十二月十日の昼だ。
大宮の氷川参道は、ケヤキが葉を落としきっていた。
俺は七十四になる。
久保田鉄工所という小さな町工場で、四十二年働いた。
氷川参道から東へ入った裏道にある工場だ。
辞めて十年たつ。
それでも十日市だけは毎年、工場の連中と氷川神社へ行く。
熊手を買うためだ。
先代の大将が始めた決まりで、俺が若い頃からずっと続いている。
連中といっても、今は久保田と俺の二人きりだ。
若い衆は秋のうちに、みんな辞めていった。
その工場が、この三月で閉まる。
二代目の久保田が決めた。
俺より六つ下で、溶接を教えたのは俺だ。
十九の春に入ってきた久保田に、面を持たせて火花を見せた。
あいつが社長と呼ばれるようになっても、俺の中では弟子のままでいる。
一週間前、久保田から電話が来た。
「最後だから、今年も頼む。昼のうちに行こう」
声が少しかすれていた。
電話の向こうで、旋盤の回る音がしている。
あいつはまだ一人で機械を回しているらしい。
「井戸も埋める。業者に頼んだ。蓋の石は、兼さんに退けてほしい」
そう言われて、俺は二つ返事で引き受けた。
返事だけは早い男だと、大将によく笑われたものだ。
工場の裏庭には井戸がある。
大将が四十年前に掘らせた。
焼き入れの水に使うためだ。
真っ赤な鉄を桶に突っ込むと、井戸の水は一瞬で白く沸く。
あの音と湯気の匂いで、俺は飯を食ってきた。
死ぬ前の年、大将は井戸を使うのをやめさせた。
杉板で蓋をして、その上に漬け物石を載せろと言う。
漬け物石といっても、大人が二人でやっと持つ平たい石だ。
釘は使わなかった。
蓋に釘は打つな、石で押さえろ、と大将が言ったからだ。
石を担いで載せたのは俺だ。
退ける時は、載せた者が退けろ。
大将はそう言い残している。
大将はよく言っていた。
「うちの井戸は一宮さんの水だ」
一宮さんというのは、武蔵一宮氷川神社のことだ。
蛇の池の湧き水が、地面の下を通ってうちまで来ている、という話だった。
本当かどうかは知らない。
大将は若い頃から、言い出したら聞かない人だった。
工場の壁には、黒い内線電話が掛かっている。
二階の事務所からしか鳴らせない電話だ。
大将は人を呼ぶ時、階段を降りずにそれを鳴らした。
受話器を取ると、「おーい、兼さん」と来る。
俺が「へい」と返す。
その繰り返しで四十年がすぎた。
工場には犬もいた。
シロという白い雑種だ。
ベルが鳴る前に、シロは必ず二回だけ吠えた。
一回でも三回でもない。
二回だ。
俺たちはそれを合図に、手を止めて壁の電話を見た。
シロがいた頃は、ベルより先に犬で分かった。
シロは三十年前に死んだ。
大将は十二年前に死んだ。
井戸だけが残っている。
十一時半に、二の鳥居で久保田と落ち合った。
あいつは紺の作業ジャンパーのままだ。
袖口に、まだ新しい火花の焦げ跡がある。
「昼だと空いてるな」
「夜は歩けねえよ、この膝じゃ」
俺の右膝は去年から曲がりが悪い。
階段を降りる時は、手すりがないと止まれない。
参道は長い。
中山道の一の鳥居から、本殿まで二キロある。
俺たちは二の鳥居から歩いた。
それでも、膝には十分な距離だ。
ケヤキの幹の裏で、鳩が二羽、砂を突いていた。
参道の露店はまだ準備中が多い。
鉄の骨組みを叩く音が、あちこちから上がる。
醤油の焦げる匂いだけが先に流れてくる。
発電機の唸りが、裸のケヤキの間でこだました。
歩きながら、久保田が閉める話をした。
「得意先が三つ減った。機械も古い。潮時だよ」
俺は頷くだけだ。
あの工場の機械は、半分は俺が据え付けた。
熊手の店は三の鳥居の手前に並んでいた。
竹と藁の匂いがする。
その匂いを嗅ぐと、腹の底が年の暮れになる。
毎年買う店は決まっている。
婆さんが一人でやっている店だ。
大将の代から、そこでしか買わない。
場所も毎年同じで、太いケヤキの根元だ。
婆さんの背は、俺の胸までもない。
手だけが、竹と同じ色に焼けている。
それでも声だけは、参道の端まで届く。
婆さんは俺たちの顔を見て、小さい熊手を一本、奥から出した。
「今年は小さいのでいいんだろ」
久保田が閉めることを話したのか、俺は知らない。
聞かずに金を払った。
熊手は俺が持った。
選ぶのも持つのも、昔から俺の役目だ。
三の鳥居をくぐると、朱の神橋がある。
橋の下が神池だ。
渡りながら、久保田が言った。
「この下の水、蛇の池から来てるんだとさ」
「親父さんも言ってたな」
「親父は何でも一宮さんに結びつける人だった」
俺は笑って、橋の板を踏んだ。
板が一枚、足の下で小さく鳴った。
拝殿で手を合わせた。
人の列は短い。
昼の光が屋根の銅板に当たって、目が痛かった。
賽銭の音が、乾いた板の上で跳ねる。
戻りかけたところで、久保田が言った。
「兼さん、蛇の池、行ったことあるか」
「ねえよ。入れなかったろ」
「今は賽銭箱の前まで行ける。何年か前に開いたんだ」
俺は少し迷った。
膝が重い。
ただ、大将の言った水を、一度は見ておきたかった。
工場が閉まれば、もう来る理由がなくなる。
井戸を埋める前に、元の水を見ておく。
それくらいは、してもいい気がした。
楼門の左手の奥へ、細い道が下っている。
横に水路が走っていて、枯れたアジサイが茶色く倒れていた。
人はいない。
露店の音が、後ろで急に遠くなった。
自分の靴の音だけが、やけに近い。
久保田が先に立ち、俺は三歩遅れて下りた。
池は思ったより小さかった。
道の先に賽銭箱が置かれている。
その先は入れない。
入る気もない。
賽銭箱の向こうは木が立て込んでいて、池の奥は見えなかった。
水の落ちる音が、木の陰で絶えず鳴っている。
昔は神主さんでも滅多に入らなかったと、大将から聞いていた。
ここが開いたのを大将が知っていたかどうかは、分からない。
水面から、薄く湯気が立っていた。
冬の昼でも、湧き水は冷えきらないらしい。
賽銭箱の前に立つと、顔のあたりだけ空気がぬるい。
水の匂いは、工場の井戸と同じだった。
鉄の匂いが少し混じる、あの匂いだ。
大将の話も、あながち嘘ではない気がしてきた。
久保田は俺の左に立った。
賽銭箱の前で、あいつは小銭を探っている。
俺は財布を出さずに、手だけ合わせた。
その時だ。
池の向こうの木立から、犬が吠えた。
二回。
短く、乾いた声だった。
「犬かよ」
久保田が笑った。
「境内に犬は入れねえだろ」
俺が言うと、久保田は首を振った。
「野良だよ。木の裏から入るんだ」
俺もそれで済ませた。
野良犬くらい、どこの神社にもいる。
もう一度頭を下げて、水路の道を戻った。
上りは膝にこたえる。
久保田の背中が、どんどん先へ行く。
道の途中で、また吠えた。
二回。
今度は後ろからだ。
池の方からだ。
俺は足を止めた。
「今の、聞こえたか」
「何が」
「犬だよ」
「鳴いてねえよ」
久保田は振り向きもしない。
俺は七十で補聴器を入れた。
機械を替えてから、たまに雑音が入る。
高い音が、犬の声に化けることもある。
そういうことにした。
補聴器を指で押さえて、歩き出した。
押さえた指が、冷えて痛い。
水路の水音が、坂の上まで後ろからついてきた。
顔に残ったぬるい空気は、楼門の手前で消える。
楼門の前を横切って、神橋のところまで戻った。
さっきの池より、水が深い。
久保田は「甘酒買ってくる」と言って、露店の方へ歩いていった。
二十メートルほど先だ。
俺は熊手を抱えて、橋の真ん中に立った。
参拝の客が何人か、俺の横を通っていく。
誰も俺を見ない。
甘酒の列は長く、久保田の横顔が人の間に見え隠れした。
水は澄んでいて、底の落ち葉まで見える。
鯉が一匹、ゆっくり橋の下へ入っていった。
二回、吠えた。
足元からだ。
橋の下、水の面のあたりから聞こえた。
俺は水を見なかった。
楼門の朱だけを見ていた。
喉が勝手に鳴った。
手の甲の毛が、袖の中で立つのが分かった。
「おーい、兼さん」
「へい」
口が先に動いた。
声は上からでも横からでもない。
橋の下からだ。
あの、少し鼻にかかった呼び方だ。
熊手の柄を握り直した。
竹が手の汗で滑る。
十二月に手が汗をかく。
膝の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
熊手だけは落とさなかった。
横を通る客の靴が、目の下を過ぎていく。
誰も足を止めない。
立ち上がりたい。
膝が言うことを聞かない。
橋の板の冷えが、尻から上がってきた。
顔を上げた。
列を抜けた久保田が、甘酒を二つ持ってこっちを向いて立っていた。
いつから見ていたのかは、分からない。
「兼さん、誰と喋ってた」
「独り言だよ」
「返事してたぞ。へいって」
「寝ぼけたんだ」
甘酒は熱かった。
舌が焼ける。
その熱さで、やっと膝が伸びた。
久保田は何も聞かなかった。
俺が立ち上がるまで、黙って横に立っていた。
歩きながら、補聴器のせいにして、甘酒を飲み干した。
紙コップを持つ手が揺れていた。
帰り道、婆さんの店の前を通った。
婆さんが久保田を見て言った。
「大将の分は」
この十二年、一度も出なかった話だ。
「親父は死にましたよ。十二年前に」
「そうかい。毎年二本だったからね」
久保田は首をかしげた。
「親父は一本しか買わなかったですよ」
「二本だよ。一本は井戸にって言ってた」
俺は何も言わなかった。
二本だった気もする。
一本だった気もする。
井戸の屋根に古い熊手が一本、釘で打ってあるのは知っている。
誰が打ったのかは、覚えていない。
参道を歩きながら、久保田がぽつりと言った。
「親父は蛇の池なんて行ったことねえよ。入れなかったんだから」
俺は黙っていた。
大将は俺に言ったことがある。
「子供の頃、蛇の池の水を飲んだ。腹をこわした」
入れなかった場所の水を、どうやって飲んだのか。
聞きそびれたまま、大将は死んだ。
工場に戻って、熊手を神棚に上げた。
俺が脚立を押さえ、久保田が上がった。
膝のせいで、今年は役が逆だ。
あいつが古い熊手を外して、新しいのを掛ける。
竹の軋む音が、がらんとした工場に響いた。
壁の内線電話が、脚立の右に見える。
大将が死んでから、一度も鳴っていない。
久保田は事務所から降りてきて、口で呼ぶ。
その日も鳴らなかった。
俺はそれだけ確かめて、帰った。
その晩は寝つきが悪かった。
朝まで、補聴器を枕元に伏せて置いている。
石の重さを、腰が覚えている。
載せた時は、三日寝込んだ。
あれから十三年、石は一度も動かしていない。
女房は何も聞かず、腰に巻く晒を出してきた。
年の瀬に、久保田から電話があった。
井戸を埋める日取りの話だ。
用件が済んだあと、あいつが低い声で聞いた。
「兼さん、あの日、橋の上で誰を見てた」
「誰も見てねえよ」
「下、見てなかったもんな」
それだけ言って、電話は切れた。
一月の頭に、石を退けに行った。
昼だ。
久保田は得意先へ出ていて、いなかった。
二階の事務所には鍵が掛かっている。
裏庭の井戸の蓋には、霜が残っていた。
石の上だけ、霜が溶けている。
石に手を掛けると、蓋の隙間からぬるい空気が上がってきた。
蛇の池の賽銭箱の前と、同じ温さだ。
その時、工場の中でベルが鳴った。
壁の内線電話だ。
事務所からしか鳴らせない。
事務所には誰もいない。
吠え声はなかった。
シロはいない。
合図なしで、ベルだけが鳴り続ける。
裏庭の砂利に、昼の日が白く当たっている。
地面に落ちている影は、俺のものだけだ。
俺は搬入口から工場へ入った。
壁の受話器を取って、耳に当てた。
遠い。
水の流れる音が、ずっと奥でしている。
その奥で、犬が二回吠えた。
「へい」
俺はまた言った。
呼ばれてもいないのに、口が言った。
受話器の向こうは、水の音だけになる。
俺は受話器を戻して、井戸の横へ戻った。
石には、もう手を掛けなかった。
それからだ。
俺は人に呼ばれても返事ができなくなった。
女房が名前を呼ぶ。
喉が詰まって、手を上げるだけになる。
久保田に呼ばれても同じだ。
電話が鳴っても、出るまでに三回は息を吸う。
医者は耳のせいだと言う。
俺もそう言っておく。
返事は、まだ出る。
出るところが、変わっただけだ。
あの工場の裏庭に立つと、今でも喉がほどける。
井戸を埋める日は、一月の二十日に決まった。
石はまだ、蓋の上に載っている。
毎日、昼に見に行く。
退ける手は、まだ出ない。
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