夜の十一時を過ぎると、早苗はミシンの電源を落とす。
大阪の古いマンションの四階で、ひとり暮らしをして八年になる。
昼は、歯科医院の受付の椅子が仕事場だ。
夜は古い着物の端切れで、巾着を縫う。
縫ったものは、フリマアプリに出している。
月に十個も売れれば、いいほうだ。
寝る前には、新しく出た古布を眺める。
麦茶を湯のみに入れて、布団の上で画面を送っていく。
正絹の羽織、銘仙の端切れ、色の抜けた帯。
古い布は、広げると樟脳と人の家の匂いがする。
値段と送料を見比べて、ほとんどは閉じる。
十月三日の夜、その出品が目に入った。
「古布 端切れ まとめて 早めに手放したいです」
三百円で、送料込み。
発送元は奈良県とある。
写真は一枚きりで、畳の上に布が積んであるだけだった。
光が足りず、柄はよく見えない。
それでも、段ボールひと箱分はありそうに見えた。
三百円なら、外れでも惜しくない。
指が先に、購入のボタンを押していた。
ついてる、と思った。
出品者の名前は、ハル。
プロフィールには、奈良に住んでいて神社めぐりが好き、とだけある。
取引の画面に、すぐ返事が届く。
「ありがとうございます。明日発送します」
その一行を見て、早苗は灯りを消した。
箱を受け取ったのは、十月五日の夜だ。
仕事から戻ると、宅配ボックスに入っていた。
部屋に上げて、東の窓の下の作業机でガムテープを切る。
ふたを開けたとたん、樟脳の匂いが立った。
古い箪笥の、あの匂いだ。
その下から、青くて渋い香りが少し遅れて上がってくる。
杉の葉を、指でつぶした時に近い。
布は、三百円とは思えない量だった。
銘仙が三枚に、木綿の縞が二枚、紬の端切れがひと束。
白い晒しも、一本入っている。
幅は手のひらくらいで、長さは二メートル近くある。
裏地に使えそうだと、早苗は脇へよけた。
布をめくっていくと、箱の底で指が硬いものに当たった。
小さな袋だ。
白い木綿で、手のひらに収まるくらいの大きさ。
口は、縫って閉じてある。
縫い目は粗く、針目の幅がそろっていない。
その口に、生成りの麻糸が三回巻きつけてあった。
結び目は固くて、糸の端が毛羽立っている。
持ち上げると、見た目より重い。
中で、硬いものがころりと転がった。
お守りかな、と思う。
けれど、神社の名前も何も書いていない。
入れ間違いなら、返すのが筋だ。
中身が分からないと、何を返すのかも伝えられない。
縫い物をする者として、その粗い針目も気になった。
開けたらあかん気も、少しだけする。
早苗は糸切りばさみを取って、麻糸の結び目に刃を入れた。
袋の口をほどいて、中身をカッターマットの上に出す。
布でくるんだ小さな包みと、四つにたたんだ紙が一枚。
包みの布は、もとは白い木綿だったらしい。
茶色い染みが、乾いて固まっている。
泥水がしみて、そのまま乾いたような色だ。
早苗は指先で、布の角をそっとめくった。
灰色の石が、ひとつ。
うずらの卵くらいで、角が取れて丸い。
そのそばに、乾いた杉の葉が三本ある。
葉の先は、触れたらくずれそうなほど茶色い。
石には触らなかった。
指が、そこで勝手に止まっていた。
代わりに、紙を開く。
紙は、メモ帳を一枚ちぎったものだ。
黒いボールペンで、いちばん上に「三輪山」とある。
その下には、日付だけが並んでいた。
九月二十六日
九月二十七日
九月二十八日
九月二十九日
九月三十日
十月一日
十月二日
一日ずつずれて、七行。
ほかには、何の書きこみもない。
字は、下へ行くほど小さくなる。
最後の二行は、罫線の間に押しこんだような字だった。
十月二日の、次の日。
この古布が出品されたのは、その日だ。
早苗はスマホを取って、ハルのプロフィールを開いた。
売り切れの出品が、ずらりと並ぶ。
お守り袋に、御朱印帳に、古い手ぬぐい。
その中に、こんな題がふたつあった。
「三輪山の杉の葉 開運のお守りに」
「三輪山の小石 登拝道で拾いました」
ひとつずつ、写真を開いてみた。
木の根が段になった坂に、杉の葉が散っている。
苔のついた小石が、手のひらに載せてある。
写真の端には、白い布の帯が写りこんでいた。
首から下げた、襷の端らしい。
どちらの説明の欄にも、同じ一行だけ。
「持っているとラッキーな事が起きます」
小石のほうには、コメントがひとつだけついていた。
「三輪山って、写真もあかんし、山の物を持って帰るのもあかんのとちゃいますか」
ハルの返事は短い。
「落ちてたのを拾っただけです。気になる方はご遠慮ください」
早苗は、大神神社の公式のページを探した。
三輪山は、神社のご神体そのものの山だ。
高さ四百六十七メートル、周りは十六キロ。
松や杉や檜の大きな木に覆われている、とある。
説明の中ほどに、こう書いてあった。
「一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれています」
三輪という地名の由来も、同じ神社の、別のページに載っていた。
夜ごと通ってくる若者の衣の裾に、麻糸を通した針を刺しておく。
朝になると、糸は鍵穴から外へ抜けて、三輪山まで続いていた。
糸巻きに残っていたのは、三巻きだけだったという。
早苗は、袋の口に巻かれていた麻糸を思い出した。
三回だった。
登拝のページも開く。
山に入る人は、ふもとの狭井神社で受付をする。
申込用紙に、住所と名前と携帯の番号、緊急の連絡先を書く。
観光でも登山でもない。
お参りなのだと、念を押す書き方だった。
ほかの人の参拝記も、いくつか読んだ。
白い襷を受け取って、首に掛けて登る。
山の中では、ものを食べない。
写真も撮らない。
水を口に含むくらいなら、かまわないそうだ。
余計なおしゃべりはしないように、と書いている人もいた。
参拝記のとおりなら、ハルの写真は、撮ってはいけない場所で撮られている。
襷を掛けた、そのままの格好で。
お参りとして受付を通った山から、石を持って下りてきたのだ。
早苗は画面を伏せた。
胸の奥が、ずっと硬いままだ。
取引の画面から、ハルにメッセージを送った。
「袋がひとつ入っていました。お返ししましょうか」
このアプリに、既読の印はない。
しばらく画面を見ていたが、返事は届かなかった。
箱の送り状には、匿名で送るための印字しかない。
ハルの住所も本名も、早苗には分からない。
捨てるのは、無理だ。
燃えないごみの袋に入れる手を思い浮かべただけで、首筋が冷える。
十一日の日曜は、仕事が休みだ。
三輪まで行って、大神神社で事情を話そう。
山には入らない。
預けて、頭を下げて帰るだけだ。
布の端をつまんで、石と葉をくるみ直す。
石には、やっぱり指が触れない。
紙も一緒に袋へ戻して、本棚のいちばん上に置いた。
高い所のほうがいい気がした。
灯りを消しても、杉の匂いは部屋から抜けない。
次の夜、早苗は駅前の自販機で水を買った。
八時を過ぎて、商店街のシャッターはもう半分下りている。
ボタンを押すと、取り出し口の上で数字のランプが回り出す。
四つの数字が、そろった。
軽い電子音が鳴る。
もう一本、と表示が出ていた。
この自販機で当たったのは、初めてだ。
ペットボトルを二本抱えて、早苗は少し笑った。
持っているとラッキーな事が起きます、という一文が頭をよぎる。
日曜まで棚に置いておくのも、悪くない気がした。
そう思った自分に、ひやりとする。
部屋に戻ると、アプリの通知が三つ並んでいた。
出していた巾着が、一時間のうちに三つとも売れている。
こんな夜は、今まで一度もない。
早苗は本棚の上を見ないようにして、台所に立った。
冷凍のうどんを茹でて、ねぎを散らす。
どんぶりを机に運び、箸を割る。
麺を口の前まで持ち上げたところで、手が止まった。
喉の奥が、閉じたように動かない。
お腹は空いている。
昼の弁当から、何も入れていない。
それなのに、ひと口も飲みこめる気がしない。
水なら、すっと通る。
ペットボトルの水を、半分まで飲んだ。
うどんは、箸を立てたまま冷えていく。
疲れているだけだ、と思うことにした。
季節の変わり目は、毎年こうだ。
寝る前に、石の写真を撮っておこうと考えた。
神社に前もって問い合わせるなら、写真があったほうが話が早い。
椅子に乗って袋を下ろし、口を開いて机に置く。
布の端をめくって、スマホを構える。
画面の中に、灰色の石がちゃんと映っている。
親指を、シャッターの丸に乗せた。
押せなかった。
力が入らない、というのとは違う。
押そうとすると、親指がそこでぴたりと止まる。
二度、三度と試す。
机の上の湯のみに向けると、軽い音がして撮れた。
石に向け直すと、また親指が止まる。
山の中では、写真を撮らない。
読んだばかりの決まりが、頭に残っているせいだ。
早苗はそう決めて、布を元どおりにくるんだ。
布団に入ると、冷蔵庫のうなる音が耳につく。
杉の匂いが、昨日より濃い。
目を閉じると、床が少し傾いている気がした。
頭のほうが、わずかに高い。
寝返りを打っても、その傾きは変わらなかった。
次の夜も、何も食べられなかった。
コンビニのおにぎりは、袋のまま冷蔵庫の中にある。
水だけは、二本空いている。
昼休みに一度、神社に電話をかけようとした。
番号を出したところで、指が迷った。
電話口で、何から話せばいいのか分からない。
手紙に書いて、日曜に持っていくほうがいい。
夜になって、もう一度ハルのプロフィールを開いた。
最後にログインしたのは、三日前とある。
発送の通知が届いた日だ。
それきり、ハルの側では何も動いていない。
便箋を出して、下書きを始める。
宛名には、大神神社御中と書いた。
持ち出したのは私ではありません、と書きかけて消した。
言い訳にしか聞こえない。
いつ、誰から、どう届いたのか。
間違いのないように、あのメモの日付も写しておきたい。
袋を下ろして、四つ折りの紙を開く。
九月二十六日から、十月二日まで。
だんだん小さくなっていく、黒い七行。
その下に、まだ続きがあった。
十月五日
十月六日
青いボールペンの字だ。
早苗がいつも、予約票に使っている色。
「五」の最後の横棒を、右へ長く払う癖まで同じ。
受付で毎日何十回と書いている、自分の字だった。
書いた覚えはない。
三日と四日は、抜けている。
袋が売られて、箱で運ばれていた二日だ。
ものが食べられない。
石が撮れない。
指を折って数えるうちに、早苗の息が止まった。
どれも、疲れか気のせいだと思っていた。
違う。
これは、参拝記で読んだ、あの山の決まりだ。
受付で襷を受け取った人が、山の中で守ることだ。
早苗は、その受付を通っていない。
あの山に足を入れたことも、一度もない。
決まりを読みすぎたのだ、と考える。
何度も読んだせいで、体が真似をしているだけ。
字のほうは、夜中に寝ぼけて書いたのかもしれない。
自分の字なのだから、書いたのは自分だ。
それで、全部の説明がつく。
説明はつくのに、ふくらはぎが張っている。
長い坂を上ったあとの、あの張り方だ。
今日上ったのは、駅の階段だけ。
声に出して笑い飛ばそうと、早苗は口を開いた。
「嘘や」
言ったつもりでいる。
声にならない。
息だけが、歯の間から細く抜けていった。
昼の受付では、患者さんの名前をちゃんと呼べていたのに。
余計なおしゃべりはしない、という一行が、遅れて頭に浮かんだ。
十月八日の夜。
気がつくと、早苗は机に突っ伏していた。
壁の時計は、一時を回っている。
眠るつもりはなかった。
体を起こすと、胸の前に白い布が垂れていた。
あの晒しだ。
うなじに掛かって、両端が胸の前へ下りている。
端と端は、みぞおちのあたりで固く結んである。
首に掛けるところは、参拝記で読んだ襷と同じだった。
結び目の形は、袋の麻糸の結び目とそっくりだ。
木綿の目が粗くて、首の横が少しこすれる。
樟脳の匂いが、襟元から上がってくる。
指を、結び目に掛けてみた。
ほどこうと思えば、ほどけそうだ。
糸切りばさみも、手の届く所にある。
早苗は、指を離した。
外さないほうがいい。
誰かにそう言われたのでもない。
自分で、そう思った。
道中で襷を外してはいけない、と記事で読んだ。
道中という言い方が、いまの自分にはしっくりくる。
本棚から袋を下ろす。
紙を開くと、青い字の行がひとつ増えていた。
十月七日
早苗は青いボールペンを取って、その下に書き足した。
十月八日
今度は、書くところを自分の目でちゃんと見ている。
指は震えない。
字は、ハルの最後の行と同じくらいまで縮んでいる。
黒い七行と、青い四行。
あと三行で、早苗の分も七行になる。
九日、十日、十一日。
十一日は日曜だ。
三輪へ行くと決めていた、その日。
ハルの七行目は、十月二日だ。
その次の日に、ハルはこの布を出品した。
どんな気持ちで手放したのかを考えても、責める言葉がもう浮かばない。
あの人も、下りる途中だったのかもしれない。
下りようとして、下りる場所が見つからなかったのかも。
スマホのアラームを開く。
十一日、朝の九時。
狭井神社の受付が開く時間だと、読んで覚えている。
名前の欄に、「下山報告」と打ちこんだ。
石を返しに行くのか、下りたと告げに行くのか。
その区別が、自分の中でつかなくなっている。
灯りを消して、襷を掛けたまま横になった。
暗い部屋に、杉の匂いが濃く溜まっている。
息が、坂の途中にいる時のように深くなる。
声は、もう出そうとも思わない。
上った覚えのない山から下りたと、受付でどう言えばいいのか、それだけがまだ決まらない。
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