十月の半ばの、金曜の夜だった。
拓海の仕事が長引いて、名古屋を出たのは九時半を回ってからだ。
行き先は、京都の清滝。
愛宕山の登り口にある、川沿いの小さな集落だ。
山が好きなのは拓海で、志保はいつもついていくほうだった。
今度の宿は、写真を見て志保が決めた。
川に張り出した縁側に、座布団が二つ並んでいる写真だ。
朝早くから登るなら、前の晩のうちに麓まで入っておきたい。
拓海がそう言うので、昼のうちに宿へ電話を入れておいた。
遅くなりそうだと伝えると、電話口の女将は笑った。
「うちの大旦那が、夜はずっと起きてはりますさかい」
「何時になっても、かましまへん」
京都南で高速を降りたのは、十一時半を回ったころだ。
嵯峨のほうへ向かうにつれて、町の明かりが減っていく。
志保は助手席で、スマホの地図を見ていた。
画面で見るかぎり、清滝へ通じる車の道は二つだ。
古い鉄道のトンネルと、山を越える峠道。
峠のほうは、清滝から出ていく向きにしか走れないらしい。
入るなら、トンネルの一本道だ。
トンネルの名前を打ちこむと、候補の二つ目に「心霊」と出た。
見なければいいのに、指が先に動いた。
開いたのは、古い掲示板のスレッドだ。
題は「清滝トンネルの信号」。
いちばん新しい書きこみでも、日付は何年か前だった。
「青で着いたら、呼ばれとる」
「止まって、一回赤を待て」
「抜けたとこの、下向いた鏡に自分が映るか見とけ」
「行きと帰りで、長さがちゃう」
似たような話が、言い方を変えて何度も出てくる。
行ってきた人の写真も、何枚か貼ってあった。
どれも、暗い口が一つ写っているだけだ。
「何読んでるの」
「トンネルの話。青信号だったら、一回待てって」
志保が読み上げると、拓海は鼻で笑った。
「青で待ってたら、後ろの車に鳴らされるって」
「夜中だもん。後ろなんて誰もいないよ」
言ってから、志保はなんとなくルームミラーを見上げた。
後ろの席には、暗がりが詰まっているだけだ。
愛宕念仏寺の前を過ぎて、少し走る。
杉の山が両側から迫って、道の上が暗くなる。
その先に、トンネルの口があった。
車一台がやっと通れる幅で、天井も低い。
鉄道だったころの口が、そのまま残っているのだと、スレッドに書いてあった。
入口の脇に、信号が一つ立っている。
信号は青だった。
拓海はブレーキに足をのせもせず、そのまま入っていこうとする。
「待って」
自分の声が、思ったより大きく車の中に響いた。
「止まって。お願い」
車は停止線の手前で、前へつんのめって止まった。
ダッシュボードの時計は、零時三分。
「青だよ」
「分かってる。一回だけ、赤を待って」
拓海は何か言いかけて、ハンドルから両手を下ろした。
「一回だけな」
青は、しばらく続いた。
黄色になって、赤に変わる。
向こうから来る車は一台もない。
後ろは、来た道の暗さがそのまま続いている。
トンネルの中には、明かりが間をあけて並んでいる。
奥へいくほど、明かりは小さく、間がつまって見えた。
赤は長かった。
エンジンの低い音が、車の中にこもる。
志保は窓を指二本ぶん下ろした。
冷えた空気が、すきまから入ってくる。
濡れた石と、苔の匂いがした。
水の落ちる音が、ぽつ、ぽつと続く。
その音のあいだに、歌がまじった。
かごめ、かごめ。
子どもの声が、何人か揃って歌っている。
ずっと奥の、明かりの届かないあたりからだ。
「聞こえる?」
「何が」
「歌。子どもの」
拓海は首をかしげて、窓のほうへ耳を寄せた。
「水の音しかしないけど」
歌は、うしろの正面、のところでふっと切れた。
続きを待っても、戻ってくるのは水の音ばかりだ。
手の中のスマホは、さっきのスレッドを開いたままだ。
親指で画面を下に引いて、読みこみ直す。
いちばん下に、書きこみが一つ増えていた。
「南で一台、赤を待っとる」
書かれた時刻は、零時六分。
画面の上の時計も、零時六分を指している。
信号が青になった。
拓海が、ゆっくりアクセルを踏む。
志保はスマホを伏せて、膝の上に置いた。
誰かが近くで見て、ふざけて書いたのだ。
そう考えかけて、やめた。
赤のあいだに動いた明かりといえば、信号の色だけだ。
トンネルの中は、外から見たよりも狭かった。
壁ぎわに白い線が引いてあって、人や自転車はその内側を通るらしい。
壁には、ところどころくぼみがある。
鉄道のころ、作業の人が列車をよけるための穴だったという。
くぼみの奥まで、明かりは届かない。
一つ、二つと数えているうちに、出口の明かりが近づいてきた。
抜けたところは、広場になっていた。
バスが向きを変えるための場所で、昔は駅があったらしい。
志保は首をのばして、上のほうを見回した。
下を向いた鏡は、どこにもなかった。
暗がりに、バス停の標識が一本立っているだけだ。
「ほら。話が半分違うじゃん」
拓海が言って、少しだけ笑った。
宿は、広場から川のほうへ坂を下りたところにあった。
拓海は宿の横の、川べりの空き地に車を入れる。
車を降りると、川の音が急に大きくなる。
拓海は鍵をかけて、その鍵を上着の右のポケットにしまった。
玄関の明かりの下に、背の曲がったおじいさんが立っていた。
女将の言っていた、大旦那だ。
「遠いとこ、よう来はりました」
帳場では、石油ストーブが燃えていた。
音を消したテレビに、通販の番組が映っている。
宿帳に名前を書いていると、おじいさんが聞いた。
「信号は、どないでした」
志保の手の中で、ペンが止まる。
「青だったので、一回、赤を待ちました」
「待ちはったんか」
おじいさんは宿帳から目を上げずに言った。
それから、ストーブのつまみを少しだけ絞る。
「あの決まりはな、このへんの者が言い出したこととちゃいます」
「電話やらパソコンやらで、よそから来た決まりや」
「前は、青で止まる人なんか、おらへんかった」
「待つ人が増えてから、待っとるもんも増えましてな」
何が待っているのかまでは、おじいさんは言わずにおいた。
志保が口を開きかけると、しわの深い手が先に上がった。
「名前は、言わんとき。言うたら、返事したことになるさかい」
拓海は、冷えた缶ビールを一本もらった。
首を回しながら、うまそうに飲んでいる。
志保の免許は、もう何年も財布の奥で眠っている。
おじいさんは、帰り道のことだけ念を押した。
「帰りは、峠を回りなはれ。こっちから出る一方やさかい」
「峠の上のほうに、下向いた鏡がありますけどな」
「見上げんで、よろし」
鏡は、トンネルを抜けたところより先の、峠のほうにあるらしい。
スレッドの書きこみは、場所がずれていた。
部屋は二階の、川に面した六畳だった。
窓の下に、空き地の車の屋根が見える。
隅には、古い鏡台が置いてあった。
鏡には、色の褪せた布が掛けてある。
麻の葉の柄だ。
「それは、うちの嫁が嵐山のほうのリサイクルショップで買うてきたもんで」
布団を敷きながら、おじいさんが言った。
「どこの家にあったもんかは、知りまへん」
志保は腕時計を外して、鏡台の小さな引き出しに入れた。
引き出しは、きし、と鳴って閉まる。
外す前に見た時計は、一時十分を指していた。
拓海は布団に入ると、すぐに寝息を立てはじめた。
川の音が、壁の向こうでずっと続いている。
志保は、豆電球の明かりで天井板の木目をなぞっていた。
腕時計は引き出しの中で、スマホは枕もとに伏せたままだ。
天井の上で、何かが走った。
軽い足音だ。
とん、とん、とん、と板を踏んで、部屋の上をぐるりと回る。
猫よりは軽く、ねずみよりは重い。
回って、また回る。
志保の布団を囲むように、輪を描いている。
数えはじめて、七つ目でやめた。
子どものころの遊びを、志保は思い出していた。
輪の真ん中にしゃがんで、両手で目をふさぐ。
まわりがぐるぐる回るあいだ、じっと待つのが鬼の役だった。
足音は、志保の頭の真上で止まった。
頭の後ろには、鏡台がある。
うしろの正面、という言葉が、勝手に口の中に浮かんだ。
首をそらして、鏡台を見る。
引き出しが、指一本ぶん開いていた。
さっき、きしむ音を聞いて閉めたばかりだ。
志保は布団から腕を伸ばして、引き出しを押しこんだ。
きし、と鳴って閉まる。
天井を見上げて、それからもう一度、鏡台を見た。
布の掛かった鏡の下で、引き出しがまた指一本ぶん開いている。
目を離していたのは、二つ数えるくらいのあいだだ。
枕もとで、伏せておいたスマホのまわりが光った。
裏返すと、あのスレッドが開いている。
書きこみが、もう一つ増えていた。
「まだ、回っとる」
時刻は、一時五十二分。
頭の上で、とん、とん、と足音がまた回りはじめた。
志保は隣の布団へ手をやって、拓海の肩を揺する。
「上で、何か走ってる」
拓海は片目だけ開けて、天井を見上げた。
足音は、もうしない。
「テンとかだろ。山の中なんだから」
そう言うと、拓海は寝返りを打って、また寝息を立てた。
テンが輪になって走るものなのか、志保は考えるのをやめた。
古い建物だから床が傾いていて、引き出しが滑って出てくるのだ。
そう決めて、川のほうへ寝返りを打つ。
鏡台のほうは、もう振り返らないことにした。
二時を少し過ぎて、またスマホが光った。
「もう、乗っとる」
書きこみは、それだけだ。
志保は起き上がって、窓のカーテンを細く開けた。
下の空き地に、車が停まっている。
その中が、ぼんやりと明るい。
車の中の明かりが、ついているのだ。
斜め上から、後ろの窓ごしに座席が見えた。
後ろの席に、白っぽいものが置いてある。
荷物は、宿に着いたときに全部部屋へ運んである。
「拓海、起きて。車の電気がついてる」
「このままだと、バッテリーが上がっちゃう」
帰れなくなる、と言うと、拓海はやっと体を起こした。
上着の右のポケットを探って、鍵を取り出す。
ビールを飲んだから、今夜はもう運転できない。
それは、二人とも分かっていた。
階段を下りると、帳場の明かりがまだついていた。
おじいさんが、ストーブの前に座っている。
二人を見ても、何も聞かずに小さくうなずいただけだ。
外は、上着の前を合わせるほど冷えていた。
川の音が、部屋で聞くよりずっと近い。
拓海が鍵を開けると、車の中の明かりがふっと消えた。
運転席のドアを開けて、拓海が天井のスイッチを確かめる。
ドアに合わせて点く位置に、入ったままだ。
「触ってないのにな」
拓海は、誰に言うでもなく言った。
後ろのドアを開けたのは、志保だった。
助手席の、ちょうど真後ろの座席。
そこに、布がきちんとたたんで置いてあった。
色の褪せた、麻の葉の柄。
部屋の鏡台に掛かっていた布だ。
拓海が、布と志保の顔を見比べた。
「お前、持って下りた?」
志保は唇を噛んだまま、首を横に振る。
口を開いたら、あの歌の続きが出てきそうだった。
志保は布をつかんで、宿の中へ駆け戻った。
階段を上がって、部屋の明かりをつける。
鏡台の鏡が、むき出しになっていた。
明かりを受けて、部屋の中をそのまま映している。
手の中の布は、鏡に戻す気になれずにわきに挟んだ。
志保は鏡の正面に立たないように、横から腕を伸ばした。
バスタオルを広げて、鏡にかぶせる。
自分が映っていたかどうかは、見なかった。
引き出しは、やはり指一本ぶん開いていた。
すきまから、腕時計の文字盤がこちらを向いている。
帳場に戻ると、拓海とおじいさんが向かい合っていた。
おじいさんは、志保の手にある布を見た。
しばらく黙ってから、両手を前に出す。
「それは、ここに置いていきなはれ」
受け取った布を、帳場の机の引き出しに入れる。
小さな鍵をかけて、その鍵を胸のポケットにしまった。
「後ろに乗せて帰ったら、あきまへん」
誰を、とは言わない。
志保も、聞き返さずにいた。
車を出せるのは、朝になってからだ。
二人は部屋に戻って、明かりをつけたまま横になった。
天井の上は、それきりしんとしている。
鏡台にかぶせたバスタオルも、朝まで同じ形のままだった。
腕時計は、明るくなるのを待って、引き出しに手だけ入れて取り出す。
朝の七時に、宿を出た。
愛宕山には登らずに帰ると、どちらが言い出すでもなく決めていた。
女将が玄関で、何度も頭を下げる。
おじいさんは帳場に座ったまま、峠のほうを指さしただけだ。
峠道は、思っていたより急だった。
拓海はギアを落として、ゆっくり上っていく。
上のほうに鏡があるのは、分かっていた。
志保は、膝の上の自分の手だけを見ていた。
拓海が一度だけ、上を見る気配がする。
「映ってた?」
志保が聞くと、拓海は少し間をおく。
「映ってた。二人とも」
二人とも、と言うところで、拓海の声がわずかにひっかかった。
峠を下りきるまで、拓海の口は閉じたままだ。
名古屋に戻って三日たった、火曜の夜。
志保はマンションの駐車場で、車の中に掃除機をかけていた。
助手席の背もたれの裏には、物入れのポケットがついている。
そこが、薄くふくらんでいた。
手を入れると、乾いた布の手ざわりがする。
引っぱり出すと、麻の葉の柄が出てきた。
小さく四つにたたまれている。
褪せた色も、角のほつれも、あの夜に見たとおりだ。
布は、指先がしびれるほど冷たかった。
おじいさんが机の引き出しに入れて、鍵をかけるのを、志保はこの目で見ている。
その鍵が、胸のポケットに消えるところも。
部屋に持って上がると、拓海はしばらく黙って布を見ていた。
「宿に、送り返そうか」
志保はうなずいて、封筒を出した。
宛名を書きかけて、ペンが止まる。
送る先は、あの鍵のかかる引き出しだ。
そこから、布はここまで来ている。
封筒は、宛名を半分書いたまま靴箱の上だ。
布は、志保の鏡台のいちばん下の引き出しに入れた。
鏡台は、結婚したときに家具屋で買った新しいものだ。
それでも夜、髪を乾かして部屋に戻ると、その引き出しが指一本ぶん開いている。
閉めて、背中を向ける。
振り返ったときには、もう開いていた。
すきまから、褪せた麻の葉が少しのぞいている。
志保はそのたびに引き出しを閉めて、鏡には目をやらずに明かりを消す。
あのスレッドは、スマホの履歴ごと消した。
拓海の運転で出かけるときも、志保は助手席に座る。
背もたれのすぐ後ろが、そのたびに少しだけ重い。
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