十月の土曜だった。
午後四時を、十分ほど過ぎている。
圭介は、山手本通りに出たところで足を止めた。
息が上がっていた。
元町商店街で妻の買い物に付き合い、そこから坂を上がってきた。
横浜外国人墓地の入口は、通りに面した小さな広場の奥にある。
門は、閉まっていた。
「四時までだって」
美咲が、案内板を指でなぞりながら言う。
「土日祝の正午から四時。知ってたのに」
「お前が雑貨屋で粘るからだろ」
「髪留め、気に入ったんだもん」
美咲は、結んだ髪の後ろに手をやった。
さっき元町で買ったばかりの髪留めがある。
牡丹の花を象った、古い真鍮の留め具だ。
花びらの縁が黒ずんでいて、新品には見えない。
雑貨屋の若い店員は、山手の古い家から出た品だと言っていた。
どの家かは、聞かなかった。
結婚して二年になる。
妻は古い物が好きで、圭介はそうでもない。
今日の予定も、全部妻が組んだ。
元町・中華街駅で降りて、商店街を抜けて、坂を上がる。
墓地を見て、そのあと近くの骨董屋に寄る。
その順番だけは、守れなかった。
圭介は、正直なところ墓地には興味がない。
人の墓を見て何が楽しいのか、と口に出したことはない。
出せば、妻が黙る。
黙られるくらいなら、歩いた方が楽だ。
それだけの理由で、ここまで付いてきた。
広場の脇に資料館があって、そちらはまだ開いている。
「資料館でもいいんじゃないか」
「違うの。お墓が見たいの」
美咲は、柵に両手を掛けた。
柵の外から、墓地を見渡せる。
斜面いっぱいに、十字架と墓石が並んでいた。
白いのも、灰色のも、角が丸くなったのもある。
碑文は外国語で、圭介には読めない。
古いものは、文字が雨で削れて凹みしか残っていない。
誰の墓かも分からない石が、斜面の下まで続いている。
海からの風が、坂を這い上がってくる。
金木犀の匂いが混じっていた。
「四千人以上、眠ってるんだって」
美咲が、柵に顎を乗せて言う。
「資料館に行けば、名前が分かる人もいるらしいよ」
「分かってどうすんだ」
「別に。分かりたいだけ」
金木犀は、どの家の木だろう。
圭介は、匂いの元を探して通りを振り返った。
観光客が数人、港の見える丘公園の方へ歩いていく。
路線バスが一台、坂を下っていった。
ベージュのコートの女が、バスの後ろを横切って坂を下りる。
妻と同じ色のコートだ。
この秋は、あの色が流行っているらしい。
視線を戻す。
美咲が、いない。
いや、いる。
柵の反対側の端に、こちらへ背を向けて立っていた。
広場の幅は、十歩ほどある。
さっきまで肘が触れる距離にいたのに、いつ動いたのか。
「美咲」
呼ぶと、妻は振り向いた。
ベージュのコートの襟を立てて、笑っている。
「ここからだと、海が見えるよ」
「そっか」
歩いたのだろう。
圭介がバスを見ていた、ほんの数秒の間に。
足音を聞いた覚えはないが、通りはバスの音でうるさかった。
それで済ませた。
美咲の言うとおり、柵の端からは港の方角が開けている。
夕日が、墓石の列を横から照らしていた。
影が長い。
十字架の影が、隣の墓石に斜めにかぶさっている。
風が強くなって、妻の髪がほどけかけた。
牡丹の髪留めが、夕日を受けて鈍く光る。
「入れなくて、よかったかも」
美咲が、小さな声で言った。
「なんで」
「中に入ったら、帰りたくなくなりそう」
圭介は返事をしなかった。
冗談にしては、声が低い。
妻は柵から手を離して、コートの裾を払った。
「行こ。骨董屋、六時までだから」
骨董屋は、墓地の広場から通りを少し行った先の脇道にある、と妻は言っていた。
山手本通りから一本入ると、人通りが途切れる。
脇道に入る手前で、圭介はもう一度だけ墓地の方を振り返った。
門の鉄格子の向こうで、十字架の影が伸びきっている。
人の姿はない。
さっきのベージュのコートも、通りのどの辺にも見えない。
美咲は振り返らずに、先に立って脇道を下りていく。
歩幅が、いつもより大きい。
道は細く、奥は行き止まりだ。
その手前に、木の看板を下げた店が一軒ある。
看板には、古道具、廣、と彫ってあった。
読み方は分からない。
営業時間は六時までと、小さく書き添えてある。
ガラス戸を押すと、鈴が鳴った。
店の中は薄暗い。
棚と棚の間が、人一人がやっと通れる幅しかない。
古いガラス器、洋書、錆びた鍵、片方だけの燭台。
奥のカウンターに、白髪の店主が座っていた。
七十は超えているだろう。
新聞を広げたまま、目だけでこちらを見た。
「どうぞ」
それだけ言って、また新聞に戻る。
美咲は、入ってすぐ右の棚に張りついた。
ブリキのミニカーが、三十台ほど並んでいる。
舶来の古い玩具だ。
塗装が剥げて、下の鉄が覗いているものもある。
「これ。これが見たかったの」
妻の目が、子どもみたいになっていた。
圭介は、棚の反対側に目をやった。
壁に、皿が一枚掛かっている。
白地に、大きな牡丹が一輪。
紅色の花弁が、皿の縁まで広がっていた。
値札がない。
「それは売り物じゃない」
店主が、新聞から顔を上げずに言った。
「女房のでね」
「奥さんの」
「十年前に出てった。皿だけ置いてった」
圭介は、相槌を打てなかった。
店主の目が、こちらではなく美咲の後頭部を見ている。
髪留めの高さだ。
ほんの一瞬だった。
店主は、すぐ新聞に戻った。
店の中の空気が、少しだけ重くなった気がする。
気がしただけだ。
美咲は、気づいていない。
ミニカーを一台、棚から取り上げていた。
赤い消防車だ。
梯子が片方折れている。
「圭ちゃん、これ買っていい」
「いくら」
「値札、ないや」
「じゃあ聞けよ」
「あとで」
美咲は、ミニカーを棚の端に戻した。
車の鼻先を、通路側に向けて。
置き方まで、圭介は見ていた。
「ちょっと、お手洗い借りてもいいですか」
店主は黙って、カウンターの奥のドアを顎で示した。
美咲が、棚の間をすり抜けて奥へ行く。
ドアが開いて、閉まった。
蝶番が、長く軋んだ。
圭介は、壁の皿に戻った。
近くで見ると、牡丹の花弁に細かいひびが走っている。
皿の下の壁紙だけ、色が褪せていない。
十年、ここから動いていないのだろう。
ひびの数を、意味もなく数えた。
七本まで数えて、やめた。
店の中は、紙と埃の匂いがする。
外のバスの音が、遠い。
店主が新聞をめくる音だけが、たまに聞こえた。
背中に、ガラス戸から差す夕日の熱がある。
ふと、棚に目を戻す。
消防車が、壁の方を向いていた。
鼻先が、奥に。
梯子の折れた側が、こちらに。
美咲は、通路側に鼻先を向けて置いたはずだ。
圭介は、その手つきまで見ていた。
店主を見る。
新聞を持つ両手は、カウンターの上から動いていない。
椅子の位置も、変わっていない。
自分が触ったのか。
壁の皿を見るとき、肩が棚をかすめたかもしれない。
かすめたくらいで、車が半回転するか。
するだろう。
古いブリキは軽い。
棚板も、よく見れば少し傾いている。
圭介はそう決めて、消防車の向きを元に戻した。
指先に、冷たい鉄の感触が残る。
妻に話せば、笑われる話だ。
奥のドアが、鳴った。
叩く音だ。
内側から、三回。
拳で、ゆっくり。
「圭ちゃん、開けて」
ドアの向こうから、美咲の声がした。
くぐもっているが、妻の声だ。
圭介は棚の間を通って、カウンターの横まで行った。
店主は、新聞から顔を上げない。
「開いてるだろ。そっちから回せよ」
返事がない。
圭介は、ドアノブを握った。
回らない。
内側から、錠が掛かっている。
「美咲。鍵、掛けてるのお前だよ」
また、三回。
今度は、さっきより低い位置から。
膝の高さだ。
座り込んで叩いているのか。
喉の奥が、乾いて張りついた。
「ヒロちゃん、開けて」
圭介の手が、ノブから離れた。
ヒロという名前に、心当たりがない。
妻の口から、聞いたことがない。
首の後ろが、急に冷えた。
「奥さん、とっくに出てきてますよ」
店主の声だった。
顔は、新聞に向いたままだ。
圭介は、振り返った。
美咲が、入口脇の棚の前に立っていた。
こちらに背を向けている。
手に持った赤い消防車が、脇から覗いていた。
鼻先は、壁に向いている。
ドアの向こうが、鳴らなくなった。
叩く音も、声も、途切れている。
「美咲」
妻が振り向く。
「なに。この梯子、直せるかな」
いつもの顔だった。
いつもの声だ。
圭介は、自分の掌が湿っているのに気づいた。
美咲が棚を離れて、圭介の袖を引く。
指が、冷たい。
さっき触ったブリキと、同じ温度だった。
洗面所で手を洗ったからだろう。
古い店の水道だ。
十月でも、水は冷える。
「いつ出てきた」
「さっき。お皿見てたでしょ。声かけたのに」
声など、聞いていない。
蝶番の軋む音も、聞いていない。
あれだけ長く軋むドアだ。
開けば、分かる。
いや。
壁の皿に、気を取られていた。
ひびの数を数えていたくらいだ。
人が一人、後ろを通ったくらいで気づかないこともある。
蝶番の音も、バスの音に紛れたのかもしれない。
さっきは遠かったバスの音が、そのときだけ近かったのかもしれない。
ドアの向こうの声は、裏の路地からだろう。
行き止まりの先は、民家の壁だったはずだ。
壁が薄ければ、隣の声はこもって聞こえる。
納得した顔を作った。
掌は、湿ったままだった。
「裏に、家があるんですか」
店主に聞いた。
「ない」
新聞をめくる音だけが、返ってくる。
美咲が、消防車を棚に戻した。
鼻先を、壁に向けたままで。
圭介はそれを見て、何も言わなかった。
「ねえ、これ買うのやめる。梯子が折れてるし」
「そうか」
さっきまで、あれだけ欲しがっていた。
値段すら、まだ聞いていない。
圭介はそれを言おうとして、口を閉じた。
言ったところで、何が変わるわけでもない。
「それより、墓地。もう一回行こうよ」
「閉まってるって」
「さっき、門が開いてたよ」
圭介は、妻の顔を見た。
美咲は笑っている。
「中まで見てきたって、店主さんにも言ったじゃん」
言っていない。
少なくとも、圭介の前では。
店主を見た。
店主は新聞をたたんで、初めてこちらに顔を向けている。
「中まで、ね」
それだけ言った。
美咲の髪に、目が行った。
牡丹の髪留めがない。
結んだ髪が、黒いゴムだけで留まっている。
「髪留め、どうした」
「なにそれ」
「さっき買ったやつ。牡丹の」
「買ってないよ、そんなの」
美咲は、心底わからない顔をした。
コートのポケットを探る真似までする。
圭介のジャケットの内側には、元町の雑貨屋のレシートが入っている。
確かめようと思えば、確かめられる。
手が、動かなかった。
動かしたら、どちらかが嘘になる。
壁の皿の牡丹が、視界の端にある。
紅い花弁が、さっきより大きく見えた。
見え方の問題だ。
夕方の光が、ガラス戸から低く差し込んでいるせいだ。
圭介は、皿から目をそらした。
「五時で閉めるんで」
店主が、椅子から立ち上がった。
看板には、六時とあった。
圭介はそれを口に出さなかった。
店主は、カウンターの奥のドアの前に立って、こちらを見ている。
通せんぼをしているみたいに。
いや、ただ立っているだけだ。
出るしかない。
脇道は行き止まりで、出口は山手本通りに向かう一方だけだ。
この店に、妻を置いて帰る理由もない。
隣にいるのは、妻だ。
圭介は、頭の中でそう言い直した。
二度、三度と言い直した。
美咲が先に、ガラス戸を引いた。
鈴が鳴る。
外は、もう暮れかけていた。
脇道の奥、行き止まりの壁が黒い。
妻は、通りに出て左へ曲がった。
元町・中華街駅へ下りる道とは、逆だ。
墓地の門がある方角だった。
「圭ちゃん、早く」
坂の上から、妻の声がする。
圭介は、戸口で立ち止まった。
背中の奥で、ドアが鳴った。
二回。
低い位置から。
店主は、動かない。
たたんだ新聞を、両手で胸の前に抱えている。
こちらも見ない。
奥のドアも見ない。
圭介は、鈴を掌で包んだ。
鳴らないように。
そのまま、ガラス戸を外から引いた。
戸が閉まりきるまで、奥のドアからは目を離さなかった。
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