小学四年の夏休みだった。
うちは世田谷の岡本で、小さな植木屋をやっていた。
店といっても、鉢と肥料と苗を並べた土間と、帳場の手提げ金庫があるだけ。
油かすの袋の匂いが、夏はきつくなる。
用賀駅から歩いて十五分ほど、砧公園の手前の道沿い。
看板は父の字で、少し右に傾いている。
父は庭師で、昼間はほとんど現場に出ている。
母が店番をして、わたしは奥で宿題をするのが夏の決まりだった。
その日は違った。
母が用賀まで出る用事があって、三時までわたし一人で店を見ることになった。
釣り銭は金庫の中。
分からない客が来たら、夕方また来てくださいと言えばいい。
裏口は風を通すために開けておくから、閉めないこと。
母はそう言い残して、自転車で出ていった。
時計は十二時を少し回っていた。
店の前の道は、東名高速の高架に沿って曲がっている。
頭の上を、トラックが途切れずに走る。
ゴーッという音が、夏はいつもより低く聞こえた。
扇風機を首振りにして、わたしは帳場の椅子に座った。
麦茶のコップに、水滴がついて落ちる。
それを指でなぞって、時間をつぶしていた。
宿題は「夏の音を集める」というやつだった。
父のラジカセに九十分テープを入れて、聞こえた音を録っていく。
録ったらノートに、何時に、どこで、何の音か書く。
蝉。
扇風機。
高速の音。
砧公園の広場の声も、前の週に録ってある。
もう十個は集めてあった。
今日は家の中の音を足すつもりでいた。
店の奥に、父の作業場がある。
土間続きで、窓はない。
壁の釘に鋸が三本と、鉈が一本。
棚には目立て用のヤスリが並んでいる。
父は仕事から帰ると、そこで鋸の目を立てる。
シャッ、シャッ、と一定の間で鉄を擦る音。
その音を聞くと、父が帰ってきたと分かる。
わたしはその音が好きだった。
父にはひとつ、決まりがあった。
生木は現場で切る。
作業場では切らない。
持ち込むのは乾いた材だけ。
理由は聞いたことがない。
作業場の床に木屑が落ちていても、それはいつも白くて乾いていた。
鼻を近づけても、埃の匂いしかしない。
もうひとつ、父が受けない仕事があった。
砧公園の裏、東名の高架の脇に、第六天の森と呼ばれる場所がある。
森といっても、残っているのは木が一本と、切り株がひとつ。
ガードレールが不自然に折れて、道がそこだけ大きく膨らんでいる。
切り株の後ろには鉄の柵があって、その向こうは暗い。
昼でも、そこだけ日が入らない。
切ると祟る。
枝を払った家は、人が病む。
東京の五輪の前に道を広げたとき、あの木だけ切れなかった。
重機が止まって、道のほうを曲げた。
近所の子は、みんなそう聞かされて育った。
本当かどうかは、誰も確かめていない。
わたしは自転車で前を通るだけで、ガードレールの内側には入ったことがない。
入ろうとも思わなかった。
通るときは、立ち漕ぎで一気に抜ける。
カーブの内側を見ないように、頭上の高架ばかり見て漕ぐ。
砧公園へ行く近道だから、通らないわけにもいかない。
高架の橋の銘板には「大六天橋」と彫ってある。
父の帳面では「第六天」だった。
字が違う、と言ったら、父は「同じもんだ」とだけ答えた。
第六天様は、今は岡本八幡さまの境内に移ってる。
だから跡には何もない。
何もないけど、手は出さない。
父はそう言っていた。
春に一度、その橋の下の家から電話があった。
塀に枝がかかってきて、切ってほしい。
父は断った。
「うちはあそこはやらない」
父が受話器を耳に当てたまま、しばらく黙っていたのを覚えている。
父は受話器を置いて、帳面に短く何か書いた。
金額の欄は空いていた。
あとでのぞいたら「第六天 枝 不受」とだけある。
断った仕事が帳面にあるのを、わたしはそれまで見たことがなかった。
話を戻す。
一時を過ぎた頃だった。
奥の作業場から、シャッ、と音がした。
鉄を擦る音。
父だ、と思った。
現場が早く終わって、裏口から入ったんだろう。
「おかえり」
声をかけたけど、返事がない。
シャッ、シャッ。
音だけが続いた。
わたしは椅子を降りて、作業場の戸を引いた。
誰もいない。
鋸は三本とも釘にかかっている。
ヤスリも棚の上。
裏口の戸が、風で半分ほど開いていた。
戸の縁に下げた鉄の表札が、揺れて壁に当たっている。
カチ、カチ。
これか、と思った。
鉄が鉄に当たる音と、ヤスリの音は似ている。
戸を閉めて、帳場に戻った。
胸のつかえは取れていた。
ラジカセをカウンターに置いて、録音ボタンを押す。
時刻を小さく吹き込む。
扇風機のうなり。
高架の低い音。
ノートに「十三時十分 店 扇風機と高速」と書いた。
字を書く間も、トラックの振動が指に伝わってくる。
カウンターの鉛筆が、少しずつ端へ寄っていく。
あれは夏の間ずっとそうだった。
電話が鳴ったのは、その少し後だ。
黒い電話機の受話器を取ると、女の人の声だった。
「岡本の、橋の下の者ですけど」
声は低くて、ゆっくりしていた。
「枝のこと、いつ来てもらえます」
父は出ています、と答えた。
夕方また掛けてください、とも言った。
「もう、十一年も待ってるんですけど」
息を吸う音が、受話器の奥で聞こえた。
十一年。
春に掛けてきたばかりなのに、と思った。
聞き間違いかもしれない。
聞き返す前に、向こうが続けた。
「じゃあ、こっちで切っておきます」
それで切れた。
ツー、という音だけが残った。
受話器を置いたあと、手のひらが湿っていた。
受話器にも、指の形に汗がついている。
別に、変なことは言われていない。
断られた客が、自分で切ると言っただけ。
十一年は、聞き間違い。
そう思うことにした。
扇風機の首が戻ってきて、顔に風が当たる。
それで少し、息が楽になった。
ノートには、何も書かなかった。
書くと、残る気がした。
二度目の音は、二時前だった。
シャッ。
シャッ。
さっきより間が揃っている。
一回ごとに、きっちり同じ長さで空く。
父が目立てをするときの間と、同じだった。
わたしは立たなかった。
さっきと同じ、表札だ。
でも、表札はカチ、という音で、擦る音とは違う。
そこまで考えて、ラジカセを持ち上げた。
変わった音は、点が高い。
先生がそう言っていた。
録りに行く理由なら、ある。
店を空けるわけでもない。
奥をのぞくだけだ。
作業場の戸口まで行って、録音ボタンを押した。
音は、戸を開けた瞬間に止んだ。
中は暗い。
鋸は釘にかかったまま、揺れてもいない。
ヤスリは棚の上に並んでいる。
土間の隅に、父が戸止めに使っている木の瘤が転がっていた。
こぶし二つ分の、硬い塊。
戸口から見ると、瘤のくぼみが二つ、こっちを向いている。
目に見える。
前からそうだった。
瘤はただの瘤だ。
裏口の戸は、さっきより開いていた。
外は白い日差しで、高架の柱の影が地面に落ちている。
風はなかった。
表札も揺れていない。
トラックの振動で鋸が震えたんだ。
高架の真下なんだから、鉄くらい鳴る。
そう思って、戸を閉めた。
母の言いつけとは逆だけど、閉める。
掛け金まで落とした。
戸を閉めると、土間の空気が一段重くなる。
肥料と埃と、汗の匂い。
それだけだ。
ラジカセを戻して、椅子に座り直す。
テープの残り時間を見ると、まだ半分以上ある。
時計は二時を回った。
蝉が、店の前の桜の木で鳴き出した。
客は一人も来ない。
いつもと同じ午後だった。
三度目は、音の出どころが変わった。
シャッ、シャッ。
奥からじゃない。
帳場のすぐ後ろ、肥料の袋を積んだ棚の向こう側から聞こえた。
壁を一枚挟んだ、作業場の壁際。
鋸をかけた釘のある、あの場所。
間は、やっぱり揃っていた。
一回、二回、三回。
数えていたら、擦る音の下に、別の音が混じった。
葉が擦れる音。
枝を揺すったときの、あの乾いた音。
作業場に窓はない。
木もない。
それから、声がした。
「切っときましたから」
電話の女の人の声だった。
受話器は、帳場の上に置いたままだ。
わたしは帳場から動けなかった。
動けないというより、膝が勝手に笑って、立てなかった。
背中の汗が一気に冷えた。
扇風機の風が、冷たい水みたいに首筋を通る。
奥を見に行く気は、起きなかった。
椅子から滑り降りて、店の前の道へ出た。
高架の柱のそばに立つ。
人が通る側。
車が見える側。
日差しが頭のてっぺんを焼いた。
それでも中には戻らなかった。
店は開けっ放しで、金庫も帳場に出したまま。
誰かが入ったら、それはそれで困る。
困るけど、足が店のほうへ向かない。
柱のコンクリートに背中をつけて、通る車を数えていた。
背中が熱くて、シャツが張りつく。
高架の上を走るトラックの音が、ここだと腹に響く。
その音で、壁の向こうの擦る音を上書きしたかった。
母が帰るまで、一時間近くそこに立っていた。
母は三時少し前に帰ってきた。
日に当たりすぎだと叱られる。
裏口が閉まってる、とも言われた。
わたしが閉めた、と言ったら、母は首をかしげた。
「出るとき、鍵かけたけど」
開いていた、と言おうとして、やめた。
言っても、たぶん通じない。
麦茶を一気に飲んだら、歯の奥がしびれる。
父は暗くなってから帰ってきた。
電話のことを話す。
橋の下の家の人から、枝のことで掛かってきた。
自分で切ると言っていた。
父は飯を食う手を止めて、わたしの顔を見た。
しばらく黙って、それから「そうか」とだけ言った。
その夜、父は作業場に入らなかった。
鋸の目立ての音は、しなかった。
あの音がしない夜は、初めてだった。
布団の中で、高架の音だけを数えて寝た。
宿題のテープを聞き返したのは、次の日の朝だ。
父はもう現場に出て、母は店にいる。
わたしは奥の部屋で、ラジカセを膝に乗せた。
蝉。
扇風機。
高速の音。
砧公園の広場の、子どもの笑い声。
自分の声で「十三時十分」と言っている。
聞いていると、ただの夏だった。
その先に、作業場の戸口で録った分がある。
戸を開けた瞬間に止んだはずの音が、入っていた。
シャッ、シャッ。
揃った間で、鉄を擦る音。
その下に、葉の擦れる音。
もっと下に、小さく、数える声がある。
「ひとつ」
「ふたつ」
女の人の声だった。
数は十一で切れた。
十二は来ない。
そこで止めた。
停止ボタンが、やけに硬かった。
巻き戻す気にはなれない。
テープをラジカセから出して、ノートに挟んだ。
ラベルには自分の字で「夏の音」と書いてある。
その字を見て、録ったのは自分だと思い直した。
自分で録って、自分で聞いた。
それだけのことが、腹の底に重く沈んだ。
宿題には、電話と作業場の分を書かなかった。
「十三時十分 店 扇風機と高速」で終わりにした。
先生は赤ペンで「音が少ない」と書いた。
作業場に入ったのは、テープを聞いた日の昼だ。
母が店に出ている間に、戸を開けて、釘の鋸を見た。
真ん中の一本の歯に、木屑が噛んでいた。
白くない。
黄色くて、湿っていて、指でつまむと青い匂いがした。
切ったばかりの、生きた木の匂い。
作業場で生木は切らない。
父はそう言っていたし、前の日の夜は入っていない。
朝も入っていないと、母が言った。
木屑は、封筒に入れてノートの間に挟んだ。
テープと一緒に。
父には見せなかった。
父がその後、真ん中の鋸を釘から外すところを、わたしは見ていない。
橋の下の家の塀には、今も枝がかかっている。
払われた跡はない。
高架の脇で、道のほうへ垂れたままだ。
わたしは自転車で前を通るとき、そこだけ見ないで漕ぐ。
枝の先が、道へ垂れた分だけ、少し伸びた気がする。
測ったわけじゃないから、気のせいかもしれない。
ノートは机の引き出しにある。
封筒は、開けるとまだ青い匂いがする。
テープは、十一のところで止めたままだ。
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