奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

渓谷橋で手を打つ 市原・養老渓谷の昼

妻の三回忌を、朝生原の寺で済ませた。
十月の初めの、よく晴れた日のことだ。

寺を出たのが十一時前になる。
娘の美和が運転する車で、養老川沿いの道を奥へ走った。
後ろの席には孫の颯太が座っている。
小学三年で、朝からずっと落ち着きがない。
婿は仕事で来られなかった。
線香の匂いが、まだ上着に残っていた。

妻の実家は、市原市の朝生原にある。
養老渓谷の入口にあたる集落だ。
いまは妻の兄の勝治さんが、一人で住んでいる。
八十一になるが、腰も口もまだ達者だ。
私は七十四で、膝だけが先に年を取った。

妻とは千葉の市内で所帯を持った。
里帰りには何度もついて来たが、渓谷の方へ入ったことは一度もない。
「見るものは何もない」
妻はいつもそう言って、実家の座敷から出ずにいた。
今日は三回忌のついでに、孫に川を見せてやるつもりだった。

宿は勝治さんが取ってくれた。
養老渓谷の温泉郷にある、川に面した古い宿だった。
昼の膳を頼んであるから、早めに入れと言われている。
私たちの車の前を、勝治さんの軽トラックが走った。
宿の駐車場で車を降りる時、杖は座席に置いてきた。
宿の座敷に杖を突いて上がるのは、どうも気が引ける。

宿の玄関の土間に、稲穂の束が掛けてあった。
刈ったばかりで、まだ青みの残る穂だ。
勝治さんは土間で立ち止まり、束を見上げた。
「ここも、まだ掛けてるな」
それだけ言って、靴を脱いだ。
私には意味が分からなかったが、聞き返さなかった。

女将さんが出てきて、勝治さんに頭を下げた。
顔見知りらしい。
「勝治さん、お昼はお部屋に用意してあります」
「頼む」
短いやり取りの間、女将さんは土間の稲穂に目を向けなかった。
勝治さんが見上げたのを知っていて、見ない。
そんな気がしたが、気のせいだろうと思った。

部屋は二階の角で、窓の下が養老川だった。
水音が畳まで上がってくる。
硫黄の匂いが、廊下から薄く流れてきた。
床の間にも、小さな稲穂の束が一つ置いてある。
仲居さんが膳を運び、四人で囲んだ。
新米の飯に、鮎の塩焼き。
「露天は二時半まで、お掃除で閉めております」
仲居さんがそう言って下がった。
勝治さんの眉が、少しだけ動く。
颯太は箸より先に、窓に張り付いた。
「じいちゃん、赤い橋がある」
観音橋だ。
朱塗りの太鼓橋が、川下の木の間に見えている。

「あとで渡ろう」
私がそう言うと、勝治さんの箸が止まった。
「昼飯のあとは、橋を渡るな」
低い声だ。
「二時までだ」
そう言って、卓を指の節で二度、こつこつと叩いた。

美和が笑って聞き返す。
「おじさん、何か決まりがあるの」
「うちの決まりだ」
勝治さんは、それ以上を言わない。
私は膳の飯に目を落とした。
妻の房江は、昼飯のあとに必ず横になる女だった。
旅先でもそうで、四十年ずっと変わらなかった。
妻の実家の癖だと、私は思っていた。

一度だけ、日光へ行った時のことを思い出す。
昼飯のあと、私が神橋を見に行こうと言った。
妻は宿の布団から出なかった。
「橋は夕方」
それだけ言って、壁の方を向いた。
あの時は腹を立てて、一人で見に行った。
帰ると妻は起きていて、何も聞かなかった。

「稲が眠る」
勝治さんが、ぽつりと言った。
「昼の一刻、稲が眠る。
その間は田に入らん。
川も渡らん。
うちでは昔からそう言う」
「眠った稲を踏むと、どうなるの」
颯太が聞いた。
勝治さんは答えずに、鮎の骨を抜いていた。

膳が済む頃、颯太がうつらうつらし始めた。
朝が早かったせいだろう。
箸を持ったまま、首が前に落ちる。
勝治さんが、その顔の前で手を一つ打った。
乾いた音が、部屋の隅まで走った。
颯太が目を開ける。
「眠ったら、手を打って起こせ」
勝治さんは私を見て言った。
「向こうに起こさせるな」
意味は聞かなかった。
聞ける顔ではなかったからだ。
美和は箸を置いて、私と勝治さんの顔を見比べている。
颯太だけが、何事もなかった顔で飯の残りをかき込んだ。

「渡った者がいたの」
美和が、遠慮がちに聞いた。
勝治さんは湯呑みを取って、一口飲んだ。
「渡ったまま、こっちに戻った気のしない者なら、うちにいた」
誰とは言わない。
私も美和も、それ以上は聞かなかった。
窓の外で、川だけが鳴っている。

勝治さんは一時前に帰った。
家は宿と同じ岸にある。
帰るのに橋は要らない。
玄関で見送ると、靴を履きながら、また稲穂の束を見上げていた。
軽トラックの音が、川音に紛れて消えた。

美和と颯太は内湯に行くという。
私は部屋に残ることにした。
膝が悪い。
階段の上り下りを、一度でも減らしたかった。

窓を開けて、川を見下ろした。
十月の日が、川面に白く散っている。
宿の前の川原には誰もいない。
遊歩道にも人影がなかった。
紅葉にはまだ早い。
平日の昼だ。
そんなものだろうと思った。

座椅子に背を預けて、目を閉じる。
水音が一定で、眠気を呼ぶ。
鮎の匂いが、まだ部屋に残っていた。

戸を叩く音で、目が開いた。
こつ、こつ。
二度だ。
「はい」
返事をして、戸を開けた。
廊下には誰もいない。
突き当たりで、仲居さんが布団を抱えて立っていた。
「今、叩きましたか」
「いえ」
仲居さんは首を振って、隣の部屋に入っていった。

古い木の宿だ。
音はよく回る。
隣の戸を叩いた音が、こちらに聞こえたのだろう。
そう決めて、座椅子に戻った。
膝の上に手を置くと、手のひらが汗ばんでいる。

窓の外を、もう一度見た。
川原にも遊歩道にも、やはり誰もいない。
向こう岸の杉が、風で一斉に傾いた。
その風に乗って、稲の匂いが鼻に来た。
刈りたての、青い匂いだ。
宿の近くに田は見えない。
玄関の束と、床の間の束だけだ。
鼻の奥に残る匂いを、川の匂いだと思うことにした。

颯太が風呂から戻ってきた。
髪が濡れて、首筋が赤い。
美和はまだ湯に浸かっているという。
「じいちゃん、さっき呼んだ」
「呼んでない」
「廊下で手を叩く音がした。一回だけ」
「仲居さんが布団を叩いたんだろう」
颯太はそれで納得して、座布団に寝転んだ。

私も頷いて、話を終えた。
布団を叩く音と、手を打つ音は違う。

美和が戻って、颯太の横に寝転んだ。
「ちょっとだけ寝る」
湯上がりの顔が赤い。
すぐに寝息が立った。
二人の寝息と、川の音。
腕時計を見た。
一時十分だった。

私もまた、うとうとした。
目を開けると、座布団の上に颯太がいない。
腕時計は一時二十五分を指している。
廊下に出た。
誰もいない。
便所を覗き、階段の下を覗いた。
隣の部屋の戸が少し開いていて、畳の上に仲居さんが座っていた。
畳んだ布団を抱えたまま、首を前に落としている。
「すみません」
声を掛けたが、まぶたが動かない。
胸は上下している。
叱るつもりで、叱れなかった。
階段を下りて、帳場を覗いた。
女将さんが、帳場の椅子で首を前に落として眠っていた。
声を掛けても、顔を上げない。
息はしている。
肩が規則正しく上がり下がりしている。

玄関を見た。
颯太の運動靴がない。
戸が開いていて、暖簾が風に揺れている。
土間の稲穂の束に目をやった。
揺れていなかった。
暖簾は揺れているのに、穂だけが止まっている。
一度まばたきをして、目をそらした。

玄関脇の貼り紙が目に入った。
「河原側の出入口は、正午から二時半まで閉めております」
二時半。
勝治さんは二時と言った。
三十分の違いを、頭の隅に置いておく。

部屋に戻って美和を起こした。
肩を揺すっても、起きない。
名前を呼んでも、寝息が続く。
湯あたりだろう。
私一人で探すしかなかった。

宿の前の道に出た。
養老川沿いの道だ。
川下に向かえば観音橋がある。
その先に、渓谷橋。
颯太は赤い橋と言った。
観音橋だろう。
私は膝をかばいながら、川下へ歩いた。
杖は車の中だった。

日が高い。
杉の影が、道に縞を作っている。
誰にも会わない。
車も通らずにいる。
土産物屋は戸が開いていたが、中に人の姿は見えずじまいだった。
いや、いた。
奥の丸椅子に、割烹着の女の人が腰掛けている。
首を前に落として、動かない。
声を掛けようとして、やめた。
女将さんと同じ寝方だった。
杉の匂いと、川の冷気が、交互に顔に来る。

遠くで、小湊鉄道の踏切が鳴り始めた。
養老渓谷駅の方からだ。
気動車が木の間を抜けていく音が聞こえる。
人の作った音が、ひどく有り難かった。
踏切の音が止むと、また川音だけになる。

道の脇の斜面に、小さな田があった。
刈り取った株が並ぶ中に、一列だけ稲が残っている。
穂が重く垂れていた。
風が来て、杉の枝が鳴った。
稲は動かない。
穂先の一本も揺れずにいる。
足を止めそうになって、止めずに進んだ。
颯太が先だ。

観音橋に着いた。
朱塗りの橋の上に、颯太はいない。
駐車場に車が一台。
運転席は空だ。
橋の下で、川が岩を噛んでいる。
立國寺へ上がる石段の方にも、目を走らせた。
小さな背中はなかった。
橋には乗らず、たもとの柵に手を掛けて川上を見た。
宿の屋根が、木の間に見える。
あそこで美和が寝ている。
起きていてくれ、と思った。
思っただけで、足は川下へ向いていた。

もう少し川下だ。
養老渓谷駅の方へ、道を下る。
観音橋から渓谷橋までは、ほんの数分の道だ。
膝が軋む。
息が切れて、杉の匂いが喉に貼りついた。
木の間から、灰色の橋が見えてきた。
渓谷橋だ。
観音橋よりずっと高い。
下は岩と、細くなった川。
欄干の向こうに、空しかない。

橋の真ん中に、小さな背中があった。
颯太だ。
欄干の内側に立って、隙間から下を覗いている。
「颯太」
呼んだ。
振り向かない。
首が、前に落ちている。
膳の前で見た、あの落ち方だ。

橋の手前で足が止まった。
勝治さんの声が耳にある。
二時までだ。
腕時計を見た。
一時五十五分。
あと五分。
宿の貼り紙なら、あと三十五分になる。
どちらが本当なのか、私には分からない。
待つという考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
小三の子を、あの高さに五分も立たせておけるか。
私は橋に足を乗せた。

欄干は私の胸より高い。
手を掛けると、鉄の継ぎ目がざらついた。
橋の長さは、年寄りの足で五十歩ほどに見えた。
たった五十歩だ。
そう言い聞かせて、一歩目を出した。

欄干に手を付いて、歩いた。
鉄が日に温もっている。
川音が下から上がってくる。
一歩ごとに、まぶたが重くなった。
昼飯のあとの、あの眠気だ。
膝より先に、目が言うことを聞かない。
妻が昼に横になった顔が、ふいに浮かんだ。

颯太のそばまで来た。
肩に手を置く。
温かい。
息もある。
目は半分開いていて、隙間の先の川を見ている。
私も、つられて下を見た。

橋桁の影が、岩に落ちている。
影の中に、白いものがあった。
岩の上だ。
人の背丈ほどの、白い、細いもの。
それが一度だけ、穂が垂れる向きに傾いた。
それきり動かない。

私は目をそらした。
そらした先で、音がした。
こつ、こつ。
鉄を二つ叩く音だ。
足元の、橋の裏側から。
同じ間だった。

理屈を探した。
下で釣りをしている誰かが、竿を当てたのか。
橋を点検する人が、桁を叩いたのか。
川音が鉄に響いただけかもしれない。
どれも、二度で止まる理由にはならずにいる。
釣り人の姿も、点検の車も見当たらずじまいだ。
腕時計を見る気には、もうなれなかった。
二時を過ぎたのか、まだなのか。
知っても、することは変わらない。

颯太の首が、また前に落ちた。
私の首も落ちかけた。
欄干を握る手の力が抜けていく。
鉄の温もりが、手のひらから遠くなる。
川音が、人の寝息に聞こえ始めた。

勝治さんの手の音を思い出した。
乾いた、一つの音。

私は颯太の顔の前に両手を出した。
力いっぱい打つ。
谷に音が走った。
颯太が目を開ける。
「じいちゃん」
「帰るぞ」

手を引いて、来た方へ歩いた。
欄干には、もう触らなかった。
下は見なかった。

谷の底から、手を打つ音が返ってきた。
一つ。
こだまにしては、遅すぎた。

橋を降りる。
足の裏に、土が戻った。
颯太が、私の手を強く握り返してくる。

背中で、鉄を二つ叩く音がした。

振り向かなかった。

舞台になった場所

千葉県の橋にまつわる心霊スポット「渓谷橋」。養老渓谷の橋下。川の流れが声の距離をさらう。怪談・都市伝説として語られる噂と、現地の空気を追う。

同じ地域の怪談

2026.10.10

十月の半ばの火曜日、印西の現場に着いたのは三時四十分だった。前の現場の生け垣が長引いて、一時間近く押していた。社長からは、日が暮れる前に上が…

2026.10.10

隣に並ぶ市道の跨線橋の欄干に、銀色の風船が引っかかっている。紐が街灯の柱に絡んでいるらしい。風に揺れて、こちらの窓の高さまで浮いてきた。

この地域の心霊スポット

千葉県野田市三ツ堀の心霊スポット「三ツ堀香取神社」。福田村事件の記憶と、夜の境内で語られる足音や人影の噂。現地の空気と、噂の出どころを追う。

千葉県市原市犬成の犬成神社(通称・山王様)について、日吉大神の勧請伝承や大山咋命を祀る神社としての由緒、犬成城・安立寺を含む地域史、男性の唸…

千葉市稲毛区萩台町の白幡大神、通称「白幡神社」。住宅地から続く道と参道を写真で記録し、女性の霊や足音の噂を紹介します。鳥居を抜けたときの音の…

千葉県松戸市主水新田の心霊スポット「まこも池」。主水池とも呼ばれる水辺に、少女の霊、手招き、すすり泣く声の噂が残る。現地の空気と、噂の出どこ…

千葉県勝浦市川津の心霊スポット「川津隧道」。狭い車道トンネル、防空壕跡とされる穴、女性の霊や声の噂が残る。現地の空気と、噂の出どころを追う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました