娘が生まれてから、明け方に起きるのが当たり前になった。
四時半に目が覚める。
町田のアパートの寝室で、娘に乳をやりながら、片手でスマホを持つ。
部屋の明かりはつけない。
画面の光だけが、娘の頬を青く照らしている。
四時四十分になると、通知が一つ来る。
美月の配信だ。
美月は高校の時からの友達だ。
伊勢原の実家から、二人で同じ電車に乗って通った。
卒業して、私は結婚して町田に出た。
美月は秦野の短大に進んで、そのまま秦野に居ついた。
上大槻の、短大のすぐ下のアパート。
一度だけ泊まりに行ったことがある。
あの時、昼間に二人でトンネルを歩いた。
短大の敷地が丘になっていて、その下を道が貫いている。
上を見上げると、白い校舎の端が木の間から覗いていた。
女子短大で、もうすぐ閉校になると美月が言った。
中は薄暗くて、天井が低い。
壁は湿っていて、指で触ると冷たかった。
私たちの話し声が、天井に当たって戻ってきた。
「ここ、声が増えるんだよ」
美月はそう言って、わざと手を叩いた。
音が三つになって返ってきた。
昼間だったから、笑って済んだ。
ひと月ほど前から、美月は明け方に散歩の配信をしている。
眠れないから、歩くついでに回しているだけらしい。
見ている人間は、私ともう一人くらい。
その一人は「にいまるさん」という名前で、毎朝「おはよう」とだけ書いてくる。
誰だか知らない。
美月も知らないという。
「見ててね。一人だと、ちょっと怖いから」
そう頼まれたのが最初だった。
どうせ起きている。
片耳にイヤホンを入れて、私は毎朝、美月の歩く道を見るようになった。
配信の画面は、ほとんど道しか映らない。
美月はスマホを左手に持って、前に向けて歩く。
右手は空けておく癖がある。
左で持つから、画面の左端に、時々指が入り込む。
自分の顔を映すのは、時々振り向いて「見てる?」と聞く時だけだ。
道は決まっている。
アパートを出て、住宅街を下る。
街灯の下を抜けて、短大の敷地の下をくぐるトンネルに入る。
天神隧道という名前がついている。
抜けた先の道を行けば、秦野駅の方に出る。
美月のバイト先のパン屋は、五時に裏口が開く。
トンネルを通れば間に合う。
通らなければ、十五分の遠回りになる。
美月に言わせれば、小田急線の秦野駅から歩いて二十分の、ただの生活道路だ。
短くて、中に照明もある。
住宅街の真ん中だから、肝試しに来るような場所でもないと美月は言う。
ただ、朝の四時台には、誰も歩いていない。
その日も、四時四十分に配信が始まった。
「おはよ。寒い」
美月の声は低い。
近所に気を遣って、いつも囁くくらいの声で喋る。
画面の中で、街灯がひとつずつ後ろへ流れていく。
息が白い。
十月の秦野は、町田よりも冷える。
にいまるさんの「おはよう」が流れた。
私も「おはよう」と打つ。
娘が乳首を離して、小さく息を吐いた。
私の胸の上は、ミルクの匂いと、娘の体温でぬるい。
「鍵、かけたよね。二〇三」
美月が独り言を言う。
毎朝、同じことを言う。
戻ったことは一度もない。
トンネルの入口が見えてくる。
口の形の暗がりの中に、白っぽい照明が並んでいる。
美月の足音が変わった。
アスファルトの乾いた音から、コンクリートの湿った音へ。
「ここ、いつも土の匂いがする」
「入口から三本目、切れてるんだよね」
照明の話だ。
画面の中で、確かに三本目のあたりだけが暗い。
奥のほうから、細い音がした。
ひょーひょー、と、二回。
笛の穴に、息だけを通したような音。
「風。奥から抜けてくるの。いつものやつ」
美月は足を緩めない。
トンネルは両側が開いているから、風は通る。
それで済ませた。
そこで、足音が二人分になった。
美月の足音の、半歩あとに、もう一つ。
硬い靴底の音。
革靴みたいな、乾いた音。
「ほら、これ。一人でも二人に聞こえるの」
美月が笑った。
反響だ。
私もそう思う。
トンネルの中なら、自分の足音が壁に返ってくる。
娘の頭を撫でながら、私はそれで納得した。
美月はトンネルの真ん中で足を止めた。
右手でポケットからハーモニカを出す。
高校の文化祭で、二人で吹いた曲がある。
ふるさと。
その出だしを、四小節だけ吹いた。
トンネルの中で、音が丸く膨らむ。
「ここだと上手く聞こえるんだよね」
そう言って、すぐにポケットにしまった。
「近所に悪いから、ここまで」
出口の光が近づく。
足音が、また一人分に戻った。
外に出ると、美月は大きく息を吸った。
「やっぱ外のほうが寒いね」
画面の先に、秦野駅へ下っていく道が白く伸びている。
パン屋の裏口まで、あと五分。
いつもここで、私は配信を閉じる。
娘が寝入る頃だから。
「じゃあね。見ててくれてありがと」
にいまるさんが「いってらっしゃい」と書いた。
私も同じ言葉を打って、画面を伏せた。
その日は、それだけだった。
二日後。
その日は配信が始まるのが少し遅かった。
四時四十五分。
美月の息が荒い。
走ってきたらしい。
「寝坊した。ごめん。見てる?」
カメラがこちらを向いた。
画面いっぱいに、美月の顔。
目の下が暗い。
その後ろに、街灯の白い輪。
「見てる」と打つ。
にいまるさんの「おはよう」が、その下に並んだ。
トンネルに入る。
三本目の照明の下で、やっぱり画面が暗くなる。
足音が二人分になる。
今日は反響だと、先に自分に言い聞かせておいた。
ただ、半歩だった間が、ほんの少し詰まっている気がする。
気のせいだ。
娘が身じろぎをして、私はそちらに気を取られた。
美月が真ん中で止まる。
ハーモニカを出す。
ふるさとの出だし。
吹き終わったあと、トンネルの奥から、同じ音が返ってきた。
一拍遅れて。
反響にしては、長い。
その尻尾に、ひょーひょー、と細い音が続いた。
一昨日より、近い。
「今日、よく響くね」
美月は気にしていない。
ポケットにしまって、歩き出す。
その時、画面の端に、何かが映った。
美月が「見てる?」と振り向いた、その一瞬。
美月の左肩の後ろ。
壁の白い光の中に、灰色の布の、袖のようなものが、縦に一本。
にいまるさんのコメントが流れた。
「後ろの人、演出うまい」
美月が「え?」と言って、カメラを後ろに向けた。
照明。
湿った壁。
三本目だけ暗い。
誰もいない。
「何もしてないよ。誰もいないし」
「次は笑い袋でも置いとこうか」
美月はそう言って、カメラを前に戻した。
笑っている。
私は親指を画面に置いたまま、しばらく何も打てなかった。
圧縮のノイズだ。
配信の画質は悪い。
壁の継ぎ目が、袖に見えただけだ。
そう思うことにして、「ノイズだよ」と打った。
美月は「だよね」と返す。
にいまるさんは、それきり何も書かなかった。
その晩、私から美月にビデオ通話をかけた。
美月は部屋の畳の上に座っている。
後ろの窓は、カーテンを引いていない。
泊まりに行った時、あの窓の向こうに短大の丘が黒く見えた。
今は、ガラスに部屋の明かりが映っているだけだ。
「朝の、あれ。なんだったの」
「知らない。にいまるさんの冗談じゃない?」
美月はあくびをした。
声は普通だ。
「あとさ、足音。アーカイブ見返したけど、一人分しか入ってなかったよ」
そんなはずはない。
私は通話をつないだまま、古いほうのスマホで今朝の配信を開いた。
トンネルの部分まで送る。
イヤホンの中で、足音が二つ鳴った。
半歩ずれて、硬い靴底の音。
「二人分だよ。今聞いてる」
「え、私のは一人なんだけど」
二人で同じ場面を再生して、しばらく黙った。
美月のスマホと、私の古いスマホ。
同じ配信の、同じ時刻。
聞こえている音が、違う。
「端末の違いじゃない?」
美月がそう言って、話はそこで流れた。
私もそれ以上は押さなかった。
バイトの話をして、娘の話をして、三十分ほど話した。
切る間際、美月が一度、後ろの窓を振り向いた。
通話の向こうで、ひょう、と短い音がした。
「風」
美月はそう言って、通話を切った。
私は、窓が閉まっていたかどうかを、聞きそびれた。
足音が二人分になってから、三回目の朝だった。
娘が夜中に三度起きて、私はほとんど寝ていない。
四時四十分を過ぎても、通知が来ない。
来なければいいと、半分思っていた。
もう半分は、来ないほうが落ち着かない。
美月が一人であの中を歩くのを、見ていない自分が嫌だった。
四時五十分に、通知が来た。
「おはよ」
美月の声は、囁きよりもっと小さい。
息の音のほうが大きい。
画面は、いつもより揺れている。
「大丈夫?」と打つ。
返事はない。
にいまるさんの「おはよう」だけが流れた。
街灯が流れる。
娘が泣き出した。
私は左腕で娘を抱き直して、右手の親指でスマホを支える。
イヤホンの線が、娘の頬に触れている。
娘の髪は、汗で湿っていた。
切れない。
切ったら、美月が一人になる。
トンネルの入口。
今日は、三本目の照明がついていた。
直したんだ。
そう思った。
思っただけで、打つ余裕はなかった。
足音が二人分になる。
今日は、間がない。
美月の足音と、硬い靴底の音が、ほとんど重なっている。
重なって、少しずつ、硬いほうが前に出る。
ひょーひょー。
今日は、すぐ横で。
「誰か来る」
美月が言った。
囁きではない。
カメラが大きく揺れて、天井の照明が横に走る。
硬い靴底の音が、速くなる。
歩く音から、走る音へ。
革靴で、コンクリートを蹴る音。
画面が止まった。
止まった絵は、斜めになった壁だった。
照明の白い帯と、濡れたコンクリート。
その右端に、灰色の布が、縦に一本。
真ん中で、白い輪がくるくる回る。
回線が切れただけだ。
トンネルの中だ。
電波が悪い。
私は自分に向かって、そう三回言った。
娘が、私の胸に顔を押し付けて泣いている。
乳をやる。
手が震えて、乳首がうまく入らない。
イヤホンの中は、無音だった。
配信が切れた時の、あの詰まったような無音。
三十秒ほどだったと思う。
画面が動いた。
トンネルの出口の光。
美月の肩。
歩いている。
もう外に出ている。
駅の方へ向かう、いつもの道。
「ごめん。電波」
美月の声だった。
いつもの、囁くくらいの声に戻っている。
「やっぱ外のほうが寒いね」
三日前と同じ言葉。
同じ場所で、同じ息の吐き方。
配信の画面の隅に、視聴者の数が出ている。
三。
私と、にいまるさんと、あと一人。
誰か増えたんだと思った。
それ以上は考えなかった。
私は息を吐いた。
娘も泣き止んでいる。
「びっくりした」と打とうとして、親指が止まった。
スマホを持っているのが、右手だった。
画面の右端に、指が入り込んでいる。
いつもと逆の側だ。
美月は、スマホを左手に持つ。
右手は、ハーモニカのために空けておく。
鏡像だ。
再接続で、反転の設定が戻ったんだ。
そう考えて、少しだけ楽になった。
「今日、吹かなかったね」と打った。
美月は答えない。
歩いている。
街灯が後ろへ流れる。
その後ろで、ハーモニカが鳴った。
ふるさとの出だし。
トンネルの中から。
遠くで、丸く膨らんだ音。
画面の中の美月は、振り向かない。
足も止めない。
四小節のところで、音が途中で切れた。
息が足りなくなったみたいに。
「後ろ」と打った。
カメラが揺れて、美月の顔が映った。
目がコメントの位置に落ちている。
読んだはずだ。
それでも、振り向かなかった。
歩いている。
右手でスマホを持ったまま。
にいまるさんのコメントが流れた。
「ただいま」
私は娘を布団に下ろして、固定電話の子機を取った。
美月の番号は、娘が生まれる前から短縮に入れてある。
配信は、まだ続いている。
呼び出し音。
イヤホンの中でも、呼び出し音が聞こえた。
配信の音の中で。
美月の後ろ。
トンネルの奥から、小さく。
画面の中の美月は、右手のスマホを見なかった。
鳴っていないみたいに。
歩いている。
三回目の呼び出し音で、通話が繋がった。
「もしもし」
私の声だけが、子機の中で返った。
相手は何も言わない。
息の音がする。
深く吸って、吐く。
吸って、吐く。
吐く息に、ひょう、と細い音が混じる。
ハーモニカを吹く前の、あの息。
画面の中の美月の口は、動いていなかった。
子機を耳から離した。
息の音は、まだ続いている。
イヤホンの中では、足音が一人分。
すぐそばで、乾いた、硬い靴底の音。
子機の中では、同じ足音が、息の向こうで遠ざかっていく。
秦野駅のほうへ。
赤いボタンを押して、スマホの画面を伏せて、娘の背中に手を置いた。
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