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秩父湖の吊り橋、返事をするな

秩父の山で日が落ちると、国道百四十号は一本の暗い廊下になる。
達也はハンドルを握り直した。
助手席の千尋は、窓の外の黒い斜面を見ている。
三峰口の駅を過ぎてから、対向車は二台しか来ていない。

「ここから先、カーブが続くよ」
千尋が言った。
「ばあちゃんの家、まだ先?」
「家はもうないって。湖の底」
笑う声ではなかった。

荒川を堰いた二瀬ダムの堤体が、ヘッドライトに白く浮いた。
その上の細い道を渡ると、右手に水の気配が広がった。
見えはしない。
ただ、空気が湿って、一段冷たくなる。
秩父湖だ。

千尋の祖母は、去年の冬に亡くなった。
毎年ひとりで秩父へ通っていた人だ。
今年から、千尋がそれを引き継ぐ。
達也が同行を頼まれたのは、ひと月前になる。
断る理由はなかった。
妻の家の決まりごとに、初めて入れてもらう。
それが少し誇らしくもあった。
達也の実家は、埼玉の平野の建売住宅だ。
家の決まりごとなど、年末の大掃除くらいしかない。
山の家の約束事というものを、見てみたかった。

宿はダムを渡ってすぐの、湖に沿った大滝の集落にあった。
民宿と名乗るには小さい、二階建ての木の家だ。
女将は七十を越えている。
腰は曲がっていない。
玄関で千尋の顔を見て、ああ、と一言だけ言った。
「おばあさんの、お孫さんね」
千尋は深く頭を下げた。

夕飯は囲炉裏ではなく、灯油ストーブの脇の座卓だった。
岩魚の塩焼きと、こんにゃくの味噌田楽。
達也はビールを一本だけ飲んだ。
明け方に起きると聞いている。

「それで、何をするの」
箸を置いて聞いた。
千尋は湯呑みを両手で包んだ。
「湖のそばで歌うだけ。三番まで」
「歌」
「わらべ歌。ばあちゃんが毎年やってた。水が上がった日の明け方に」
「歌うのは私だけ。達也は横にいて」
水が上がった日、というのはダムの水が集落を呑んだ日らしい。
六十年以上前の話だ。

「決まりは二つ」
千尋が指を立てた。
「歌い出したら、三番まで止めない。途中でやめたら、一番からやり直し」
「もう一つは」
「呼ばれても、返事をしない」
達也は笑いかけて、やめた。
千尋の目が笑っていない。
「誰に呼ばれるの」
「知らない。ばあちゃんもそこは言わなかった」

女将が味噌汁を運んできて、座卓の端に置いた。
置いたまま腰を上げずに、小さく鼻歌を鳴らした。
千尋が顔を上げる。
「それ」
「歌うんでしょ、明日」
「はい。でも、今の節、知らない」
「四番だよ」
女将は、湯気の向こうで笑った。
「四番は歌わなくていい。三番まででいいの」
「ばあちゃんは三番までしか教えてくれませんでした」
「じゃあ、三番まで」
女将は盆を抱え直した。
「橋は渡らないでね。あれは今、渡る橋じゃないから」
「はい」
それだけで、女将は台所に引っ込んだ。

達也は千尋の横顔を見た。
「四番、あるんだ」
「初めて聞いた」
千尋は湯呑みを置いて、もう何も言わなかった。
ストーブの上の薬缶が、細く鳴っている。

二階の部屋は六畳で、窓の下が駐車場だった。
畳が新しく、藺草の匂いが強い。
車の屋根が、外灯に濡れて光っている。
千尋が窓を開けて、湖の方角を見た。
「橋、見えるかな」
「暗くて無理だよ」
窓を閉めても、水の匂いだけは部屋に残った。
布団に入ったのは十時前だ。
山の夜は早い。

二時を少し回った頃、目が覚めた。
廊下で、ベルが鳴った。
一度だけ。
古い電話の、金属の音だ。
達也は天井を見たまま待った。
二度目は来ない。

小便に立った。
廊下の突き当たり、階段の上に、ピンク電話が置いてある。
昔の店先にあったやつだ。
受話器は、ちゃんと乗っている。
本体の側面に、黄ばんだ紙が貼ってあった。
筆で、下沢、とだけ書いてある。
屋号だろう。
達也はそれ以上見ずに、便所へ行った。

布団に戻ると、千尋が目を開けていた。
「鳴ったね」
「古い電話だから」
「うん」
千尋は背中を向けた。
達也は寝入るまで、廊下の方を向いていた。

四時に起こされた。
千尋はもう着替えている。
黒いダウンに、首まで巻いたマフラー。
達也もフリースを重ねた。
窓の外はまだ真っ暗だ。

階段を下りると、台所に灯りが点いていた。
女将が立っている。
「行くの」
「はい」
「気をつけて。足元が暗いから」
それから、達也の方を見た。
「夜中、電話に出てくれたでしょう。はい、って声がしたから、起きなくて済んだ」
達也は首を振った。
「出てません」
「あら」
女将は、それ以上言わなかった。
千尋が、達也の袖を見ている。
袖を見ているだけで、目は合わせない。

外へ出ると、息が白い。
駐車場の車の前を通った。
千尋が立ち止まる。
「これ」
運転席のドアに、泥がついていた。
手形だ。
小さい。
子供の手ほどしかない。
取っ手にも、べったりと泥が乗っている。
ドアの下の方に、点々と五つ、六つ。

達也は懐中電灯で地面を照らした。
砂利に足跡はない。
「猿だよ」
自分で言って、自分で頷いた。
秩父の山に猿は多い。
宿の前の道路にも、昼間なら出る。
「猿だね」
千尋も言った。
それで、手形の話は終わりにした。

国道の路肩を、湖の方へ歩いた。
車道と斜面の間に、人ひとり分の幅しかない。
達也が前、千尋が後ろ。
懐中電灯の丸い光だけが、足元で揺れる。
ガードレールが、手袋越しでも冷たい。
トンネルの手前で、道を右へ降りた。

水の匂いが先に来た。
それから、錆の匂い。
目の前に、秩父湖の吊り橋があった。
青い主塔が、夜明け前の空に黒く立っている。
二百メートル先の対岸は、霧で見えない。
主塔の手前にロープが張られ、通行止めの看板が傾いていた。
向こう岸の遊歩道は、ずっと前から崩れて閉じている。

「入らないよ」
千尋が言った。
「ロープの手前」
「分かってる」
入るつもりは、達也にもない。
ロープの手前の、コンクリートの縁。
千尋はそこに立った。
達也はその右斜め後ろ、半歩下がった位置に立つ。
湖面は見えない。
霧が水を隠している。
ただ、橋の床板が霧の中へ消えていくのだけが分かった。
風はない。
霧だけが、頬に貼りつく。
千尋の吐く息が白く、霧に混ざって区別がつかなくなる。

五時半を回った。
空はまだ変わらない。
千尋が息を吸った。
歌い出した。

小さい声だ。
子供が縄跳びで歌うような節だった。
達也は歌詞を聞き取ろうとした。
しもさわ、と聞こえた。
しもさわの、みずは、ふかいか、あさいか。
千尋の肩が、節に合わせて少し揺れる。

一番が終わると、千尋は一拍おいた。
二番に入る。
はしのうえから、のぞくな、のぞくな。
達也は橋を見ないことにした。
見るなと歌っているのだから、見ない。
子供の歌にしては、理屈がはっきりしすぎている。

ポケットの中で、携帯が震えた。
取り出して画面を見る。
公衆電話、とだけ出ていた。
達也は親指を止めた。
千尋が、歌いながら横目でこちらを見る。
首を、ほんの少し振った。
達也は画面を伏せた。
震えは、二番が終わるのと同時に止まった。

三番。
よばれても、よばれても、へんじをするな。
千尋の声が、わずかに大きくなった。
その時、橋の方で音がした。

こん。
床板を、何かが踏んだ音だ。
対岸の霧の中からだった。
こん。
こん。
間隔が、人の歩幅になっている。
達也は耳だけでそれを追った。
音は橋の真ん中あたりまで来て、止まった。
ワイヤーが、風もないのに一度だけ鳴る。
低く、長い音だ。
釣り人なら、灯りを持っている。
霧の中に、灯りは一つもなかった。

千尋の腕を引いて、ここを離れたい。
達也はそう思った。
途中でやめたら、一番からやり直しになる。
そうなれば、もう一度この音を聞くことになる。
手を出せなかった。

千尋は歌い続けている。
三番の、終わりの繰り返し。
へんじをするな。
達也は自分の呼吸を数えた。
三つ数えたところで、右耳のすぐ後ろで、声がした。

「きこえますか」

女の声でも、子供の声でもない。
息が、耳の毛に触った。
達也は歯を噛み合わせた。
右には誰もいないはずだ。
確かめなかった。
確かめる代わりに、口を閉じたまま、舌を上顎に押し付けた。

千尋の歌が終わった。
終わった途端、千尋の手が達也の手首を掴んだ。
強い。
爪が食い込む。
「帰る」
声は出さずに、口の形だけでそう言った。
達也は頷いた。
二人とも、橋に背を向けた。
振り向かずに、斜面を登る。

国道に出ると、空の端が白みはじめていた。
トラックが一台、三峰の方へ走っていく。
その音で、達也はやっと息を吐いた。
背中に、もう何もいない。
そう思うことにした。

歩きながら、理屈を並べた。
釣り人かもしれない。
電話は、よその公衆電話からの間違いだ。
一つ一つは、どれも通る。
全部並べると、通らなかった。

「ねえ」
千尋が後ろから言った。
「歌の途中で、何か言った?」
「言ってない」
「うん。言ってなかった」
千尋は自分に言い聞かせる声で言って、黙った。

宿に戻ると、玄関の鍵は開いていた。
女将の姿はない。
台所の灯りも消えている。
達也は先に階段を上がった。

ピンク電話の受話器が、落ちていた。
コードに吊られて、床の上で揺れている。
それ自体は、音も立てていない。
受話器の黒い握りに、泥がついていた。
小さい手形だ。
車についていたのと、同じ大きさ。
コードにも、泥の指が点々と残っている。
階段の上から下まで、泥の足跡は一つもなかった。

千尋が後ろから上がってきて、それを見た。
何も言わない。
手が勝手に受話器を掴んで、本体に乗せた。
泥は、達也の指にもついた。
冷たい。
湖の匂いがした。

朝食の席で、女将は受話器のことを何も聞かなかった。
達也も言わない。
味噌汁を出しながら、女将が一度だけ口を開いた。
「猿が入るんだよ、たまに」
それだけだった。
会計の時、千尋が聞いた。
「四番の歌詞、教えてもらえますか」
女将は釣り銭を数える手を止めなかった。
「歌わないんだから、いらないでしょう」

帰りの国道で、二瀬ダムの上を渡った。
達也は湖を見なかった。
千尋も、窓の方を向かなかった。
トンネルを抜けてから、達也は車のドアの泥を思い出した。
宿を出る前、タオルで拭いた。
取っ手の泥だけが乾いて落ちず、爪で削った。
その指を、今、ハンドルの上で嗅いだ。
錆の匂いがした。

東京に戻って、一週間が過ぎた。
達也の目覚めが、変わった。
目覚ましの前に、目が開く。
決まって、四時過ぎ。
窓の外はまだ暗い。
起きて、台所で水を飲んで、また寝る。
それを繰り返した。

千尋には言わなかった。
言えば、千尋は秩父に電話をかける。
あの宿に。
廊下の、あの電話に繋がる気がした。
それだけは避けたい。
達也は、歌を口ずさむ人間ではない。
会社の忘年会でも、口を動かすだけで逃げてきた。
その達也が、ある朝、口を動かしていた。

帰って十日目の朝、達也は台所ではなく、ベランダの窓の前に立っていた。
いつそこへ歩いたのか、覚えがない。
ガラスに、自分の顔が映っている。
口が動いていた。
声も出ている。
縄跳びの節ではない。
宿で女将が鼻歌にした、あの節だ。

歌詞は、知らないものだった。
しもさわ、でも、はしのうえ、でもない。
聞いたことのない言葉を、自分の口が並べていく。
止めようとした。
口が、止まらない。

「それ」
背中で、千尋の声がした。
ガラスの端に、寝室のドアの前に立つ千尋が映っている。
「それ、四番でしょ」
達也は答えなかった。
答えられなかった。
口が、まだ歌を続けている。
「歌詞、あったんだ。誰に教わったの」
千尋の声が、半歩近づいた。
「ばあちゃん、男の人には歌わせなかったのに」

達也の口は、四番を歌い終わった。
息を吸う。
一番に戻った。
しもさわの、みずは、ふかいか、あさいか。

「達也」
千尋が、後ろから呼んだ。
振り向かなかった。
歌が、まだ終わっていない。

舞台になった場所

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