七十を過ぎてから、朝が早い。
四時には目が開く。
寝直す気にもなれず、台所で湯を沸かす。
薬缶が鳴るまでの間、窓の外が黒いのを眺めるのが癖になった。
シルバー人材センターの仕事を始めて、三年になる。
葛飾区の公園を回って、落ち葉を掃き、ごみを拾う。
担当は奥戸と立石のあたりだ。
相方は木下さんといって、六十二になる。
町工場を畳んで、この仕事に来た人だ。
手が大きく、箒の柄を握ると指が余る。
二人で八つの公園を分けている。
私が奥戸側の四つで、木下さんが立石側の四つ。
その中に、立石児童遊園がある。
立石様のある公園だ。
立石様のことは、子供の頃から聞いている。
地面から石の頭が出ているだけで、掘っても掘っても根が出ない。
根有り石と呼ぶ年寄りもいた。
触ると祟る。
寒くなると縮んで、暖かくなると戻る。
昔は膝の高さまであったのに、削って持っていく者が続いて、今の背丈になった。
そういう話を、母親が本気の顔で言うのだ。
さわるんじゃないよ、と。
今は鳥居と祠に囲われて、公園の真ん中に座っている。
地面から出ているのは指の幅ほどしかない。
知らない人が見れば、ただの灰色の石だ。
それでも、鳥居の内側に入る者はいない。
センターの係長も、初日に念を押した。
掃くのは鳥居の外まで。
内側には箒も入れるな。
石にはさわらない。
木下さんは笑っていた。
石ころ一つに大げさだ、と。
私は笑わなかった。
係長からは、新人の木下さんを見ていてくれと頼まれている。
班長といっても、年が上なだけの役だ。
センターの決まりで、一つ掃き終えるたびに写真を送る。
スマホの連絡用のアプリに、公園の全景を一枚。
班長の私がそれを見て、日報に丸をつける。
木下さんは機械いじりが好きで、スマホの扱いも私より上手い。
四時半頃から、写真が順に届く。
木下さんの写真は、いつも少し右に傾いている。
左手で撮るからだ。
私は湯呑みを片手に、台所でそれを眺める。
それが朝の仕事の始まりだ。
画面越しに、まだ暗い公園を四つ見て回る。
自分の分を掃きに出るのは、その後になる。
十一月に入って、朝の冷えが急にきつくなった。
台所の床が、靴下越しに冷たい。
その週の火曜だったと思う。
四時四十一分に、立石児童遊園の写真が届いた。
いつもの構図だ。
入口のほうから、ブランコ越しに鳥居を写している。
空はまだ黒く、街灯の光で鳥居だけが白く浮いている。
鳥居の右の柱の根元に、黒いものがあった。
ごみ袋くらいの大きさで、丸い。
指で広げてみた。
粗い画面になるだけで、形は分からない。
木下さんが集めた落ち葉の袋だろう。
そう思って、日報に丸をつけた。
七時に詰所で顔を合わせた。
詰所といっても、区の施設の裏の物置だ。
石油ストーブを囲んで、報告を交わす。
灯油の匂いと、濡れた落ち葉の匂いが混じる場所だ。
「立石の、鳥居のとこに袋を置いたか」
聞くと、木下さんは首をひねった。
「袋はいつも入口の脇ですよ」
「柱の根元に黒いのが写ってた」
「ああ、猫じゃないですか。でかいのがいますから」
猫にしては大きい。
口には出さなかった。
寒いと猫も丸くなる。
そういうことにした。
帰りに、立石児童遊園の前を通った。
鳥居の右の柱の根元には、何もない。
落ち葉が一枚、低い柵に引っかかっているだけだった。
自転車を降りずに、通り過ぎた。
翌朝も、同じ時刻に写真が来た。
四時三十九分。
今度は黒いものが、鳥居の左の柱にいる。
昨日より少し低い。
横に長く、こちらに背を向けた背中に見える。
猫ではない。
猫なら、背中に肩はない。
湯呑みを置いて、電話をかけた。
木下さんはもう次の公園へ向かう途中らしかった。
自転車のきしむ音が、声の後ろで鳴っている。
「左の柱のとこ、何か置いてあったか」
「何もないですよ。昨日の猫でしょう」
「猫より大きい」
「写真の加減じゃないですか。暗いし」
電話の向こうで、信号の音が鳴った。
木下さんの声は乾いていて、話を切りたがっている。
それ以上は聞けなかった。
年寄りの思い過ごしと言われたくなかったのだ。
写真をもう一度広げる。
背中に見える。
けれども、柱の影が重なっているだけだとも言えそうだ。
見れば見るほど、形が決まらない。
目をつむって、湯を飲んだ。
気のせいだ。
そう決めて、丸をつけた。
その日、自分の担当を掃きながら、何度も立石のほうを見た。
奥戸の公園から立石は、中川を挟んですぐそこだ。
本奥戸橋の向こうに、屋根が重なっているだけで、公園は見えない。
見えないのに、目が行く。
箒を動かす手が、何度も止まった。
三日目の朝だ。
目が覚めたのが三時五十分。
いつもより早い。
台所で薬缶を火にかけたところで、スマホが鳴った。
三時五十八分。
立石児童遊園の写真だった。
木下さんが家を出るのは四時と決まっている。
立石児童遊園まで、自転車で二十分はかかる。
この時刻に写真が届くわけがない。
送り主の名前は、木下さんになっていた。
構図は同じだった。
傾きだけが、ない。
鳥居は白い。
空は黒い。
ブランコの鎖が、街灯を受けて二本光っている。
黒いものは、鳥居の内側にいた。
柱ではない。
祠の手前だ。
低い柵よりも低く、しゃがんでいる。
人の背中だ。
首の後ろの、襟から出た皮膚の白さまで写っている。
片方の手が、地面についていた。
その手の先は、石のほうを向いている。
薬缶が鳴り出した。
火を止める手が、何度も空を切った。
指先に、感覚がなかった。
湯呑みを取ろうとして、縁を掴みそこねている。
私は木下さんに電話をかけた。
三回鳴って、出た。
「はい」
声が小さい。
息が白くなる音まで聞こえる気がした。
「今どこだ」
「立石です。今日は早く出たんで、今着いたとこ」
「写真を送ったか」
「まだです。これからですよ」
それなら、三時五十八分の写真は誰が送ったのか。
私はそれを言えなかった。
言えば、木下さんは鳥居のほうを見る。
見てしまったら、戻れない気がした。
「鳥居の中に、誰かいるか」
「いませんよ」
木下さんの声の後ろで、音がした。
コン、コン、コン。
木を叩く音だ。
乾いた、間の揃った音。
公園の桜の幹を、拳で叩いているような音だ。
「今の、何の音だ」
「何がです」
「木を叩いてるだろう」
「何も聞こえませんけど」
コン、コン、コン。
また鳴る。
今度は少し近い。
木下さんの靴が砂利を踏む音が、重なった。
「ちょっと見てきます」
「行くな」
「桜のほうですよね。誰かいるのかな」
私は台所の壁に手をついていた。
電話の向こうで、靴音が進む。
叩く音は止まらない。
木下さんが桜に近づくほど、音は遠くなった。
今度は、入口の反対側から鳴っている。
「おかしいな。向こうだ」
木下さんの声に、笑いが混じった。
笑っているのに、声が震えている。
「木下さん、出ろ。今日は掃かなくていい」
「待ってください。画面にしますから」
電話が切り替わって、映像になった。
街灯の下の砂利。
揺れるブランコの鎖。
木下さんの息の音。
画面が上がって、鳥居が入った。
鳥居の内側に、人の背中があった。
写真と同じ格好だ。
しゃがんで、こちらに背を向けている。
片手を地面につけている。
木下さんは何も言わない。
見えていないのか、見えているのか、それも分からない。
画面の端で、木下さんの指が白く震えていた。
背中が、低くなった。
しゃがんでいたのが、さらに沈んだ。
地面についていた手が、手首まで土の中へ入っていった。
画面が黒くなった。
すぐにかけ直す。
呼び出し音が鳴るだけで、出ない。
三回かけて、やめた。
時計を見ると、四時十三分だった。
上着を着て、自転車を出した。
奥戸から立石までは、中川を渡って十分ほどだ。
本奥戸橋の上で、川風が頬を切った。
手袋を忘れていた。
指が動かない。
耳の奥で、まだコン、コン、と鳴っている。
ハンドルを握っているのか、握らされているのか、分からなくなる。
考えながら漕いだ。
酔っ払いが寝ていたのだろう。
住むところのない人かもしれない。
木下さんが悪ふざけで、仲間に頼んだのかもしれない。
叩く音は、近所の誰かが物干しを直していた。
写真の時刻は、スマホの時計が狂っていた。
どれも、頭の中では通る。
通るのに、腹の底が冷えたままだ。
胃が、小さく縮んでいる。
立石児童遊園の入口に、木下さんの自転車はなかった。
街灯はまだ点いていて、ブランコは止まっていた。
街灯の下で、鳥居だけが浮いている。
私は入口の柵のところで、足を止めた。
鉄の柵に手を置くと、冷たさが指に刺さった。
息が白く、街灯の光の中で散る。
柵を離れて、中へ進んだ。
砂利の上に、自分の足音だけが鳴る。
鳥居の内側には、誰もいない。
しゃがんだ背中も、土についた手もない。
祠の前の地面は、落ち葉が一枚もなく掃かれていた。
箒の筋が、鳥居の内側まで続いている。
木下さんは、内側には箒を入れない。
係長に言われた日から、一度も入れていないはずだ。
私は鳥居の外に立ったまま、石の頭を見た。
指の幅ほどの、灰色の石。
いつも通りだ。
触らないし、近づきもしない。
胸の中で、母親の声がした。
さわるんじゃないよ。
桜の幹に目をやった。
叩かれたような跡はない。
桜の根元に、竹箒が一本倒れていた。
木下さんの箒だ。
柄に、木下さんが巻いた青いテープがある。
拾わなかった。
拾っていいものか、分からなかった。
鳥居の外のものなのに、手が伸びない。
砂利を踏んで、入口まで戻った。
背中に、誰かの視線があるかどうか、確かめなかった。
七時に詰所へ行くと、木下さんがストーブの前にいた。
顔色は普通で、湯気の立つ茶を飲んでいる。
「おはようございます。今日は冷えますね」
「電話に出なかったな」
「電話、ですか」
木下さんはスマホを出して、履歴を見せた。
今朝の着信は一件もなかった。
私の履歴には、四時四分から六分二十秒の通話が残っている。
その後、かけたのに出なかった記録が、三件。
「写真は送ったか」
「送りましたよ。四つとも」
木下さんの送信の一覧には、立石児童遊園の写真があった。
四時三十八分。
私が公園に立っていた頃だ。
鳥居は白く、内側には何もない。
私の端末にも、その写真は四時三十八分に来ていた。
見た覚えがない。
三時五十八分の写真は、木下さんの側にはなかった。
私のスマホには、ある。
三枚とも、ある。
火曜の袋。
水曜の背中。
木曜の、鳥居の内側のしゃがんだ人。
「箒を桜の下に忘れてるぞ」
私が言うと、木下さんは物置の隅を指した。
青いテープの箒が、そこに立てかけてあった。
「ずっとここですよ。今日は予備のを使いましたから」
私は何も言えなくなった。
木下さんは、何も覚えていないのだ。
私の電話に出たことも、映像にしたことも、桜に向かって歩いたことも。
それならあの六分二十秒、私は誰と話していたのか。
ストーブの熱が顔に当たっているのに、背中だけが冷えていた。
木下さんは翌週、班を替わった。
本人から係長に頼んだらしい。
理由は聞いていない。
最後の日に、木下さんは一度だけ言った。
「立石のあそこ、朝は行かないほうがいいです」
笑いながら言った。
目は笑っていなかった。
何を見たのか、聞かなかった。
聞いたら、こちらが答えなければならなくなる。
立石児童遊園は、今は別の若い人が掃いている。
写真は毎朝、四時四十分頃に届く。
鳥居の内側には、何もない。
私は今も、台所で湯呑みを持って、それを確かめる。
確かめてから、丸をつける。
三枚の写真は、消していない。
消そうと思ったことはあるが、指が止まった。
コンビニで印刷して、日報の綴りに挟んだ。
火曜の黒いものは、柵の上まで届いている。
水曜の背中は、柵の半分。
木曜の人は、柵より下にいる。
並べると、日ごとに低くなっている。
その週は、朝の気温が毎日下がっていた。
三枚の写真の下に、木下さんの日報がある。
火曜も水曜も木曜も、立石児童遊園の欄は同じだ。
木下さんの字で、異常なし、と書いてある。
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