さな自分がいると気づいた。幼い自分も何かを耳へ当て、同じ口の動きをしていた。

文代が網の下の留め具を外した。上から剥がせば、部屋ごと倒れてきそうだった。下から少しずつ丸め、花を網の内側へ入れていく。昔、簾を片づけたときと同じような手つきだった。理緒も隣にしゃがみ、片側を持った。

最初の花が閉じた。ミシンの椅子が窓の下へ倒れ、そのまま薄くなった。白い糸が床の上へ広がり、花びらの筋と重なった。文代は目を伏せたが、網を戻してくれとは言わなかった。

次の花の中には、夕飯を食べる家族がいた。朝顔の中は朝とは限らなかった。母が箸を持ち、理緒が嫌いな物を皿の端へ寄せている。閉じていく花の隙間で、母が顔を上げた。見ているのは理緒ではなく、祖母の手だった。

文代は一度だけ手を止めた。巻いた網の中から、茶碗を置く音がした。理緒にも、その続きを見たい気持ちがあった。母が何を言い、祖母がどう答えたのか。そう思った途端、足元に紫の花が一つ開いた。

理緒はそれを踏まないように避け、網の方へ向き直った。見たいから戻す、という動作を一度すれば、文代は今朝も出られなくなる。巻いたところを片手で押さえ、もう片方を祖母の側へ伸ばした。

花を閉じるたび、部屋の奥行きが変わった。天井が低くなり、窓の下に昔の畳が出た。そこへ現在の、家具を運んだ跡の畳が重なった。父の足も、母の指も、その間へ薄く挟まっていった。誰かが強く息を吐き、次の息を吸う前に花が閉じた。

文代のブラウスが弛んだ。窓の中にあった服が消え、背中へ布が戻った。祖母は肩を回した。理緒は安心しかけたが、祖母の唇に細い紫の筋が入っていた。閉じた花と同じ色で、口の端だけが小さく折れていた。

最後に残ったのは、理緒が泣いていた朝の花だった。小さな水差しを足の間に挟み、母の車を見ている。文代があやしている声も聞こえた。ずっとここにいる、と、向こうの祖母は繰り返していた。

理緒は、もう大丈夫、と言いかけてやめた。花の中の子供はまだ大丈夫ではない。今の自分の言葉を聞かせても、母のいなくなった朝が変わるわけではなかった。祖母がいてくれたことも、なかったことにはできない。

文代が水差しを持ち上げた。残っていた水を、花の下の土へ注いだ。理緒は花びらへ指を添え、内側へ寄せた。向こうの文代が子供の肩を抱いた。その二人の背中を、網の中へゆっくり畳んだ。

泣き声は細くなり、最後は水が土へ入る音だけになった。文代は水差しを置いた。口元の紫の筋が消え、少し血が滲んでいた。理緒がハンカチを出すと、文代は自分で拭いた。窓の中には、今朝の空いた部屋があった。

文代が蔓の根元へ鋏を入れた。今度は切れ端がついてこなかった。網と鉢を離してから、二人は鉢を車へ運んだ。蔓を巻いた網は、管理を頼んでいる会社へ事情を説明するまで、部屋の隅に残した。文代は鍵を閉める前に、網へ布を掛けた。中から呼ぶ声は聞こえなかった。布の下は、花が入っているにしては平らだった。

新しい部屋の窓辺へ、鉢を三つ並べた。文代は種を取りたいと言い、理緒は、落ち着いてからにしようと答えた。鉢の土に短い蔓が一本残っていた。花はなく、葉が二枚だけ付いている。

昼を過ぎ、理緒が帰ろうとすると、文代がその蔓を見ていた。葉の下から、小さな手が出ていた。子供の手ではなかった。爪の長い、骨ばった手が上を向き、二人の知らない皺をいくつも作っていた。文代は何も言わず、空の水差しを理緒へ渡した。

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