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ホテル活魚の手前で引き返した夜と、伯母が預かった時計

長尾から連絡が来たのは、十月の初めだ。
「久保が札幌から戻ってきた、金曜に飲もう」
メッセージには、千葉の駅前にある居酒屋の地図がついていた。
駅から歩いて五分ほどの店らしい。

久保と顔を合わせるのは、十何年ぶりになる。
専門学校の夏休みが明けてすぐ、あいつは学校をやめた。
札幌の叔父さんの会社で働く、と人づてに聞いた。
見送りには行っていない。
行けなかった、と言うほうが近いと思う。

あの夏の終わりに、俺たちは四人で東金へ行った。
ホテル活魚と呼ばれている廃ホテルの、近くの道までだ。
建物にも敷地にも、誰も足を踏み入れていない。
細い道で車の向きを変えて、そのまま帰ってきた。
それだけの夜だ。
自慢できる話でもなく、人に話すのもこれが初めてになる。

車は、古川が兄貴から譲ってもらった白いセダンだった。
窓はハンドルを回して開ける、古い型だ。
運転は古川で、助手席に俺。
後ろの席には、運転席の側に長尾、俺の後ろに久保が座った。
カーステレオからは、古川の好きなバンドの曲がずっと流れていた。

言い出したのは古川だ。
バイト先の先輩から、東金にやばい所があると聞いてきたらしい。
場所を知っていたのは、俺のほうだった。
東金には、父の姉にあたる伯母が一人で住んでいる。
子どものころ、遊びに行くたびに言われたものだ。
「インターの近くの林に古いホテルがあるでしょう、あそこには近寄るんじゃないよ」
近寄るなと言われた場所だから、かえって道を覚えていた。

その晩は、先に伯母の家へ寄った。
母に頼まれた届け物があったからだ。
九時半ごろだったと思う。
居間の柱時計が、こちこちと大きな音で鳴っていた。
伯母は四人に麦茶を出して、梨をむいてくれた。
「こんな時間に、どこ行くの」
「九十九里の海を見に」
俺の嘘に、伯母はうなずいている。
背の高い久保を見上げて、「大きいねえ」と笑った。
久保は前歯が一本、少し欠けている。
笑うと、そこだけ黒く見えた。

伯母の家を出たのは、十時の少し前だ。
東金インターのほうへ走ると、まだ営業しているホテルの看板が道ばたで光っていた。
その明かりを過ぎて、林の中の細い道に入る。
両側は雑木林で、明かりといえば車のライトだけになる。
虫の声が、閉めた窓ごしにも聞こえた。

突き当たりを左に曲がったところで、古川がブレーキを踏んだ。
ライトの先、二十メートルほどのところに、土嚢が積んである。
立入禁止の札が、針金で杭にくくりつけてあった。
その奥は、草と木ばかりだ。
夜空より少しだけ黒い三角の屋根の先が、木の上に突き出していた。

「あれか」
古川の声が、少しかすれている。
四人とも、シートに背中をつけたまま動かずにいた。
エンジンはかけっぱなしで、カーステレオだけがうるさい。
長尾が後ろから身を乗り出して、音を消した。
「見たな、もう帰ろう」
古川がうなずいて、ギアに手をかける。

そのときだ。
林の奥から、声がした。
「おおおおい」
ばかでかい声だった。
人の喉から出る大きさを、とうに越えている。
太い大人の男の声に、俺には聞こえた。
声は木の上を渡っていき、遠くで一度はね返って、もう一度戻ってきた。
山の奥で、谷の向こうへ呼びかけるような響き方だ。
あのあたりは、低い丘と林ばかりの土地なのに。

虫の声が、ぴたりとやんだ。
「今、何時」
古川の声が裏返っていた。
俺は左の手首を見た。
高校の卒業祝いに、伯母が買ってくれた腕時計だ。
暗がりで、針が緑色にぼんやり光っている。
十時十四分。
「十時十四分」
俺は声に出して読んだ。
なんで時間なんか聞いたのか、古川にも分かっていなかったと思う。

後ろで、窓の下がるきしんだ音がした。
久保がハンドルを回して、窓を半分まで開けている。
「おおい」
林に向かって、あいつは返事をした。
顔は真顔だった。
呼ばれたから返す、それだけの声に聞こえる。
長尾が久保の腕をつかんで、「ばか、やめろ」と押し殺した声で言った。
林は、それきり黙りこんだ。

古川が車を回そうとした。
道幅はぎりぎりだ。
片側には、深そうな側溝が口を開けている。
後ろは、ライトが届かずに真っ暗だった。
「見えねえ、誰か後ろ見てくれ」
古川が言い終わる前に、久保はもうドアを開けていた。
「俺、見るわ」

久保は車の後ろへ回る。
来た道のほうを背にして、道のまん中に立つ。
バックランプの白い光の中で、片手を上げた。
「オーライ、オーライ」
後ろの窓ごしに、声が聞こえる。
古川が少し下がり、ハンドルを切って、また前に出る。
三回、四回と切り返した。
そのあいだずっと、オーライの声は続いていた。
俺はサイドミラーの中の、白く照らされた手を見つめている。

車の向きが変わって、久保が戻ってきた。
開けたのは、運転席の後ろのドアだ。
長尾が「こっちかよ」と言いながら、奥へずれる。
かがんで乗りこむ久保の背中を、室内灯が照らした。
シャツが、夜露でもかぶったように湿っている。
立っていたのは、乾いたアスファルトの上なのに。
久保は黙って座った。
濡れた草の匂いが、車の中にこもった。

帰り道、久保はずっと窓の外を見ていた。
東金インターの料金所の明かりの下で、俺はもう一度時計に目をやる。
十時半の、少し前だ。
自分のアパートの前で降りるとき、久保は「じゃあな」とだけ言った。
札幌へ行く前のあいつと口をきいたのは、それが最後になる。

金曜の夜、七時ちょうどに店へ入った。
十月にしては、蒸し暑い晩だ。
腕時計は、あのころと同じものをしている。
ゴムのベルトが何年か前に切れて、金属のベルトに替えただけだ。

古川と長尾は、先に来ていた。
古川は市役所に勤めて二人の子の父親になり、長尾は保険の営業で額が広くなった。
店の奥には大きな生け簀があって、アジが何匹も同じ向きで泳いでいる。
水の流れる音と、ポンプの低いうなりが、ずっと聞こえていた。

七時十五分ごろに、久保が来た。
少し太って、よく日に焼けている。
声も笑い方も、あのころのままだった。
「おう、久しぶり」
笑った口もとを見て、前歯が白くそろっているのに気づいた。
「差し歯にしたんだ」
久保は、人差し指の爪で前歯を軽くはじいてみせる。

四人がけの席で、俺の正面に久保が座った。
久保の背中の向こうに、生け簀が見える。
俺の隣に古川、久保の隣に長尾。
近況を話すうちに、ジョッキが一杯ずつ空いていく。
久保は札幌で、叔父さんの会社の倉庫にずっと勤めていたそうだ。
冬は朝から雪かきで、夏が短い、と笑った。

店員が空いた皿を重ねて、狭い通路を後ろ向きに下がっていく。
久保が、ひょいと片手を上げた。
「オーライ、オーライ」
小さな声で、店員の背中に向けて言う。
店員は、きょとんとした顔で振り返った。
古川が吹き出した。

「なんだよ、それ」
「癖なんだ、倉庫でフォークリフトの誘導ばっかりやってたから」
久保は照れくさそうに頭をかいている。
そういうこともあるだろう、と俺も笑った。
笑いながら、あの夜の白いバックランプを思い出していた。
あいつがあの言葉を口にするのを聞いたのは、あの夜が初めてだ。

久保が品書きを見て、アジの活き造りを頼んだ。
長尾が目を丸くする。
「お前、刺身だめだったろ」
そのとおりだ。
あのころの久保は、生の魚がまるっきり苦手だった。
回転寿司に行っても、玉子とかっぱ巻きばかり取っていた。

皿が来ると、骨の上にきれいに身が並べてある。
アジの口が、まだ少し動いていた。
久保は箸で身をつまんで、うまそうに口へ運んでいる。
「札幌にいるうちに、食えるようになってさ」
十何年も向こうで暮らせば、舌くらい変わる。
俺はそう思うことにした。
久保の後ろで、生け簀のポンプがごぼっと一度鳴る。

長尾があの夜の話を持ち出したのは、十時を少し回ったころだ。
「東金の、あれ、覚えてるか」
「やめろよ、もう」
古川は笑って手を振る。
久保は焼酎のグラスを置いて、少し黙った。
「返事したの、俺だよな」
「お前だよ、窓開けて」
俺が言うと、久保はゆっくりうなずいた。
「なんであんなことしたんだろうな」
グラスの水滴を、久保の指がなぞる。
「あのあとのオーライさ、言ったの、俺じゃないんだよ」

三人とも、箸を止めた。
「俺は後ろで、黙って手を振ってただけ」
「じゃあ、誰が言ったんだよ」
「すぐ後ろで、誰かが言ってた」
久保は、自分の肩ごしに親指を向けた。
「来た道のほうからさ」
生け簀の水音が、急に大きく聞こえる。

俺は、あの声をはっきり覚えている。
白い光の中で手を上げる久保と、オーライの声。
二つはぴったり重なっていた。
重なっていたと、ずっと思いこんでいた。

古川は「俺はバックで必死だった」と言い、長尾は「ずっと目をつぶってた」と言う。
あの夜を確かめる手がかりは、俺の記憶だけになる。
あれは自分じゃないと言うその久保が、今はオーライを口癖にしている。
倉庫の癖だ、本人がそう言ったじゃないか、と俺は胸の中でくり返した。

店を出たのは、十一時の少し前だ。
駅前で、古川と長尾はタクシーに乗った。
久保とは、改札の手前で二人になった。
別れぎわに、久保が俺の左手に目を落とす。
「そうだ、時計」
「時計?」
「お前の時計、あの夜、外に出る前に借りたろ」
「返しそびれたまま札幌に行って、ずっと気になってたんだ」

俺は手首を上げて見せた。
「ここにあるって」
金属のベルトに替えた、あの時計だ。
久保は長いあいだ、黙って文字盤を見ていた。
「そっか」
それから、白い前歯を見せて笑う。

「じゃあ俺、誰の時計を借りてたんだろうな」
久保は、片手を軽く上げる。
「オーライ」
それが、さよならの代わりだった。
あいつは改札を抜けて、一度も振り返らずに階段を上っていった。

家に着いたのは、十一時半ごろだ。
風呂に湯をためながら、一つずつ並べて考えた。
十何年も前の夜のことだ。
四人とも、覚えていることが少しずつずれている。
オーライは倉庫の癖で、刺身は札幌で覚えた味だ。
あの夜、料金所の明かりの下で見た時計は、俺の手首に巻いてあった。
借りたというのは、誰かほかのやつと取りちがえているに決まっている。
そう並べれば、全部に説明がつく。

布団に入ると、手首の秒針の音が、耳のすぐそばで大きく聞こえた。
外して枕元に置いても、音は同じ近さで鳴りつづける。

次の朝、七時過ぎに携帯が鳴った。
画面には、伯母の家の固定電話の番号が出ている。
伯母は、今年で七十八になる。
こんな時間にかけてくるのは、めずらしいことだ。

「あんた、ゆうべ、久保くんって子をこっちに寄越した?」
寝ぼけた頭では、何を聞かれたのか分からずにいた。
「十時ちょっと過ぎにね、玄関のチャイムが鳴って」
伯母の声は、いつもどおりだ。
「出たら背の高い男の子が立ってて、あんたの友だちの久保ですって」
「前に、あんたと麦茶飲んでった子でしょう、前歯の欠けた」
俺は、布団の上で体を起こした。

「若い子だったよ、あのときのまんまで」
「あんたたち、もう三十過ぎでしょう」
伯母はそこで笑って、それから少し黙った。
「おかしいわよねえ」

「その子がね、これを返しといてくださいって、時計」
「時計?」
「わたしがあんたにあげた時計よ、卒業のときの」
「見ればすぐ分かるわよ」
俺は、枕元の時計に手を伸ばす。
秒針は、ちゃんと回っている。

ゆうべの十時過ぎ、久保は千葉の居酒屋で、俺の正面に座っていた。
席を立ったのは、九時ごろにトイレへ行った一度きりだ。
千葉から東金までは、車で往復すれば一時間近くかかる。
それに、伯母は目が弱っている。
白内障で、手術の順番を待っているところだ。
名前も、似た音を聞きちがえたんだと思う。
近所の若い人を見まちがえた、そう考えるのが筋だ。

車に乗る前に、久保の携帯にかけてみた。
呼び出し音が、十回、二十回と鳴りつづける。
切ったあとで、手のひらが汗で湿っているのに気づいた。

千葉東金道路を走って、東金インターで降りた。
あの夜と同じインターだ。
林のほうへ向かう道には曲がらずに、町のほうへ走る。
あのホテルは、今もあの林の中に残っているらしい。
夜は警察が見回っていると、少し前にニュースで読んだ。
今なら、あの細い道に車を入れることもしないと思う。

伯母は、玄関の外で待っていた。
小さな紙袋を、両手で胸の前に抱えている。
「帰りぎわがね、変だったのよ、あの子」
「変って」
「門のところまで、後ろ向きに下がってったの」
「オーライ、オーライって、自分で言いながら」
伯母は、片手を上げて振る真似をした。
「暗いのに、危ないわよねえ」

紙袋の中には、腕時計が一つ入っていた。
安い国産の、針が光るアナログだ。
ガラスの四時のあたりに、小さな欠けがある。
俺の時計にも、同じ場所に同じ欠けがある。
あの夏休みの前に、専門学校の実習で工具箱の角にぶつけてできた傷だ。
ベルトは黒いゴムのまま、ひびも入らずにきれいだった。
俺の時計のゴムは、何年か前に切れて捨てている。

針は止まっていた。
十時十四分。
伯母が、俺の手首と紙袋の中を見比べた。
「あんたのは、どっち」
俺は手首の時計を外して、二つの文字盤を手のひらに並べる。
どっちも、俺の時計だった。

時計は今、二つとも俺の部屋にある。
一つは、いつもどおり左の手首に。
もう一つは、机の引き出しの奥に。
久保の声を聞いたのは、改札の前のオーライが最後だ。

夜、明かりを消して引き出しを開けると、光に当てていない緑の針がぼんやり浮かぶ。
十時十四分。
手首の針も、同じ緑色で光っている。
腕のほうは、秒針がちゃんと回る。
あの夜から、どっちの時計がこっちへ来たのか。
どっちを外せばいいのかも、俺はまだ決められずにいる。

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