月居隧道は、茨城県久慈郡大子町の袋田にある。
つきおれずいどう、と読む。
明治十九年にできた古い隧道で、長さは三百メートルほど。
通れた頃は、袋田から東の小生瀬へ抜ける道だった。
今は車も人も通れない。
下に新月居トンネルが掘られてからは、山の上に取り残された格好だ。
それでも袋田側の入口には、信号機が一つ立ったままになっている。
地元では、昔から言われてきたことがある。
車で通ると、後ろの席に誰かが乗ってくる。
歩いて通ると、後ろから足音がついてくる。
今はどちらも試せない。
入口に鎖が張られているからだ。
西側、袋田側の道は崩れて通れず、近づくなら東側、水根の集落側の登り口から坂を上がるしかない。
近ごろは、入ってはいけない場所として、名前だけが先に広まっている。
この隧道のまわりで、三人が別々に変なものに遭っている。
三人は互いを知らない。
話を聞いたのも、別々の日だ。
順に並べる。
一人目は、水戸に住む三十代の男。
旧道や古い橋を撮って回るのが趣味だという。
去年の十一月の、よく晴れた夜だった。
信号機のある袋田側は、道が崩れて近づけない。
男は東の水根側の登り口に車を置き、反対の口を撮るつもりで旧道へ入った。
時刻は二十二時を少し回ったころ。
月はなく、懐中電灯の明かりだけで坂道を上がった。
「信号機のついた廃隧道なんて、ほかにない。せめて裏の口だけでも、夜に撮っておきたかったんです」
落ち葉で道の輪郭が消えかけていた。
右手は山の斜面で、左手は谷。
谷の底から沢の音が上がってくる。
吐く息が白く、懐中電灯の光の中で散った。
濡れた葉の匂いが、歩くたびに足元から立つ。
十五分ほどで、鎖が見えた。
鎖の向こうに、黒い口が開いている。
手前には通行止めの標識。
鎖には立入禁止の札が下がっている。
男は鎖の向こうへは入らない。
廃道を撮るときの、自分で決めた線だという。
隧道の奥から、水が落ちる音がしていた。
ぽつ、ぽつ、と間を置いて、石に当たる音。
音が奥で跳ね返って、二度ずつ聞こえる。
男は鎖の手前に立ち、三脚を広げた。
懐中電灯を隧道の口へ向ける。
石積みの縁に苔がびっしりついていた。
苔は膝の高さのところだけ、むしり取ったように剥げている。
手のひらほどの広さだ。
獣が擦ったんだろうと、そのときは思った。
一枚目を撮ったとき、左の膝の裏に何かが触れた。
枯れ枝が当たったくらいの、軽い感触。
男は足元を見た。
枝は落ちていない。
ズボンの裾を払って、構図を直した。
二枚目。
また膝の裏。
今度は、指で押されたくらいの重さがあった。
前に、つまり鎖の方へ、押される。
男は一歩踏みとどまった。
後ろを見る気にはならなかった。
見れば何かが決まってしまう気がして、首が動かない。
「斜面の土が崩れて、靴に当たったんだと思ったんです」
実際、左足のかかとは少し土に沈んでいた。
男はそう納得して、三脚を畳んだ。
ここで帰ろうと決めた。
変な話だが、怖いからではなく、腹が減っていたからだという。
鎖に背を向けて、坂を下りはじめた。
三歩目で、膝の裏をつかまれた。
押すのではなく、引く。
指が四本、裾ごと皮膚に食い込む。
男はその場で立ち止まり、ゆっくり下を向いた。
懐中電灯の輪の中に、自分の足だけがある。
左のズボンの裾が、ふくらはぎに貼りついていた。
濡れている。
手で触ると、水ではなく、冷えた泥の感触だった。
男は蔓だと思うことにした。
斜面から伸びた蔓が、裾に絡んだのだ。
しゃがんで足元を探った。
蔓はない。
石も、枝もない。
落ち葉の上に、自分の靴跡が一つだけあった。
立ち上がって、もう一度隧道を見た。
鎖も標識も、さっきのままだ。
奥の水音が止んでいた。
ぽつ、とも鳴らない。
沢の音も、いつの間にか聞こえない。
代わりに、奥から声がした。
人の声だ。
男とも女ともつかない、低い声。
一本調子で、何かを語っている。
言葉は聞き取れない。
節のついた語りで、ところどころで間を置く。
間のたびに、同じ声が笑った。
自分の話に、自分で笑う。
聞いている者の声は、一つもない。
男は懐中電灯を奥へ向けた。
光は十歩ほどで闇に吸われ、何も照らさない。
語りは途中で、ぷつりと止まった。
笑い声だけが、もう一度した。
さっきより近い。
鎖のすぐ向こうからだった。
男はそのまま坂を下りた。
走らなかった。
走ると転ぶ道だったからだ。
背中に明かりは届かない。
下る間、笑い声は間を置いて続いた。
近くも遠くもならない。
膝の裏の冷たさも消えなかった。
沢の音が耳に戻ってきたのは、登り口の石が見えてからだ。
笑い声は、そこで途切れた。
車に着いてズボンをめくると、裾の内側に、黒い指の跡が四本ついていた。
指の幅は、男の指より一回り細い。
「泥ですよ。たぶん自分で触ったときのです」
男はそう言って、写真を見せてくれた。
一枚目の隧道の口が写っている。
二枚目は、ぶれていた。
三枚目はない。
代わりに、登り口の石の上に黒猫が座っている写真が一枚あった。
四つの足の先だけが白い猫だ。
男は猫を撮った覚えがないという。
写真の日付は、確かにその夜になっている。
二人目は、袋田に住む五十代の女。
家は新月居トンネルの水根側の出口から、歩いて十分ほどのところにある。
女は三年前から、黒い猫に餌をやっていた。
足の先だけが白い猫だ。
飼い猫ではなく、近所の家の猫でもない。
日が暮れると、旧道の登り口の石の上に座っている。
女はそこへ、夜の八時ごろに餌を持っていく。
夫を亡くしてから始めた習慣で、名前はつけていない。
ただ、クロ、と呼ぶと顔を上げる。
登り口までは、家から六分。
街灯は集落のはずれで途切れる。
そこから先は懐中電灯だ。
冬は谷から吹き上げる風で、足首から冷える。
猫は決まった場所から先へは行かない。
登り口の石から、坂を十歩ほど上がったあたり。
そこに古い標識の支柱が一本立っている。
猫はその支柱の手前で必ず止まる。
女が面白がって支柱の向こうへ餌を置くと、猫は食べずに帰った。
女自身も、入口まで上がったことはない。
猫が行かない所へは行かないと決めている。
「山の上に何かあるのは、昔から知ってます。袋田側に信号のある古いトンネル。あの信号、もう何年も点いてない」
去年の十二月、雪の前の夜。
女はいつものように餌を置き、しゃがんで猫が食べるのを見ていた。
手には空の餌袋。
肩には小さな布の袋。
袋の中は家の鍵だけだ。
猫が食べるのをやめた。
顔を上げて、女の背後を見ている。
目の高さが低い。
女の腰よりも下、膝のあたりを見ていた。
女は振り返った。
坂道と、支柱と、その先の闇。
何もいない。
懐中電灯を上へ向けても、落ち葉の道が続くだけだ。
土の匂いが、いつもより濃い。
雨は三日降っていない。
「狸かと思ったんです。よく出るので」
猫がまた食べ始めた。
女は肩の袋を掛け直した。
そのとき、袋の紐が下へ引かれた。
鍵しか入っていないのに、肩が片方だけ下がるほど重い。
女は袋の中を見た。
鍵が一つ。
それだけだ。
紐を握り直すと、重さは消えていた。
「袋が枝に引っかかったんだと思って。でも、そこに木はないんです」
猫がまた顔を上げた。
今度は女の背後ではなく、女の足元を見た。
左の膝の裏。
猫の喉が鳴った。
聞いたことのない低い声だった。
喉の奥で鳴らす、唸りに近い声。
女は立ち上がった。
肩の袋がもう一度、下へ引かれた。
今度は紐ではなく、袋の底を下から持ち上げる動き。
膝の裏に、冷たいものが当たっている。
手のひらほどの広さで、湿っていた。
女は猫を抱き上げようとした。
猫は女の手をすり抜け、支柱を越えて坂を上がった。
三年間、一度も越えなかった支柱だ。
闇の中で白い足先だけが四つ、上がっていくのが見えた。
女は猫の名を呼んだ。
クロ、と二度。
返事はない。
坂の上で、落ち葉を踏む音が一度だけした。
猫の重さの音ではなかった。
もっと重い。
それでいて、大人の足音でもない。
女は家に帰った。
歩いて六分の道を、どう帰ったか覚えていない。
膝の裏は、風呂に入るまで冷たいままだった。
ズボンを脱ぐと、左の裾の内側が泥で黒くなっている。
洗っても、薄い跡が残った。
猫はそれから、登り口の石に戻っていない。
餌は今も置いている。
朝になると、なくなっている。
狸だろうと女は言う。
支柱の向こうへは、もう餌を置いていない。
三人目は、小生瀬の集落に住む三十代の女。
袋田の温泉旅館で働いていて、夜の勤めが終わると車で家に帰る。
帰り道は新月居トンネルを抜ける。
旧道のことは知っていたが、行ったことはない。
「あの上に古いトンネルがあるのは知ってます。山の上の信号が夜に赤く点いてるのを、トンネルに入る前に何度か見ました」
今年の二月、雪の晩だった。
時刻は二十三時半。
娘は実家に預けてあり、家には誰もいない。
旅館の駐車場を出るとき、フロントガラスの雪を手で払った。
手袋を忘れて、指が痛むほど冷えていた。
袋田の集落を抜けると、対向車はなくなる。
新月居トンネルの入口が見えてきた。
その上の山に、赤い点が一つ。
いつもの信号だと思った。
女は暖房を強くして、トンネルに入った。
中はオレンジ色の灯りで、雪がないぶん明るい。
タイヤの音が壁に反って、車の中まで入ってくる。
トンネルの中ほどで、携帯が鳴った。
助手席に置いた画面に、自宅の固定電話の番号が出ている。
誰もいないはずの家からだ。
女は片手で取った。
「はい」
返事はない。
息の音だけが聞こえた。
小さい息だ。
大人の息ではなかった。
それから、何かを床に置くような、ぴた、という音。
通話は切れた。
折り返した。
呼び出し音が十回鳴って、誰も出ない。
女は携帯を膝に置いた。
そのとき、車の後ろが沈んだ。
段差を越えたときのように、座面が一度下がって戻る。
トンネルの路面に段差はない。
「タイヤに雪が噛んだと思ったんです」
ルームミラーを見た。
後ろの席には、自分の上着が畳んで置いてある。
それだけだ。
トンネルを出た。
雪が舞っていた。
車の後ろが、また沈んだ。
今度は左側だけ。
助手席の後ろが、重い。
女は右手でハンドルを握り、左手を後ろへ回した。
上着に触れた。
暖房は効いているのに、上着だけが冷えている。
濡れていた。
女は手を戻した。
荷物が倒れたのだと思った。
後ろの席には上着しかないことを、頭ではわかっていた。
三回目は、トンネルを出てしばらく下ったあたりだった。
重さが、運転席の真後ろへ移った。
座面ではなく、背もたれ。
ヘッドレストが前へ、指一本分、押された。
後頭部に、布越しに何かが当たっている。
平たくて、動かない。
女はミラーを見なかった。
見ない方がいいと、体の方が先に決めていた。
手が汗で滑り、ハンドルを握り直した。
家まで、十五分。
その間、押す力は弱くも強くもならなかった。
集落の明かりが近づいても、後頭部の重さは変わらない。
ラジオをつける気にはなれなかった。
自宅の前で車を止めた途端に、消えた。
女はエンジンを切らずに、しばらく座っていた。
ミラーは見ない。
雪がフロントガラスに積もるのを見ていた。
降りるとき、後ろの扉には目をやらなかった。
玄関まで、雪の上に自分の足跡だけがついた。
家に入って、固定電話を見た。
発信履歴は空だった。
受話器は、置いたままだ。
携帯の着信履歴には、自宅の番号が二十三時三十四分で残っている。
電話会社に問い合わせても、要領を得なかったという。
女は三日間、後ろの席を見ないで乗った。
上着は、旅館の予備のものを着た。
車に乗るたび、座面が左へわずかに傾いている気がした。
気のせいだと、口に出して言った。
四日目の朝、娘を迎えに行く前に、上着を取ろうと後ろの扉を開けた。
上着の下に、苔があった。
手のひらほどの広さの、濡れた苔の塊。
石積みから剥がしたように、裏に土がついている。
座面には苔の形に浅いへこみができていて、手で押しても戻らなかった。
女は苔を新聞紙にくるんで、玄関の靴箱の上に置いた。
捨てるつもりで、まだ捨てていない。
それから何日たっても、苔は乾かない。
同じ地域の怪談
門は閉まっていた。門の横に、木の案内板が立っている。神田山延命院、と読めた。瀬川が手を合わせた。俺も真似をして合わせる。どん、と音がした。
ファインダーの中、鳥居の右の柱のわきに、人が立っていた。顔を上げると、岩の上には誰もいない。覗き直すと、いる。柵の中に、入れるわけがないのに…
牛久沼の東岸から、渡れないはずの島を見に行った。友人は小さいころボートで渡ったと言う。杭は五本だった。
茨城県常総市の鬼怒川沿いに、白い塔が立っている。 高さはおよそ四十八メートル。 田と畑の平らな土地に、そこだけ縦の線が伸びている。 鬼怒砂丘…
茨城県笠間市に佐白山という山がある。 標高はおよそ二百メートルで、山頂に笠間城の跡が残る。 麓の公園は桜と紅葉の名所として知られ、昼は散策の…
この地域の心霊スポット
茨城県の心霊スポット「塔ヶ崎隧道」。県道2号の脇から森へ入る箱型トンネル。ガラス片の床に、忘れられた道筋。怪談・都市伝説として語られる噂と、…
茨城県の水辺に語られる心霊スポット「三次親水公園」。親水公園の水辺で、足を止める位置に迷う三次。怪談・都市伝説として語られる噂と、現地の空気…
茨城県の線路沿いに語られる心霊スポット「八間堀踏切」。田園を横切る踏切。八間堀の水辺まで赤い警告灯。怪談・都市伝説として語られる噂と、現地の…
茨城県ひたちなか市の多良崎城跡を調査。鎌倉末から南北朝期に築かれた中世城館の空堀・土塁・旧真崎浦との地理を公的資料で確認し、2006年以降に…
茨城県龍ケ崎市板橋町にある板橋池について、役所資料、国立国会図書館、地元聞き取り、現地環境をもとに、心霊スポットとしての噂と実態を整理する調…


コメント