子どもの頃、秋祭りの日にだけ守る決まりが、うちにはあった。
近所のどの家にもない、うちだけの決まりだ。
二年生のとき、学校で話したら、変な家やと笑われた。
それからは、外では口にせんようにしてきた。
家は奈良市の西のはずれ、大和田町の田んぼの中にあった。
瓦屋根の古い家で、玄関を入ると広い土間がある。
父は平日、大阪の会社に勤めて、休みの日に米を作っていた。
裏には矢田の丘陵が、低く長く続いている。
田んぼを二枚はさんだ先に、ため池がある。
その土手の先に、白高さんの石の大鳥居が立っていた。
鳥居の額には、白高大神とある。
しらたかおおかみ、と読む。
父も近所の人も、白高さん、と呼んでいた。
大鳥居の奥は木が茂って、昼でも暗く見えた。
池には日曜になると、ヘラブナを釣る人が並ぶ。
長い竿の先の、細い浮きだけを見ている人たちだ。
決まりは、祭りの朝に始まる。
七時半ごろ、父が仏壇の下の引き出しを開けた。
黄ばんだ新聞紙にくるんだ包丁が、そこに一本だけ入っている。
古い菜切り包丁で、刃は黒ずんでいた。
うちでは、祭りの包丁と呼んでいた。
台所の包丁とは、しまう場所からして別だ。
父はそれを持って、玄関の土間に下りる。
上がり框のいちばん端の床板に、細い切り口が何本も並んでいた。
黒い筋のような傷だ。
前に一度数えたら、三十を超えていた。
父が子どもの頃は、祖父が同じことをしていたらしい。
父は傷の並びのいちばん端に刃を当てて、上から体重をかけた。
ず、と低い音がして、包丁が床に立つ。
刃は下向きに、板へくいこんでいる。
包丁の先は、玄関の戸のほうを向いていた。
ぼくは毎年、その音で祭りの朝を知る。
「さわったらあかんで」
父は地下足袋のこはぜを留めながら言った。
「外で名前呼ばれても、返事したらあかん」
「神輿が鳥居の前で回るのを見たら、まっすぐ帰ってきて、ここに座っとき」
「お父さんが、帰ったで、て言うまでや」
「なんで」
「うちは、そういう家なんや」
父の答えは、毎年それだけだった。
母は、よその町から嫁に来た人だ。
この話になると、黙って流しの水を出していた。
祭りの日曜も、母は駅前のスーパーのパートに出る。
昼のおにぎりを二つ、ラップにくるんで置いていってくれる。
去年までは、祖母がいた。
神輿が回るときは、いつも祖母と並んで土手に立った。
祖母はぼくの手を握って、神輿が向きを変えるあいだ、耳のそばでずっと数をかぞえる。
いち、に、さん、と、少し大きすぎる声で。
なんで数えるん、と聞いたことがある。
神輿が回りきるまでの数や、と祖母は言った。
その祖母が、春から入院している。
だから三年生のその秋は、ぼく一人で土手に立つ。
父は、その年初めて、神輿の先棒に決まっていた。
いちばん前で担ぐ役だ。
ぼくはそれが自慢で、父の顔をちゃんと見ようと、前の晩から決めていた。
決まりだから行くのとは、少し気持ちが違う。
八時すぎ、父はぼくを連れて土手まで歩いた。
祭りの朝は、毎年そうする。
刈り終わった田んぼと、まだ黄色い田んぼが、交互に続いている。
藁の匂いが、朝の冷たい空気にまじっていた。
土手に上がると、正面に大鳥居が見える。
父は鳥居の前までは行かずに、土手の上で足を止めた。
そこで深く頭を下げる。
ぼくも、まねをして頭を下げた。
鳥居の足もとの草が、朝露でぬれて光っている。
「神輿はな、ここで回るんや」
父が言った。
「よその神さんの前やからな。挨拶して、引き返すんや」
地区の神輿は、田んぼの農道をぐるりと回って、この土手で向きを変える。
鳥居の正面で担ぎ手が止まり、そろって頭を下げてから戻っていく。
父の子どもの頃から、ずっとそうらしい。
家に戻って、八時半に父は集会所へ出かけた。
法被の背中が、農道の先で小さくなっていく。
九時には母も自転車で出て、家にはぼくと包丁だけが残った。
上がり框に腰かけると、包丁がすぐ横に立っている。
刃の黒いところに、玄関の曇りガラスの光が鈍く映っていた。
さわるのはあかん。
見るだけなら、ええはずや。
ぼくはテレビもつけずに、長いことそれを見ていた。
柄の木は、手の脂で黒く光っている。
祖父の手も、この柄を握ったんやろか。
裏の柿の木で、モズがキィキィと鳴いている。
柱時計の振り子の音が、土間に響く。
十一時前に、ぼくは家を出た。
戸を閉めて、鍵は開けたままにしておく。
土手までは、歩いて五分ほどだ。
昼が近づいて、日なたはもう汗ばむほど暖かい。
土手の草のあいだで、ススキの穂が白く光っていた。
池の水は緑色で、泥と藻の匂いがする。
向こう岸に、釣りのおじさんが一人座っていた。
帽子を目深にかぶって、浮きだけを見ている。
赤トンボが何匹も、水の上を低く行き来していた。
ぼくは土手の端に立った。
左手が池で、土手の先の正面に大鳥居が見える。
背中の側の土手の下を、家へ帰る農道が通っている。
遠くの集落のほうから、太鼓の音がかすかに届く。
腕時計を見ると、十一時五分だった。
最初に聞こえたのは、それから少しあとだ。
「……しぃ」
細くて、高い声だった。
語尾だけが、風にちぎれて届いたように聞こえた。
後ろの、田んぼのほうからだ。
振り返っても、農道は白く乾いているだけだ。
刈った田んぼの上を、トンボがすいすい飛んでいる。
人の姿は、向こう岸のおじさん一人きりだった。
おじさんの帽子は、浮きのほうを向いたままだ。
モズだ、と思った。
秋になると、モズは高い声で鋭く鳴く。
家の柿の木でも、朝からキィキィとやかましい。
あれが人の声に聞こえることも、たまにある。
ぼくはそう決めて、前へ向き直った。
十一時半を回ったころ、掛け声が近づいてきた。
わっしょい、わっしょい。
右手の田んぼの向こうの農道を、金色の屋根が揺れながら進んでくる。
神輿だ。
担ぎ棒のいちばん前に、父の白い鉢巻きが見えた。
手を振ろうとして、手が止まった。
掛け声のあいまに、また聞こえたからだ。
「……ろしぃ」
さっきより近い。
今度は、二文字ぶんがはっきり聞きとれた。
やっぱり後ろの、農道のほうからだ。
振り返る前に、体のほうが先に固まった。
首の後ろが、ひやりとする。
日なたにいるのに、背中だけが冷たい。
ろし、で終わる名前だ。
ぼくの名前は、ゆうすけ。
しでは終わらへん。
ほな、よその子のことや。
バス停のほうの住宅地で、誰かが友だちを呼んでるんや。
心の中でそう言い聞かせて、ぼくは神輿だけを見た。
父は担ぎ棒に肩を入れて、顔を真っ赤にしている。
法被の背中が、汗で濃く染まっていた。
神輿が、土手の坂をのぼってきた。
担ぎ手の汗の匂いが、風にのって届く。
父と目が合う。
父は少しだけ、あごを引いた。
ちゃんと見とるか、という顔だ。
神輿が、大鳥居の正面で止まった。
担ぎ手たちが掛け声をやめて、そろって頭を下げる。
屋根の飾りの金具が、ちりちりと鳴っていた。
土手の上が、急に広くなったように感じる。
そのときだ。
「ひろしぃ」
すぐ後ろだった。
ぼくの肩くらいの高さで、名前の全部がはっきり聞こえた。
知らない子を呼ぶ声とは、ぜんぜん違う。
家の奥から、うちの子を呼ぶときの、あの声の上がり方だ。
父が、顔を上げた。
担ぎ棒をかついだまま、首だけでこっちを振り返る。
目は、ぼくの肩ごしに後ろへ向いている。
父の口が動いた。
あかん、と言ったのが分かる。
それから父は、誰よりも大きく、わっしょい、と声を張り上げる。
担ぎ手たちがつられて声をそろえ、神輿はぐるりと向きを変えた。
ぼくは前を向いたまま、立っていた。
振り返ったら、返事をしてしまいそうな気がする。
背中のすぐ後ろに、人ひとりぶんの温かさがある。
ぼくは口を閉じて、奥歯をかみしめた。
神輿が土手を下りて、掛け声が遠ざかっていく。
父の鉢巻きが、稲の向こうに沈んでいった。
背中の温かさは、いつのまにか消えていた。
家へ帰る道は、声のした後ろの農道一本きりだ。
ぼくは下を向いて、早足で歩いた。
走ったら、何かに追いつかれる気がする。
農道の上にあるのは、乾いた土と藁くずだけだ。
声は、それきりだった。
玄関の戸を開けると、包丁は朝のまま立っていた。
その先は、戸のほうを向いている。
ぼくは上がり框に、包丁と並ぶように座った。
柱時計が、十二時を打つ。
母のおにぎりを、ラップごと膝にのせた。
一つ食べたところで、喉がつかえる。
ひろし、という名前を、頭の中で何度もくり返した。
思い浮かぶひろしは、テレビの中の人くらいだ。
だから、あれはよその子を呼んだ声だ。
モズかもしれん。
父があかんと言ったのは、ぼくが振り返りそうに見えたからや。
そう考えると、少し息がしやすくなる。
祖母の数のことを、そのときになって思い出した。
いち、に、さん。
神輿が回るあいだじゅう、耳のすぐそばで、大きすぎる声がつづいていた。
あれは、数をかぞえるための声だったんやろか。
ぼくは首を振って、その考えを追い出した。
それでも、父の目が頭から離れへん。
あの目は、ぼくの後ろの何かを見ていた。
後ろには、農道と田んぼしかなかったのに。
包丁の刃に、自分の膝が黒く小さく映っている。
遠くで、神輿の掛け声がまた上がった。
宮入りが近いらしい。
ぼくは包丁を見ないように、膝を抱えた。
手のひらが、ずっと湿っている。
三時すぎに、玄関の戸が開いた。
「帰ったで」
父の声だ。
法被の前がはだけて、首に手ぬぐいをかけている。
汗と、お神酒の匂いがする。
父は土間に立ったまま、包丁を見て、それからぼくを見た。
「返事、してへんな」
「してへん」
「ほな、ええ」
父は包丁の柄をつかんで、ぐいと抜いた。
新聞紙で、ていねいに刃をくるむ。
床板に、新しい切り口が一本ふえていた。
「なあ、ひろしって誰」
新聞紙を巻く父の手が、止まった。
「誰が言うたんや」
「土手で、後ろから呼んでた」
「知らん名前や」
父はそう言って、包丁をしまいに仏壇の部屋へ行く。
知らん、と言うまでが、いつもより少し早かった。
三時半ごろ、玄関の戸がまた開いた。
「ごめんください」
前に隣に住んでいた、西田のおばあちゃんだ。
ぼくが生まれてしばらくして、大阪の娘さんの家へ移った人だ。
その日は、何年かぶりに祭りを見に帰ってきたらしい。
手に、柿の葉寿司の包みを提げている。
杖をついた体から、柿の葉の青い匂いがした。
「まあ、大きなって」
おばあちゃんは土間に立って、ぼくの顔をのぞきこんだ。
目尻のしわが、細い線になる。
「ひろしちゃん、お神輿見たか」
ぼくは、すぐに答えていた。
「ぼく、ゆうすけやで」
おばあちゃんは、あら、という顔をして笑った。
「そやったそやった。ひろしは、生まれて七日だけの名前やったな」
奥の部屋の入り口に、父が立っている。
顔から、色が引いていく。
おばあちゃんは父に気づかずに、寿司の包みを上がり框に置いた。
「あんたが生まれたとき、お父さん、七日のあいだ、ひろし、ひろし、て呼んではったんよ」
「お七夜で、今の名前に替えはってな。この家の子は、みんなそうやろ」
父は黙って、奥へ引き返した。
戻ってきた手に、新聞紙の包みがある。
父は上がり框の端に膝をついて、包みをほどいた。
さっき抜いたばかりの切り口に、刃をもう一度当てる。
両手で体重をかけると、ず、と朝と同じ音がした。
包丁の先は、戸のほうを向いている。
おばあちゃんが、口を手でおさえた。
「おばちゃん」
父の声は低い。
「その名前、今日はもう、口に出さんといてください」
その晩、包丁は朝まで抜かれずに立っていた。
父は上がり框に座って、玄関の戸を見ている。
夜中にトイレに起きたときも、父の背中は同じところにあった。
ぼくは布団に戻って、自分の名前を何度も小さく言ってみる。
ゆうすけ、ゆうすけ。
もう一つの名前は、口の中に入れないようにした。
次の年から、祭りの日のぼくは、母の実家に預けられた。
大人になった今は、奈良を離れて暮らしている。
十月になると、毎年、父から電話がある。
祭りの日は帰ってこんでええ、という電話だ。
理由を聞くと、父はいつも、そういう家なんや、とだけ言って切る。
母の話では、父は今も祭りの朝に、あの包丁を刺しているらしい。
白高さんのことは、あとになってネットで調べた。
心霊の噂を並べたページがいくつも出てきて、すぐに閉じた。
今は手を入れる人たちがいて、きれいに整えられていると聞く。
あの声と白高さんは、ぼくの中では別のものだ。
父は毎年、あの鳥居に頭を下げていた。
神輿も、鳥居の前で頭を下げて引き返す。
呼んでいたのは、もっとうちの近くにいるものだと思う。
あの日、土手で返事をせずにすんだのは、あれが自分の名前だと知らなかったからだ。
今は、知っている。
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