妻の三回忌を、朝生原の寺で済ませた。
十月の初めの、よく晴れた日のことだ。
寺を出たのが十一時前になる。
娘の美和が運転する車で、養老川沿いの道を奥へ走った。
後ろの席には孫の颯太が座っている。
小学三年で、朝からずっと落ち着きがない。
婿は仕事で来られなかった。
線香の匂いが、まだ上着に残っていた。
妻の実家は、市原市の朝生原にある。
養老渓谷の入口にあたる集落だ。
いまは妻の兄の勝治さんが、一人で住んでいる。
八十一になるが、腰も口もまだ達者だ。
私は七十四で、膝だけが先に年を取った。
妻とは千葉の市内で所帯を持った。
里帰りには何度もついて来たが、渓谷の方へ入ったことは一度もない。
「見るものは何もない」
妻はいつもそう言って、実家の座敷から出ずにいた。
今日は三回忌のついでに、孫に川を見せてやるつもりだった。
宿は勝治さんが取ってくれた。
養老渓谷の温泉郷にある、川に面した古い宿だった。
昼の膳を頼んであるから、早めに入れと言われている。
私たちの車の前を、勝治さんの軽トラックが走った。
宿の駐車場で車を降りる時、杖は座席に置いてきた。
宿の座敷に杖を突いて上がるのは、どうも気が引ける。
宿の玄関の土間に、稲穂の束が掛けてあった。
刈ったばかりで、まだ青みの残る穂だ。
勝治さんは土間で立ち止まり、束を見上げた。
「ここも、まだ掛けてるな」
それだけ言って、靴を脱いだ。
私には意味が分からなかったが、聞き返さなかった。
女将さんが出てきて、勝治さんに頭を下げた。
顔見知りらしい。
「勝治さん、お昼はお部屋に用意してあります」
「頼む」
短いやり取りの間、女将さんは土間の稲穂に目を向けなかった。
勝治さんが見上げたのを知っていて、見ない。
そんな気がしたが、気のせいだろうと思った。
部屋は二階の角で、窓の下が養老川だった。
水音が畳まで上がってくる。
硫黄の匂いが、廊下から薄く流れてきた。
床の間にも、小さな稲穂の束が一つ置いてある。
仲居さんが膳を運び、四人で囲んだ。
新米の飯に、鮎の塩焼き。
「露天は二時半まで、お掃除で閉めております」
仲居さんがそう言って下がった。
勝治さんの眉が、少しだけ動く。
颯太は箸より先に、窓に張り付いた。
「じいちゃん、赤い橋がある」
観音橋だ。
朱塗りの太鼓橋が、川下の木の間に見えている。
「あとで渡ろう」
私がそう言うと、勝治さんの箸が止まった。
「昼飯のあとは、橋を渡るな」
低い声だ。
「二時までだ」
そう言って、卓を指の節で二度、こつこつと叩いた。
美和が笑って聞き返す。
「おじさん、何か決まりがあるの」
「うちの決まりだ」
勝治さんは、それ以上を言わない。
私は膳の飯に目を落とした。
妻の房江は、昼飯のあとに必ず横になる女だった。
旅先でもそうで、四十年ずっと変わらなかった。
妻の実家の癖だと、私は思っていた。
一度だけ、日光へ行った時のことを思い出す。
昼飯のあと、私が神橋を見に行こうと言った。
妻は宿の布団から出なかった。
「橋は夕方」
それだけ言って、壁の方を向いた。
あの時は腹を立てて、一人で見に行った。
帰ると妻は起きていて、何も聞かなかった。
「稲が眠る」
勝治さんが、ぽつりと言った。
「昼の一刻、稲が眠る。
その間は田に入らん。
川も渡らん。
うちでは昔からそう言う」
「眠った稲を踏むと、どうなるの」
颯太が聞いた。
勝治さんは答えずに、鮎の骨を抜いていた。
膳が済む頃、颯太がうつらうつらし始めた。
朝が早かったせいだろう。
箸を持ったまま、首が前に落ちる。
勝治さんが、その顔の前で手を一つ打った。
乾いた音が、部屋の隅まで走った。
颯太が目を開ける。
「眠ったら、手を打って起こせ」
勝治さんは私を見て言った。
「向こうに起こさせるな」
意味は聞かなかった。
聞ける顔ではなかったからだ。
美和は箸を置いて、私と勝治さんの顔を見比べている。
颯太だけが、何事もなかった顔で飯の残りをかき込んだ。
「渡った者がいたの」
美和が、遠慮がちに聞いた。
勝治さんは湯呑みを取って、一口飲んだ。
「渡ったまま、こっちに戻った気のしない者なら、うちにいた」
誰とは言わない。
私も美和も、それ以上は聞かなかった。
窓の外で、川だけが鳴っている。
勝治さんは一時前に帰った。
家は宿と同じ岸にある。
帰るのに橋は要らない。
玄関で見送ると、靴を履きながら、また稲穂の束を見上げていた。
軽トラックの音が、川音に紛れて消えた。
美和と颯太は内湯に行くという。
私は部屋に残ることにした。
膝が悪い。
階段の上り下りを、一度でも減らしたかった。
窓を開けて、川を見下ろした。
十月の日が、川面に白く散っている。
宿の前の川原には誰もいない。
遊歩道にも人影がなかった。
紅葉にはまだ早い。
平日の昼だ。
そんなものだろうと思った。
座椅子に背を預けて、目を閉じる。
水音が一定で、眠気を呼ぶ。
鮎の匂いが、まだ部屋に残っていた。
戸を叩く音で、目が開いた。
こつ、こつ。
二度だ。
「はい」
返事をして、戸を開けた。
廊下には誰もいない。
突き当たりで、仲居さんが布団を抱えて立っていた。
「今、叩きましたか」
「いえ」
仲居さんは首を振って、隣の部屋に入っていった。
古い木の宿だ。
音はよく回る。
隣の戸を叩いた音が、こちらに聞こえたのだろう。
そう決めて、座椅子に戻った。
膝の上に手を置くと、手のひらが汗ばんでいる。
窓の外を、もう一度見た。
川原にも遊歩道にも、やはり誰もいない。
向こう岸の杉が、風で一斉に傾いた。
その風に乗って、稲の匂いが鼻に来た。
刈りたての、青い匂いだ。
宿の近くに田は見えない。
玄関の束と、床の間の束だけだ。
鼻の奥に残る匂いを、川の匂いだと思うことにした。
颯太が風呂から戻ってきた。
髪が濡れて、首筋が赤い。
美和はまだ湯に浸かっているという。
「じいちゃん、さっき呼んだ」
「呼んでない」
「廊下で手を叩く音がした。一回だけ」
「仲居さんが布団を叩いたんだろう」
颯太はそれで納得して、座布団に寝転んだ。
私も頷いて、話を終えた。
布団を叩く音と、手を打つ音は違う。
美和が戻って、颯太の横に寝転んだ。
「ちょっとだけ寝る」
湯上がりの顔が赤い。
すぐに寝息が立った。
二人の寝息と、川の音。
腕時計を見た。
一時十分だった。
私もまた、うとうとした。
目を開けると、座布団の上に颯太がいない。
腕時計は一時二十五分を指している。
廊下に出た。
誰もいない。
便所を覗き、階段の下を覗いた。
隣の部屋の戸が少し開いていて、畳の上に仲居さんが座っていた。
畳んだ布団を抱えたまま、首を前に落としている。
「すみません」
声を掛けたが、まぶたが動かない。
胸は上下している。
叱るつもりで、叱れなかった。
階段を下りて、帳場を覗いた。
女将さんが、帳場の椅子で首を前に落として眠っていた。
声を掛けても、顔を上げない。
息はしている。
肩が規則正しく上がり下がりしている。
玄関を見た。
颯太の運動靴がない。
戸が開いていて、暖簾が風に揺れている。
土間の稲穂の束に目をやった。
揺れていなかった。
暖簾は揺れているのに、穂だけが止まっている。
一度まばたきをして、目をそらした。
玄関脇の貼り紙が目に入った。
「河原側の出入口は、正午から二時半まで閉めております」
二時半。
勝治さんは二時と言った。
三十分の違いを、頭の隅に置いておく。
部屋に戻って美和を起こした。
肩を揺すっても、起きない。
名前を呼んでも、寝息が続く。
湯あたりだろう。
私一人で探すしかなかった。
宿の前の道に出た。
養老川沿いの道だ。
川下に向かえば観音橋がある。
その先に、渓谷橋。
颯太は赤い橋と言った。
観音橋だろう。
私は膝をかばいながら、川下へ歩いた。
杖は車の中だった。
日が高い。
杉の影が、道に縞を作っている。
誰にも会わない。
車も通らずにいる。
土産物屋は戸が開いていたが、中に人の姿は見えずじまいだった。
いや、いた。
奥の丸椅子に、割烹着の女の人が腰掛けている。
首を前に落として、動かない。
声を掛けようとして、やめた。
女将さんと同じ寝方だった。
杉の匂いと、川の冷気が、交互に顔に来る。
遠くで、小湊鉄道の踏切が鳴り始めた。
養老渓谷駅の方からだ。
気動車が木の間を抜けていく音が聞こえる。
人の作った音が、ひどく有り難かった。
踏切の音が止むと、また川音だけになる。
道の脇の斜面に、小さな田があった。
刈り取った株が並ぶ中に、一列だけ稲が残っている。
穂が重く垂れていた。
風が来て、杉の枝が鳴った。
稲は動かない。
穂先の一本も揺れずにいる。
足を止めそうになって、止めずに進んだ。
颯太が先だ。
観音橋に着いた。
朱塗りの橋の上に、颯太はいない。
駐車場に車が一台。
運転席は空だ。
橋の下で、川が岩を噛んでいる。
立國寺へ上がる石段の方にも、目を走らせた。
小さな背中はなかった。
橋には乗らず、たもとの柵に手を掛けて川上を見た。
宿の屋根が、木の間に見える。
あそこで美和が寝ている。
起きていてくれ、と思った。
思っただけで、足は川下へ向いていた。
もう少し川下だ。
養老渓谷駅の方へ、道を下る。
観音橋から渓谷橋までは、ほんの数分の道だ。
膝が軋む。
息が切れて、杉の匂いが喉に貼りついた。
木の間から、灰色の橋が見えてきた。
渓谷橋だ。
観音橋よりずっと高い。
下は岩と、細くなった川。
欄干の向こうに、空しかない。
橋の真ん中に、小さな背中があった。
颯太だ。
欄干の内側に立って、隙間から下を覗いている。
「颯太」
呼んだ。
振り向かない。
首が、前に落ちている。
膳の前で見た、あの落ち方だ。
橋の手前で足が止まった。
勝治さんの声が耳にある。
二時までだ。
腕時計を見た。
一時五十五分。
あと五分。
宿の貼り紙なら、あと三十五分になる。
どちらが本当なのか、私には分からない。
待つという考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
小三の子を、あの高さに五分も立たせておけるか。
私は橋に足を乗せた。
欄干は私の胸より高い。
手を掛けると、鉄の継ぎ目がざらついた。
橋の長さは、年寄りの足で五十歩ほどに見えた。
たった五十歩だ。
そう言い聞かせて、一歩目を出した。
欄干に手を付いて、歩いた。
鉄が日に温もっている。
川音が下から上がってくる。
一歩ごとに、まぶたが重くなった。
昼飯のあとの、あの眠気だ。
膝より先に、目が言うことを聞かない。
妻が昼に横になった顔が、ふいに浮かんだ。
颯太のそばまで来た。
肩に手を置く。
温かい。
息もある。
目は半分開いていて、隙間の先の川を見ている。
私も、つられて下を見た。
橋桁の影が、岩に落ちている。
影の中に、白いものがあった。
岩の上だ。
人の背丈ほどの、白い、細いもの。
それが一度だけ、穂が垂れる向きに傾いた。
それきり動かない。
私は目をそらした。
そらした先で、音がした。
こつ、こつ。
鉄を二つ叩く音だ。
足元の、橋の裏側から。
同じ間だった。
理屈を探した。
下で釣りをしている誰かが、竿を当てたのか。
橋を点検する人が、桁を叩いたのか。
川音が鉄に響いただけかもしれない。
どれも、二度で止まる理由にはならずにいる。
釣り人の姿も、点検の車も見当たらずじまいだ。
腕時計を見る気には、もうなれなかった。
二時を過ぎたのか、まだなのか。
知っても、することは変わらない。
颯太の首が、また前に落ちた。
私の首も落ちかけた。
欄干を握る手の力が抜けていく。
鉄の温もりが、手のひらから遠くなる。
川音が、人の寝息に聞こえ始めた。
勝治さんの手の音を思い出した。
乾いた、一つの音。
私は颯太の顔の前に両手を出した。
力いっぱい打つ。
谷に音が走った。
颯太が目を開ける。
「じいちゃん」
「帰るぞ」
手を引いて、来た方へ歩いた。
欄干には、もう触らなかった。
下は見なかった。
谷の底から、手を打つ音が返ってきた。
一つ。
こだまにしては、遅すぎた。
橋を降りる。
足の裏に、土が戻った。
颯太が、私の手を強く握り返してくる。
背中で、鉄を二つ叩く音がした。
振り向かなかった。
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