奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

中身は無事です

泊まった宿の廊下は、鞄を引いて歩けないようになっていた。板の継ぎ目ごとにわずかな段差があり、私の小さなキャリーケースでも、三歩に一度は車輪が引っかかった。前を行く男の人は、黒い布を掛けた大きな鞄を両腕で抱えていた。

「持って上がればよかったですね」
私が言うと、男は立ち止まった。
「引けるだけ、そっちのほうがいいですよ」
苦笑して、廊下の角へ消えた。私は自分の荷物を持ち上げ、教えられた部屋へ入った。

三十七歳になった年の、九月の旅行だった。有休を金曜日に一日つけ、知らない町で二泊する。それだけの予定を、私は夏のうちから楽しみにしていた。歩いて気に入った所に寄ればいいと思っていたが、初日は昼から雨になった。

宿は駅から少し離れた商店街の裏にあった。夕食は出ない。代わりに入口の棚へ、近くの店の献立が置いてあった。一枚を眺めていると、さっきの男が同じ紙を取った。
「そこ、今日は休みです。行ってきました」
男は濡れた肩を指した。それで一緒に、角の中華料理店まで歩いた。

名は上原さんといった。楽器や古いオルゴールの修理をしていて、この辺りの店から、ときどきまとめて仕事を受けるのだそうだ。今回は引き取りで来ていた。私が一人旅だと言うと、いいですね、と言ったきり、それ以上は聞かなかった。相席で食べたあと、勘定は別々にした。

部屋で髪を乾かしていると、何かを細かく砕く音が聞こえた。煎餅を袋の上から潰すような音だった。ドライヤーを切っても止まらない。壁からではなく、戸の下から入ってきた。

廊下の角で、上原さんが鞄を床から離そうとしていた。こちらに背中を向け、中腰で両側の持ち手を引いている。
「お手伝いしましょうか」
その言葉に振り向いた顔を見て、私は足を止めた。

鞄の下から、畳の藁に似たものがはみ出していた。そこは板張りだった。男が鞄を横へずらすと、床に浅い窪みが現れた。木目に沿って割れたのではない。小指の爪ほどの丸い跡が、隙間なく並んでいた。

「傷をつけちゃったんですか」
「いま、下ろしたばかりで」
上原さんは鞄をまた持ち上げた。底には黒いゴムの脚が四つついていた。その脚と脚の間から、黄色い木屑がこぼれた。

私が宿の人を呼びに行こうとすると、上原さんが、ちょっと待って、と言った。持ち手を片方ずつ手首へ掛け直し、鞄の底を膝で支えようとした。
布のズボンに、横一列の小さな穴が開いた。
上原さんは膝を引いた。鞄が落ちるより先に、その場を飛び退いた。

底が床に当たり、砕く音がした。黒い革の縫い目は閉じていた。そこから床が削られ、木屑が鞄の下へ吸い込まれていく。噛んでいるものは見えなかったが、一口ずつ、という進み方だけはよく分かった。

宿主は石垣さんという、六十前後の女性だった。私の話を聞くと、流しで洗っていた手を拭きながら来た。
「下へ敷いてくださいって、言いましたよね」
上原さんの部屋から、畳んだ毛布を持ってきた。私が止めるのと、石垣さんが毛布を鞄の下へ押し込むのが一緒になった。

毛布の端が動いた。石垣さんの手を離れ、折り目が一つ伸びた。
「引かないで」
私が言うと、彼女は両手を上げた。
毛布はまだ動いていた。袋へ入れるときのように細く寄り、鞄の下へ潜っていく。上原さんが持ち上げても、布は底から垂れたまま縮んでいった。途中に入っていた宿の名前が、二文字ずつなくなった。

「何、入れてるんですか」
石垣さんの声は低かった。
「仕事の物です」
「生き物じゃないんですか」
上原さんは首を振りながら、革の留め金を外した。

口の広い鞄だった。左右へ開いた縁の内側に、白い粒が並んでいた。金具かと思ったが、一つ一つに窪みがあり、濡れた茶色い付け根が見えた。
奥歯だった。
人の口で見るより小さいものも、幅の広いものもあった。それぞれが隣の歯と違う向きへ動いていた。

上原さんは取っ手を放さなかった。鞄を吊ったまま、身体だけ遠ざけている。歯の下に、布を巻いた四角い包みが三つと、工具を差した革の巻物があった。まだ何も噛み取られていないように見えた。

「中身は無事です」
上原さんが言った。
誰に向けて言ったのか、分からなかった。石垣さんは廊下の窪みを見ていた。上原さんの足元では、床板が薄くなった所から、下の暗がりが細くのぞいていた。

「玄関に下ろしましょう。タイルなら」
私はそう言った。自分の部屋へ入るたび、ここを通らなければならなかった。上原さんが持ち上げたままなのも見ていられなかった。石垣さんが玄関へ先回りし、傘立てをどけた。

私は空の持ち手に丸めたバスタオルを通し、上原さんと左右に分かれて運んだ。手が鞄の縁へ寄らないよう、タオルの両端をまとめて握った。階段では上原さんが下になった。踊り場で向きを変えるとき、鞄が壁へ触れ、白い塗料が薄皮のように剥がれた。

タイルへ下ろしたとたん、底で硬いものが割れた。石垣さんが私たちを見た。私は、すみません、と言った。
タイルの角が鞄へ引き込まれた。すぐ脇には、傘をどけた跡が濡れて残っていた。上原さんが歯を食いしばって持ち上げると、灰色の破片が一つ、底から落ちた。

「持ったままでいて」
石垣さんはそう言って奥へ戻った。重い物を受けられる台を探しているのだと思ったが、戻ってきた彼女は、古い座椅子を抱えていた。背板に大きな染みがあった。
「これなら、もう使いません」

座面の上へ鞄を置いた。張った布がすぐに裂けた。上原さんは手を離し、壁へ片肘をついた。私もタオルを抜き、濡れた掌をズボンで拭いた。
石垣さんは座椅子の背を押さえたまま、これも食べるの、と言った。今度は誰も答えなかった。

「中の物を、先に出します」
上原さんが言った。私は思わず、そんな場合ですか、と返した。
「預かってきたんです。自分のなら、いいですけど」
彼は鞄を開き、歯のない所へ指を探した。私はその手を止めず、内側の布を見た。焦げ茶色の裏地だった。口の縁だけでなく、底の角にも白いものが出始めていた。

上原さんは、石垣さんが持ってきた火ばさみで、工具の巻物の端を挟んだ。引くと、革が伸び、歯が一本倒れた。歯の先は巻物に刺さっていた。
すぐ引くのをやめ、火ばさみを外した。
「工具は、いいです」
布の包みを挟み直した。

一つ目はすぐに取れた。石垣さんが流しから持ってきた盆へ置き、布を開いた。小さな木の箱だった。上原さんが蓋を持ち上げると、内側に細い金属が並んでいた。蓋の裏には、丸い鏡がついていた。

「オルゴールですか」
「三つとも。箱は直さないでくれって言われてるんです」
上原さんは布を掛け直した。二つ目の包みを出す間、石垣さんが盆を抱えた。座椅子の布の中から、丸まった綿が少しずつ出てきた。私の足に触れそうになり、靴の先で遠ざけた。

最後の包みは、持ち上げると鞄もついてきた。
上原さんは火ばさみの先を差し込み直した。包みの布はすでに裂けていて、赤い箱の角が出ていた。その角を、内側の歯が二本、上下から押さえていた。

「もう、それは」
石垣さんが言いかけた。
「これだけ置いていけないですよ」
上原さんは彼女を見ずに言った。鞄の底で、工具同士がぶつかった。細い柄が短くなっていくのが見えた。上原さんはそちらには手を伸ばさなかった。

私は部屋から、着替えの下に敷いてきた厚い紙袋を取ってきた。石垣さんが持つ盆へ広げ、二つの箱をその上へ並べた。上原さんが三つ目を引き抜いたとき、赤い塗装が爪ほどの大きさで剥がれた。白い歯も一緒についてきた。

「ついてます」
私が言うと、上原さんは箱を盆へ載せ、火ばさみを持ち直した。
赤い箱の角から生えたように、歯が一本突き出ていた。先を挟んで動かすと、箱全体が動いた。根は見えなかった。欠けた角の奥へ、白いものが続いていた。

上原さんは箱を横にした。歯が紙袋を挟んだ。
歯は一本しかないのに、下から噛み合わせるものがあった。紙に二つの穴が開き、間がなくなった。私は慌てて、残りの二つを盆の反対側へ寄せた。

その箱の一つからも、歯が出ていた。
蝶番のすぐ横だった。布を巻いていたときには見えない場所にあった。もう一つを上原さんが裏返すと、底の四隅に、小さな白い先がのぞいていた。

石垣さんが盆を床へ置こうとした。
「待って」
私は盆を反対側から支えた。石垣さんが玄関脇の机から物を払い、そちらへ載せた。もう、座面の半分がなくなっていた。鞄はそこへ深く沈み、工具の巻物を外へ吐き出しかけていた。革だけが細く残り、差してあった道具の形が一つも残っていなかった。

上原さんは、裸になった三つの箱を順に見た。
「せめて、箱だけでも」
そう言って、最初の箱を抱え直しかけた。石垣さんが、置いて、と言った。彼は従った。
「直す人なんでしょう」
「音の出るところをです」

その返事が、妙に小さく聞こえた。上原さんは濡れたシャツの裾で、火ばさみを拭いていた。私は鏡のついた箱を見た。今なら、まだ使えそうだった。蓋の表には花が描かれ、長く触られた縁だけが白くなっていた。

「外からは、分かりませんけど」
私が言うと、上原さんはこちらを見た。
「分からないまま、渡しますか」
責める声ではなかった。私の返事を待っていた。
「渡せないです」
言ってから、私は紙袋を箱の下から引き抜いた。噛み取られた角を切り離し、まだ無事な広いほうを、上原さんの前へ置いた。

石垣さんは玄関脇の物入れを開け、金槌と平たい鉄の棒を出してきた。上原さんはそれを受け取ると、鏡のついた箱へ先端を差し込んだ。
木が割れた。蓋に細い亀裂が走り、鏡が二つに分かれた。
私は目をそらしたが、すぐに戻した。上原さんが次にどこを押さえるかを、見ていなければならなかった。

箱の中の金属を持ち上げても、歯は木のほうに残っていた。割れ目へ鉄の棒を差し、歯の根元を避けて木を剥がしていく。赤い箱も、その隣の箱も壊した。傷つけずに預かった三つが、盆の上で同じような木片になった。

鞄の中では、残った革がゆっくり動いていた。石垣さんは玄関の内側に椅子を立て、ほかの客が踏み込まないようにしていた。盆の端を押さえていると、金槌が振られるたび、細かな塗装の欠片が袖へ積もった。

一本の歯が、木片から抜けた。
上原さんは火ばさみで挟み、紙袋へ落とした。小さな根が三つに分かれていた。その先がそれぞれ曲がり、紙を挟もうとしていた。石垣さんが持ってきた空き缶へ、紙ごと滑らせた。

私は次の木片を盆の真ん中へ寄せた。花の絵が半分ついていた。上原さんは一度だけそれを裏返し、白い歯が出ているほうを上にした。
「押さえてもらえますか。そこは、もう割れていいので」
私は紙袋の残りを畳み、花の上へ重ねた。鉄の棒が入る場所を空けて、両手で強く押さえた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました