わしは今年で七十四になる。
菰野の小さいタクシー会社で、夕方の番をしとる。
四日市の工場をやめてから乗りはじめたで、もう三十年あまりや。
夕方の持ち場は、近鉄の湯の山温泉駅や。
湯の山線の終点で、線路はそこで行き止まりになっとる。
改札を出たら、すぐ目の前がタクシーの乗り場。
右手には、バスのりばと観光の案内所。
四日市から車で来る人は、湯の山街道を上がってくる。
電車で来る人は、この駅でバスかタクシーに乗りかえる。
温泉街までは、バスで十分ほどの道や。
宿へ上がるお客を乗せて、帰りは空で下りてくる。
十一月の半ばは紅葉の客で、夕方がいちばん忙しい。
ロープウエイの下りの最終が五時二十分やで、その前後に電話が重なる。
湯の山は、御在所の東の麓や。
そやで、日は山の向こうへ早よ落ちる。
五時前にはもう、温泉街の上の空だけが明るい。
窓を閉めとっても、三滝川の音が少し聞こえる。
あと一月もしたら、街道の先のスカイラインは雪で閉まる。
温泉街の少し手前の道端に、四角い灰色の建物がひとつ。
もとは鶯花荘という旅館の、従業員の寮やったと聞いとる。
道に向いた窓は、ぜんぶ板で目隠しや。
板には貼り紙がしてあって、警察と地元でパトロールをしとると書いてある。
割れたガラスの縁に、枯れた草がかぶさっとる。
孫が携帯で見せてくれたら、鶯花荘寮という名前で、心霊の場所として載っとった。
夜になると、たまに若い子の車があの前に止まっとる。
わしは、あれが好かん。
あそこで止めてくれと言われても、うちの会社は止めんことにしとる。
わしも、あの前はいつも素通りや。
日報をきちんと書くのが、わしの自慢や。
乗った所、降りた所、時刻、人数、料金。
長いこと、一行残らず自分の字で埋めてきた。
その週の月曜、わしの二号車が車検に入った。
代わりに回ってきたのが、六号車や。
エンジンもタイヤも、うちでいちばん具合がええ。
後ろの座席には、洗いたての白いレースのカバーがかけてある。
それやのに、夕方に上へ行く者は、誰もこれに乗りたがらん。
六号車は、昼の病院の送り迎えばっかりや。
使える車が、夕方だけ、使われんまま車庫で寝とる。
鍵をくれたのは、配車の芳江さんや。
わしより三つ上で、会社ではいちばんの古株になる。
「上へ行くんやったら、暗なる前に下りといで」
芳江さんはそれだけ言うて、無線のほうへ向き直った。
わけは聞かんかった。
聞いても、言わん人や。
月曜は、ふつうに終わった。
一つだけ、乗りこんだときにルームミラーが下を向いとった。
後ろの座席の、座面のあたりが映る角度や。
前に乗った誰かが、そうしとったんやろ。
わしの目の高さに直して、それきりや。
火曜の夕方、四時半過ぎの電車で着いた夫婦を、温泉街の宿まで送った。
「あの板を打った建物、なんですか」
上る途中で、奥さんが聞いてくる。
「昔の、旅館の寮ですわ」
奥さんは、ふうん、と窓に顔を寄せとった。
宿の前で降ろして、空車で下りにかかったんが四時五十分や。
寮の前に来たとき、なんとなく二階を見上げた。
板でふさいだ窓の外に、誰か立っとる。
板にぴったり背中をつけて、人の形がひとつ。
足がどこにあるのか、下から見上げても分からん。
窓の下には、灰色の壁が地面まで続いとる。
片方の手を、肩の高さに挙げとった。
顔のところは、板の影に沈んどる。
なんや、あれ。
ブレーキを踏みかけて、やめた。
車は、そのまま寮の前を過ぎる。
ミラーに映っとるのは、灰色の壁と黒っぽい板や。
板の継ぎ目の影やろ、と思った。
破れたシートが、風で引っかかっとったんやろ。
七十四の目や。
夕方の目は、あてにならん。
駅へ戻って、水筒の茶を一杯飲んだ。
乗り場には、うちの若い松井が先に並んどった。
六号車を見て、松井の目が丸うなる。
「それで上、行ったんすか」
「行ったで」
松井はそれきり、自分の車に戻ってドアを閉めた。
水曜も、同じような時刻に上へ行った。
宿でお客を降ろして、下りにかかったんは四時五十五分。
窓を少しあけとったで、冷えた風に落ち葉の匂いがまじっとった。
寮が見えてきたとき、わしは先に二階を見た。
窓の外は、板ばっかりや。
ほっとして目を道へ戻したら、道端におった。
寮の前の、草の切れ目のとこや。
人の形が立って、片手を挙げとる。
車を止めてほしいときの、あの手の挙げ方や。
肘から先が、泥の色をしとる。
三十年もやっとると、手を挙げた人を見たら、足が先にブレーキへいく。
右足が勝手に浮いて、ブレーキに乗った。
止まる前に、わしは足をアクセルへ戻した。
あそこでは止めん。
決めごとを口の中で言うて、前だけ見て通り過ぎた。
横を過ぎるとき、泥の色が窓の端をかすめた。
ミラーの中は、暗い道が一本延びとる。
駅の乗り場に戻ったんが、五時五分。
前には、うちの車が二台並んどる。
わしの番が来るまで、まだだいぶある。
ヒーターをつけたまま、シートを少し倒した。
目をつぶると、さっきの手の形がまぶたの裏に浮かぶ。
気がついたら、体が動かんようになっとった。
胸の上に、冷えた座布団を何枚も重ねられたような重さがある。
目は開いとるのか、閉じとるのか、自分でも分からん。
外で、足音がしとる。
ぺた、ぺた、と濡れたもんがアスファルトを踏む音や。
音は運転席の横から、後ろへ回る。
トランクの後ろを通って、左の側へ。
助手席の前を通って、またわしの横へ戻ってくる。
それが、二回、三回と続いた。
声を出そうとしても、喉がひきつれるばっかりや。
指一本、動かせん。
四回目の足音が、運転席の窓のすぐ横で止まった。
窓の下の端に、何かがかかる気配。
電車がホームに入ってくる音で、体がほどけた。
時計は、五時三十八分。
メーターの表示が、迎車になっとる。
寝とるうちに、手が当たったんやろ。
空車に戻して、外へ出た。
車のまわりを、ぐるっと見て回った。
ドアの取っ手に、乾きかけた泥がついとる。
運転席も助手席も、後ろの二つも、四つ全部にや。
一周しながら、順番に引いて回ったみたいに。
駅前で遊んどった子のいたずらやろ、と思うことにした。
雑巾で拭いて、その晩は下の町へ行くお客だけを三組運んだ。
家で風呂に入っても、指先に泥の冷たさが残っとる。
体が動かんあれを、孫は金縛りやと言う。
木曜は昼に出た。
事務の高木くんに頼んで、前の日のドライブレコーダーを見せてもろた。
高木くんは二十五で、機械のことはみんなこの子任せや。
うちの車には、前と車内と、カメラが二つ。
エンジンがかかっとるあいだは、ずっと撮っとる。
五時十分過ぎの画面に、わしが映っとった。
口を半分あけて、首をかしげて寝とる。
自分の寝顔を見るのは、あれがはじめてや。
五時二十分ごろ、車内のカメラに映る窓の端を、何かが横切った。
窓の下のほうを、泥の色をした頭のてっぺんと、肩だけが通っていく。
腰を曲げとるのか、そういう背丈なのか、そこまでは分からん。
前のカメラの画面にも、ボンネットの先を同じ色が横切る。
後ろへ回って、また前へ。
数えたら、三回、車のまわりを回っとった。
「猿ですかね」
高木くんが、画面に顔を寄せる。
「山から下りてきた、けものやろ」
わしも、そう言うた。
四回目で、それは運転席の窓の横に止まる。
窓の下の端に、泥の色の指が四本かかった。
そのとき、画面の中のわしの左手が、すっと上がった。
目は閉じたままや。
左手はメーターまでまっすぐ伸びて、ボタンをひとつ押した。
表示が、迎車に変わる。
指が窓から離れて、画面の外へ出ていく。
高木くんは黙って、再生を止めた。
「この動画、消さんと残しときますね」
わしは、自分の左手を右手で握っとった。
止まった画面の中で、わしは口をあけて寝とる。
事務所の奥では、芳江さんがお茶を飲んどる。
六号車で前に何かあったんか、と聞いた。
芳江さんは湯呑みを置いて、ちょっと笑うた。
「そういうことやわ」
それだけや。
誰が、何を、とは言わん。
顔は、天気の話でもするときのままや。
芳江さんの目は、もう無線のほうへ戻っとる。
寝ぼけた年寄りの手や。
わしは、そう決めた。
昼過ぎ、車庫で六号車の取っ手を、また一つずつ拭いた。
後ろの白いカバーも、皺を伸ばしてかけ直す。
ほかの車は、どれも出払っとる。
その日は、なるべく上へ行かんつもりでおった。
けど、乗り場の列は順番や。
四時五十分の電車で、宿へ上がる三人連れが降りてきて、先頭のわしの車に手を挙げた。
並んどって客を断るわけには、いかん。
三十年、そうやってきた。
上りで、寮の前を通った。
二階の窓は、板のまま。
道端では、枯れた草が風に揺れとる。
後ろの三人は、明日の朝に見る紅葉の話をしとった。
宿で三人を降ろして、五時五分に下りにかかった。
暗なる前に、という芳江さんの声が、耳の奥に残っとる。
日はもう、御在所の向こうや。
ライトをつける。
寮が見えてくる。
二階の窓を見た。
板だけや。
道端を見る。
草の影が、ライトの中で長う伸びとる。
息を吐いて、寮の前を過ぎた。
ぴっ、とメーターが鳴った。
表示が、空車から賃走に変わっとる。
わしの両手は、ハンドルの上や。
前の窓の表示も、外から見たら賃走になっとるはずや。
「どちらまで」
口が勝手に、いつもの文句を言うとった。
返事のかわりに、後ろで濡れたもんが擦れる音。
わしは、ルームミラーを見た。
左の後ろ、助手席の真後ろに、何か座っとる。
頭が、ヘッドレストよりだいぶ低い。
泥の色をした肩と、膝のあたりだけがミラーに入る。
顔のところは、ちょうどミラーの縁にかかっとる。
車の中に、濡れた土と川の匂いが広がった。
わしは、ミラーから目をはずした。
止めたら、あれと二人で、暗い山の道に残される。
駅まで行けば、明かりも人もある。
それにわしは、乗せた客を途中で降ろしたことが、一回もあらへん。
手と足が、いつもの癖で、車を駅のほうへ運んどった。
後ろで、座り直すような音がした。
濡れた布を押したような、ぐしゅ、という音や。
ヒーターは強くしてあるのに、首の後ろだけが冷たい。
対向車のライトが、こっちの車の中を照らした。
見んつもりでも、ミラーの端に、泥の色の膝が一瞬だけ白く浮いた。
外の暗がりが、窓の両側を流れていく。
メーターの数字だけが、いつもどおりに上がっていく。
五時十五分、駅の乗り場に着いた。
改札の明かりが、ボンネットに映っとる。
わしは前を向いたまま、支払のボタンを押した。
千二百八十円。
それから、癖で、手がドアのレバーを引いた。
後ろのドアが開く。
外の冷たい風が入ってくる。
車が、ほんの少し浮いた。
後ろの重みが抜けたときの、あの浮き方や。
わしはレバーを戻して、ドアを閉めた。
電車から降りてきた人が何人か、車の横を通っていった。
誰も、こっちを見ようとせん。
ハンドルを握った指の節が、白うなっとった。
無線のマイクに手を伸ばしたら、その手が震えとる。
振り向いたんは、だいぶたってからや。
後ろの座席は、空いとった。
白いレースのカバーに、膝をそろえて座ったくらいの、小さい泥のあとがある。
釣り銭のトレーには、千円札が二枚。
四つに折って、泥で湿っとる。
わしはしばらく、お釣りの七百二十円を手に持ったまま座っとった。
渡す相手は、もうどこにもおらん。
その晩、芳江さんに話した。
芳江さんは泥のついた札を見て、ちょっと眉を上げただけや。
「売上は売上や、日報に書いとき」
そう言うて、湯呑みに茶を足した。
日報の欄を、わしは一つずつ埋めた。
乗車、五時八分、鶯花荘寮の前。
降車、五時十五分、湯の山温泉駅。
料金、千二百八十円。
人数の欄で、ペンが止まる。
しばらく考えてから、わしは一と書く。
金曜に二号車が戻ってきて、六号車はまた昼の病院の送り迎えに回った。
後ろの白いカバーは、その日のうちに新しいのと替えられた。
夕方に六号車で上へ行く者は、今も誰もおらん。
わしはあれからも、寮の前を何べんも通っとる。
窓の外も道端も、板と草のままや。
残っとるのは、紙と映像と、泥の札だけや。
高木くんは、水曜と木曜の二日分の動画を、事務所のパソコンに入れたままにしてくれとる。
木曜の分は、金曜の昼に二人で見た。
メーターは五時八分に、ひとりでに賃走へ変わる。
後ろの座席は、駅に着くまでずっと空いとる。
走っとるあいだに、白いカバーの泥のあとだけが、少しずつ濃くなっていく。
泥の札は、自分の二千円と替えて、封筒に入れてロッカーにしまった。
封筒の底で、乾いた泥が砂のようになってきた。
札の端には、小さい指のあとが、泥のまま乾いとる。
日報の写しは、会社の棚に綴じてある。
五時八分、鶯花荘寮の前。
人数、一。
わしの字や。
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