十月の土曜日。
昼の皿を流しに運んだところで、澪がスマホを突き出してきた。
「これ、見て」
縦長の動画が流れている。
揺れる画面に、木の桶が映った。
石の台の上に、取っ手のついた木の手桶が一つ。
柄杓が横に渡してある。
桶の板が一枚だけ割れていて、割れ目に赤い紐が通してあった。
撮っている人の息づかいだけが聞こえる。
画面の端、石の囲いの向こうに、白い服の人が立っている。
背中だけ。
上から下まで白い。
撮っている人は、それに触れない。
桶ばかり映している。
やがて、遠くでスピーカーの放送が鳴った。
声は割れていて、何を言っているのか聞き取れない。
画面が地面を向く。
砂利と、スニーカーのつま先。
最後にザッと雨のような音がして、動画は切れた。
「で、なに」
「芦花公園の墓地。四時半の放送のあと、もう一回放送が流れるんだって。それが鳴ってるあいだ、白い人が歩くの。下向いて歩けば平気。顔上げたら目が合うって」
真帆は皿を洗う手を止めなかった。
五年生の教室で回っている話だ。
投稿したのは同級生の兄らしい。
先週の土曜に撮ったと書いてある。
再生の数は、まだ三百にもなっていない。
白い服の人は、お参りに来た誰かが写り込んだだけだ。
「行かないよ」
「見るだけ。四時には帰る」
「墓地だよ」
「公園の中だもん」
その言い方に、真帆は蛇口を閉めた。
蘆花恒春園は家から歩いて十五分だ。
八幡山駅の南、粕谷の住宅地に埋まるように広がっている。
春はさくらまつりで行った。
ドッグランの柵越しに犬を眺めたこともある。
園の奥に古い墓地があるのは知っていた。
入ったことはない。
用がなかったからだ。
断れば、澪は友達と行く。
それが分かっていた。
四年生の夏、駄目と言われたのを黙って、一人で八幡山の駄菓子屋まで行った子だ。
だから一緒に行く。
放送なんて、ただの放送だ。
四時のを本人の耳で聞かせて、暗くなる前に帰る。
それで終わりにする。
「四時になったら出るからね。桶も石も、何も触らない」
「はあい」
三時半に家を出た。
日はもう低く、屋根の影が道路の半分まで伸びている。
半袖では肘が冷えた。
澪は白いキャップをかぶって先を歩く。
真帆が手を出すと、腕を引っ込めた。
五年生になってから、外で手をつないだことは一度もない。
八幡山駅の前を通り、住宅地に入る。
澪は三歩先を歩き、角ごとに振り返って真帆を待つ。
待つくせに、並ぶと離れる。
その距離の取り方が、ここ半年の澪だ。
環八の車の音が遠くなるころ、園の生け垣が見えてきた。
入口を抜けると、竹の匂いがする。
モウソウチクの竹林が、道の両側で風に鳴っていた。
花壇にはコスモスの残りが揺れている。
草地広場では小さい子が三人、ボールを追いかけていた。
その奥がクヌギとコナラの雑木林だ。
落ち葉が厚くて、靴の下でぱきぱき鳴る。
旧宅と記念館と墓地は、腰の高さの柵で囲われた区画の中にある。
開いているのは朝九時から四時半まで。
雑木林の中の戸口に、看板でそう書いてあった。
戸口を抜けて、区画に入る。
茅葺きの母屋の前を、年配の夫婦がゆっくり歩いている。
紺の上着と、茶色のカーディガン。
係の男の人が、記念館の戸口で箒を使っていた。
真帆は少し安心した。
人がいる。
ただの史跡だ。
「こっち」
澪が母屋の脇を抜け、木立の南へ折れる。
木立の間に、低い石の囲いが見えてきた。
墓地だ。
思っていたより小さい。
クヌギの幹に挟まれて、石が二つ三つ、落ち葉に半分埋まっている。
真帆は澪のキャップのつばを押さえた。
「中に入らない。道から見るだけ」
「分かってる」
墓地の手前に、石の台があった。
水場だ。
蛇口が一つ、台の上に手桶が一つ。
木の桶で、柄杓が横に渡してある。
板が一枚、割れている。
割れ目に赤い紐。
真帆は足を止めた。
動画の桶だ。
いや、墓地の水場なら桶はどこも似たようなものだ。
割れた板に紐を通して補強するのも、よくある話だ。
桶の内側が濡れていた。
台の縁に、水の玉が並んでいる。
今しがた誰かが使ったばかりの濡れ方だ。
周りを見た。
年配の夫婦は母屋の方にいる。
係の人は記念館だ。
木立の間に、人の影はない。
蛇口は閉まっている。
掃除したのだろう。
係の人が、四時の前に桶を洗った。
それだけのこと。
真帆はそう決めて、澪の肩を押した。
「ほら、もう見たでしょ」
「まだ四時になってない」
澪は水場から離れない。
桶に手を伸ばしかけたので、真帆は手首をつかんだ。
「触らないって言ったよね」
「見るだけだって」
言い合っているうちに、スピーカーが鳴った。
チャイムが三つ。
女の人の声が、旧宅と記念館の入場時間が終わりだと告げる。
声は少し割れていて、木立に反響した。
放送が終わる。
ふつうの放送だ。
真帆は澪の顔を見た。
「今、名前呼ばれた」
澪が、真帆の袖を引いた。
「呼んでないよ」
「澪って言った。最後」
「最後は、ご協力をお願いしますって言ったの」
真帆は聞いていた。
確かにそう聞こえた。
でも澪の顔は青い。
下を向いたまま、キャップのつばで視界を狭めている。
真帆は木立の向こうに目をやった。
旧宅の方に、白いものが立っている。
年配の夫婦ではない。
夫婦は紺と茶だ。
人の背丈で、上から下まで白い。
目をこすった。
白いのは母屋の障子だ。
戸が開いていて、障子が外の光を受けて白い。
それだけのこと。
動画を見すぎて、目が勝手に作った。
真帆は自分にそう言った。
言いながら、首の後ろが冷えていく。
肘の冷えとは別の冷え方だ。
「出るよ」
出口は、来たときの戸口一つ。
墓地の道を戻り、戸口を出て、雑木林を抜け、草地広場に出る。
それしかない。
係の人が戸口を閉めるまで、まだ三十分ある。
時間は十分だ。
ところが、澪が歩かない。
下を向いたまま、足が止まっている。
「四時半まで待つ」
「何言ってるの」
「二回目が鳴るか、確かめる」
「鳴らないよ」
「鳴らなかったら帰る。約束する」
真帆は腕時計を見た。
四時五分。
放送は、閉園のときにもう一回鳴る。
あと二十五分、ここで立っている。
それが澪の条件だ。
無理に引っ張れば、澪は泣く。
泣けば、この場所で騒ぐことになる。
母屋の方の夫婦が、こちらを見ていた。
真帆は息を吐いた。
「柵の外で待つ。中じゃない」
来たときの戸口を出て、柵の外の雑木林の道に立った。
柵の内側に水場と墓地が見える。
距離は十歩ほど。
草地広場へ戻る道は、この柵に沿って水場の横を抜ける。
木立の影が長くなり、落ち葉の色が沈んでいく。
風が止むと、遠くの車の音だけになった。
カラスが一度鳴いて、それきりだ。
澪は真帆の横で、ずっと地面を見ている。
白いキャップのてっぺんだけがこちらを向いていた。
真帆は澪の肩に手を回しかけて、やめた。
触れば、怖がっていると認めることになる。
母親が平気な顔をしていれば、子どもは平気になる。
そう思って、腕を組んだ。
組んだ腕の内側が、汗で湿っていた。
十月の夕方だ。
汗をかく気温ではない。
真帆は腕時計を見た。
四時二十分。
係の人が記念館の戸を閉めて、鍵をかける音がした。
母屋の戸も閉まっている。
障子の白は、もう見えない。
年配の夫婦が戸口から出て、二人の横を通り、広場の方へ去っていった。
真帆は水場を見た。
桶は台の上にある。
柄杓も、そのままだ。
係の人は、桶を片づけに来ない。
木立の奥で、落ち葉が一度だけ沈む音がした。
鳥だ。
鳥の重さで鳴る音だ。
四時二十八分。
四時二十九分。
チャイムが三つ鳴った。
女の人の声。
本日の開園時間は終了しました。
お忘れ物のないよう、お気をつけてお帰りください。
放送が終わる。
雑木林に反響が残り、消えた。
真帆は澪の頭に左手を置いた。
「ほら。終わり」
澪が顔を上げかけた、そのとき。
チャイムが、もう三つ鳴った。
真帆の手の下で、澪の頭が固まった。
女の人の声。
同じ声だ。
同じ割れ方で、同じ抑揚で、同じ文句を、もう一度。
本日の開園時間は終了しました。
一字も違わない。
真帆は、自分の右手を見た。
澪の左手を握っていた。
いつつないだのか、分からない。
澪の指が、骨が鳴るほど強く締まっている。
「お母さん。見ないで」
澪の声は、地面に向かって落ちた。
真帆は、見た。
柵の内側。
水場の石の台。
その前に、誰かが立っている。
背中をこちらに向けて。
白い上着。
白いズボン。
動画の端にいた、あの白だ。
肩の線が、やけに低い。
片手に、木の手桶を提げている。
割れた板の赤い紐が、提げた手の下で揺れていた。
靴が見えた。
白いスニーカーの踵が潰れて、裸足の踵が半分はみ出している。
足首が黒い。
白いのに、そこだけ黒い。
濡れて黒い。
それが、桶をゆっくり傾けた。
真帆は目を下げた。
砂利に、水が落ちる音がする。
ザッ、と。
動画の最後の音だ。
雨の音だと思っていた。
息を止めて歩いた。
澪の手を引く。
いや、引かれている。
澪の方が先に足を出していた。
柵に沿って、水場の横を抜ける。
柵一枚、隔てて。
匂いが来た。
線香ではない。
濡れた土と、花立ての古い水の匂い。
腐った茎を抜いたときの、あの匂いだ。
左の足首に、冷たいものがかかった。
水だ。
靴下の中まで染みる。
真帆は足を止めなかった。
砂利を踏む音が、すぐ横にある。
自分と澪の足音は、落ち葉の上だ。
砂利を踏んでいるのは、誰か別の足だ。
横に並んでいる。
同じ速さで。
息の音はしない。
目の端に、白いものが並んで動いている。
澪のキャップか、柵の向こうか。
確かめなかった。
雑木林を抜けた。
草地広場に出る。
ボールを追っていた子たちはいない。
空の端がオレンジで、竹林の上は紺に沈んでいた。
砂利の音は、ない。
真帆は、まだ下を向いていた。
「もういい」
澪の声がした。
真帆は顔を上げた。
草地広場。
ベンチ。
遠くの街灯が点きはじめている。
後ろは見なかった。
落ち葉を踏む足音が追いついてきた。
係の男の人だ。
さっき出た戸口から来たらしく、南京錠を手に持っている。
二人の横に並んで、広場を横切る。
真帆は、口が勝手に動いた。
「今の放送、二回鳴りましたよね」
係の人は南京錠を見て、それから真帆を見た。
「四時と、四時半ですね。終了の放送は一回ですよ」
「そのあとに、もう一回」
「うちは一回です」
「水場の桶、まだ出てましたよね」
係の人は柵の方に目をやった。
「手桶は四時に全部しまってますから。あの台には何も出てませんよ」
四時に、しまった。
真帆は四時二十分に桶を見ている。
口に出そうとして、やめた。
言えば、係の人は柵の中を見に行く。
一緒に来てくださいと言われるかもしれない。
「白い服の方、まだ中にいらっしゃいますか」
「今日の最後は、ご夫婦お二人だけでしたよ」
真帆は振り向かなかった。
澪が手を引いたからだ。
「お母さん、帰ろう」
帰り道は、芦花公園駅の方へ回った。
八幡山への近道は、園の生け垣に沿っている。
あの垣根のそばを歩きたくなかった。
遠回りでも、明るい商店街を通る方を選んだ。
駅前のコンビニの光が、やけに白く見えた。
澪は一度も手を離さなかった。
真帆の手の中で、澪の指は氷みたいに冷えている。
横を歩く白いキャップを、真帆は一度、見間違えた。
何と見間違えたのかは、考えないことにした。
左の靴下は、家に着くまで濡れたままだった。
その日は、一滴も雨が降っていない。
玄関で靴を脱いだ。
左の靴の中が、黒く湿っていた。
右は乾いている。
真帆は靴下を袋に入れて、口を縛った。
理由は自分でも分からない。
風呂から上がった澪が、髪を拭きながら来た。
いつもなら真帆が拭く。
今日は自分で拭いて、真帆の隣に座った。
肩と肩が触れる近さだ。
「動画、消えてた」
「西村くんのお兄ちゃんが消したんでしょ」
「さっき西村くんから返事きた。先週の土曜、お兄ちゃん、部活で試合だったって」
「じゃあ誰が撮ったの」
澪は答えなかった。
真帆も、それ以上は聞かなかった。
聞けば、誰が撮ったのかを考えることになる。
週が明けて、ふつうの日に戻った。
澪は学校へ行き、真帆は仕事へ行き、夕飯の支度をして、皿を洗う。
教室でも、あの動画の話はもう出ないらしい。
一つだけ、変わったことがある。
澪が、外で手をつなぐようになった。
真帆が出す前に、向こうから握ってくる。
五年生になってから、一度もなかったことだ。
スーパーへ行く道でも、駅までの道でも。
握る力は、あの日と同じ強さだ。
握ったまま、粕谷の住宅地で蘆花恒春園の生け垣にさしかかると、二人とも顔を伏せる。
砂利は、敷いてない道だ。
それでも、靴の横で小さく鳴ることがある。
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